『1Q84』再読(Is)

村上春樹『1Q84』の第三巻発売まであと1ヶ月くらいになりました。

ということで、再読。(→以前の感想はこちら

自分として、1,2巻でここが気になった。
3巻でどうなるかなという覚え書きです。
【完全ネタバレなので、未読の方は、ご注意を!】

・まず、これは、いくらか指摘されてますが、
天吾章と青豆章の構造について。
青豆章ってのは、実は、天吾の書いている小説なのではないかということ。
実際、度々、天吾が長い小説を書いてるという描写はでてくる。
そして、例えば1巻p.550で、天吾が月が2個ある世界の物語を書こうとしていた…、みたいにあります。
2巻p82では、青豆が、「これは本当の現実なのだろうか」なんて疑って。
だから、実は、この話に出てくる、「青豆」ってのは、10歳の子どもの頃の青豆をベースにした、あくまでも天吾の創作の、想像の30歳になったフィクショナルな「青豆」ではないかと考えられる。
実際、青豆章では月が2つあり、警察官の服装が突然替わったり、超能力あったりとリアリズムな世界ではないけど、天吾の方は、リアリズム小説です…途中までは。
しかし、2巻の後半(18章)あたりで、おかしなことになってくる。天吾章でも、月が2つになるのですね。最終章では、父の病院で、とうとう、ふかえりの小説の「空気さなぎ」が実体化し出す!
…つまり、創作世界(青豆章なり、『空気さなぎ』)だと思っていたものが、現実世界(天吾章)に闖入し出すのです!!
そうしてみると暗示的なセリフがいろいろあって、
2巻p249では「心から一歩も外に出ない物事なんてこの世界には存在しない」だとか、2巻p425「現実が比喩を真似る」とか。

・あと、これは、社会学者大澤真幸氏がよく使う概念で「偶有性」(偶然と必然の間のような概念)、つまり、今ある現実は1つなのだけど、その現実はいつも「他であり得た」可能性の世界の束と合わさって出来ているというようなことを想起しました。
受験で落ちたかも知れないけど受かった。山登りで死ぬ可能性もあったけど生きて帰ってきた。何か大きなチャレンジをして、失敗するなり成功するなり、違う可能性があり得て今を生きてる人と、何も〈賭け〉をしないで、ただ決められた今を生きてる人では、やはり「違う」…ということは、そんなにオカルトなことではなくて普通に人生経験のある大人なら見抜けるはずです。
(大澤は『MD現代文・小論文』(←これよい本です。)の巻頭の長大な自由論で、阪神淡路の震災で、偶然その日起きる時間がずれて、死ななかった女性の話を例に出しています。その後、彼女は身体としては死んでないのだけど、まるで死んだように生きたと。偶然生きている今に現実感を持てないと。)
…話は飛びますが、保坂和志さんって、僕は、実は村上春樹さんとすごく親和性が〜あるいは補完性が〜あるように考えています。(書く世界が違いすぎてそう考えられませんが)。
1Q84を読んで更にその確信が強まった。
保坂は、しばしば精神分析的な小説を批判します。なぜなら、トラウマになるような悲惨な体験をすることはあるだろうと、しかし、多くの人は、そうした体験を経ながらも尚、まともに生きていると。それこそが、最大の小説のテーマだろうと。普通こそ最大の不思議だと。異常を描いてどうすると。
春樹も保坂も、実は、そうした
【現実を生きる不思議】を異なる側面から描いてるのだと思います。
春樹は非日常な面から、保坂は日常な面から。
実際に、1Q84は、そうした言及が頻出します。
最初のタクシー運転手からまず怪しい。
p23「現実はひとつしかありません。」…こんなタクシー運転手いたら気持ち悪いです。(笑)

・あと、やはり「リトル・ピープル」ってのがかなり重要な要素になってくるのだけど、それは何を意味してるのだろうか?
オーウェルのビック・ブラザーという中央集権型の権力に対して、
フーコー的な微視権力を想像するのは、あまりに優等生的すぎるか!?
ただ、先日のイスラエルのスピーチでも「システム」を問題視していて、
そうしたシステム自体も、結局は我々ひとりひとりのの欲望の蓄積が、どこかで主体化する、そういう高度資本主義的な問題を表しているのかなと思いました…が、これだと『ダンス・ダンス・ダンス』の20年前の問題設定だなー。

やっぱり、村上自身、今回は、オウムの事件をかなり意識していて、そこで、意外と原点回帰を真剣に考えなければいけないと思ったのだと思う。つまり、もともと春樹文学って、近代的な都市生活で、個人で、主義のない、優しく、軽やかな、オシャレで楽しければ問題ない。政治からも距離を取り、人間関係もドライで…って、造形なんだけど、バブル崩壊後の日本がたどった道を見て、やっぱり「物語」必要だと。
冷戦終結までは、残滓といえどもマルクシズムが一応対立項になっていた。しかし、それ以降、自由競争で、世界はどんどん貨幣価値に換算されていって…すごく一元的。良いことも正しくもない。…オウムはその辺をうまく吸収したのだろうと。
最近だと、カツマーみたいなのも、あれは物語作家ですよね。自己啓発してる間は心休まるわけで(→その辺を、ちきりんさんがうまく表現してます。ワタシなんか、まさにカモだ!)。
結局は、絶対的な解答はなくて、2巻11章「均衡そのものが善なのだ」とあるように、世界はいつでもカウンターがありつづけて、生きてるうちは自転車操業ってのが、暫定的な解なのではないかと思う。(…だからこそ、「安定」求めちゃうのよね。…死んだらずっと安定できるのに…。)
村上は、今回書くに当たり、「長さ」を最初から意識したらしい。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を「総合小説」の1つの理想として、その条件として、「とにかく長いこと」って言ってた。(…そいえば、保坂も「小説は読んでる時間にのみ存在する」なんて言ってたかな?)
なんか、この辺は、「生きてること」にも通じますね。
「悩みもがいてる間にのみ〈生〉は存在する。それが条件だ!」って。
…しかし、その悩みもがくためにも、知的生命体の人間には「物語」が必要なのでしょう。そして、その物語は1つに凝り固まるべきではない。「均衡そのものが善なのだ」ろう。

・他にも、「記憶」、「時間」、「宗教」、「家族」、「愛」、「原因と結果」など、テーマは尽きませんが、その辺は、またいずれ。

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『1Q84』再読(Is) へのコメント一覧

  1. 1.
    • RYM
    • 2010年03月11日 15:02

    たのしみですね。ミステリーの形を借りたなにかだと思っているのですが、通常のミステリーよりも散りばめられた謎やキーワードが不穏すぎますね。全共闘、オウム、ヤマギシ、ものみの塔など、それ自体は特別ではないですが、各キーワードがうまく作用しているせいか「これからとんでもないことが起こるぞ」という予感ばかりが膨らみます。
    「このミステリーがすごい!」でも選者の人が「今年のミステリー一位は1Q84では?」と書いていたのが興味深かったです。

    また、回収されていない伏線がどうなるか興味深いです「猫の街の小説」とか「長い手を持った集団の正体」とか・・・上げればキリないですが。
    ただ、Isの現実議論にのっとって、「伏線なんか回収されないのが現実だ!」みたいに一切回収しないおそれもあるな〜というのは怖いです笑
    回収しない場合が効果的になる場合も有りますが、だいたいは「思わせぶり」で終りだから・・・

    1,2巻を実家に送り返したので読みなおせないのが残念!三巻を子供のように楽しみにすることにします。

  2. 2.
    • Is
    • 2010年03月14日 09:04
    そっか、1Q84を「ミステリー」という軸で読む方法もあるのね。それは、思いつかなかった。
    いい小説や物語は、多様な受け皿としての役割を担えるモノなのかもしれないですね。
    ドストエフスキーとかも、その時代時代で新しい再解釈で、新しく甦る。
    …誰がっけ?(江藤淳だっけな?)、
    良い読み手がいれば、どんな悪い小説でも良い小説になる…というようなことを言っていて、僕はこれはすごく真理を言い当てていると思った。価値は相対的な関係の中にありと。

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