クランの城の中には用心棒がいた。ジャイアント、ネクロマンサー、そしてバルキリーちゃんだ。彼らは夜襲に備えてクランの城の宝物庫のそばでじっと息を潜めていたのだ。

 今まさに「嵐」は吹き荒れようとしていた。とてつもなく大きな揺れが村を襲った。タウンホールから離れたところに並立する壁がぼろぼろになって崩れ去るのが見えた。村の防衛施設の攻撃が始まり、私たちはタウンホールの玄関口で開戦の様子を窺った。暗くてはっきりとは見えないけれど、村を襲う「嵐」が横一列に広く展開して迫ってきているのがわかった。

「さあ、早く!」村人が私の腕を引っ張った。私はその光景を見なければよかった。戦いはすでに始まっているのだ。足がすっかり竦んでしまっていた。バルキリーちゃんが目の前にいるのに私の手足はちっとも踏ん張れなかった。まだ地面がぐらぐらと揺れ続けているような感覚があった。村人が私の腕を引っ張った。

「ねえ、ちょっと」足のないネクロマンサーが言った。「どうせあの規模じゃあ、私たちがどんなに頑張ったって全壊は免れないわよ」彼女は羊の角のようなものが生えている骸骨の付いた杖で、地面を一度たん、と叩いた。地中からぼこぼこぼこと彼女の手先のスケルトンが沸いて出てきた。「私と私のスケちゃんで、何とか時間は稼いでみるけどね」

「あんた、俺を肉の壁にしなさいよ」巨漢のジャイアントがネクロマンサーに言った。彼の身体は私の身体三つ分くらいはあった。

「あんたはこのスカート履いたお姫様を守ってなよ」バルキリーちゃんがジャイアントを見上げて言った。

「あんたたちがこの村のチーフの護衛をしなさいな」ネクロマンサーが二人に言った。

「はあ? あんた何様のつもり?」バルキリーちゃんが言った。

 私は混乱しきりで何を言うこともできなかった。あんた、あんた、あんた。みんな誰かをあんた呼ばわりだ。

「何を悠長に!」村人が言った。「それではこうします。ネクロマンサーとジャイアントがここで時間稼ぎ、もとい防衛を。この中でいちばん足の速いバルキリーがチーフの護衛を」

 護衛? 護衛ってなんだ?

 バルキリーちゃんは軽く舌打ちをすると、背丈ほどもある柄の長い金色の斧を肩に背負った。「わかったよ。ほら行くよ」

 ネクロマンサーがバルキリーちゃんに話しかける。私はそれをぼけっとして眺めている。村人が私の手を握る。

「ここでお別れです、チーフ」

「お別れ?」私はやっとの思いでそれだけたずねた。何かが爆発する音が少し遠くのほうで聞こえた。何もかもに現実味がない。彼女の手のあたたかさにすら現実味がない。私の膜の張った意識だけがゆらゆらと上下左右に揺れ動く。

「名前、楽しみにしていますからね」そう言って笑った村人に背中を突き飛ばされた。私は村人に握られていた手を今度はバルキリーちゃんに握られた。足のつま先が引っかかって転びそうになったけれど、バルキリーちゃんに引っ張られて私はタウンホールの中に入った。

「ちんたらしない!」バルキリーちゃんが言った。でも私の足はもつれたまま。とても速く動けそうにない。子鹿みたいな足の震え方をしている私を見て、バルキリーちゃんは「しかたないなあ」と呟いてふところから何かを取り出した。

「これはなあ、今さっきネクロの奴からもらったとっておきなんだ」

 角張った長細い小瓶だった。中にはピンク色の液体が入っており、バルキリーちゃんは私のふとももから足先に向かってそれを流しかけた。ぐん、と足に一本ずつ軸ができて、私は急に走り出した。走りたいと思ったわけではないのに、私の足は私の勝手を離れてきびきびと動いた。バルキリーちゃんは私の後ろを走った。

 私たちは地下の奥の奥にある隠し扉を開けて、トンネルを走った。狭いトンネルだ。ひとりぶんの横幅しかない。暗くてじめついている。二十メートルくらいの間隔でランプが設置されてあるけれど、光源は全然足りない。足元が見えづらい。それでも私の足は一切つまずくことなく走った。

どぉん、どぉん、どぉん。木や金属が砕けて消し飛ぶ音が地下まで響いてくる。

 どぉん、どぉん。どぉん。どぉん、どぉん、どぉん。

「走れ! とにかく走れ! それだけに集中!」バルキリーちゃんが怒鳴った。彼女は背後を気にしている様子だった。それを見て私も気になってきた。でも私は彼女の言うとおりに走ることだけを考えようとした。けれどうまくいかなかった。それでも足は動いた。うねうねと曲がりくねるトンネルをひた走った。こんなじめついたところに来るのはもちろん初めてのはずなのに、私の足は出口をしっかりと記憶しているみたいな明快さで迷わず動いた。樹木の根のような分かれ道に幾度も差しかかったけれど、私の足は一切の躊躇なく道を選んだ。頭の中はころころした小石がぎゅうぎゅうに溜まっているみたいにがちがちとしてくつくつとしていた。全てに実感が伴わず、寸分の狂いもない目覚まし時計の内部の歯車に、私の肉体は挟み込まれているような気がした。自分の意思に関わらず万事がオートマチックに進行し、やがて歯車が私の肉体をばらばらにしてしまうのかもしれなかった。走ることも、息をすることも、小石の振動すらオートマチックだ。体験しているものに伴う実感はいったいいつやってくるのだろう? 私は今何をしているのだろう?

 バルキリーちゃんが私の腕を掴んだ。私の足はしばらく空転し、やがてオルゴールのねじが切れたみたいにゆっくりと動きを止めた。

「静かに」バルキリーちゃんは私の手をぐっと握りこんだまま、後方に耳をそば立てているようだった。彼女の手は村人のそれよりずっと大きくてがさつでごつごつとしていたけれど、村人と同じくらいあたたかかった。そのあたたかさが私の存在を『現実』に繋ぎ止めてくれた。どうやら私はまだここにいるらしい。急に、バルキリーちゃんが私の目と鼻の先にいることに対して、恥ずかしさがこみ上げてきた。気を落ち着かせるために何度か深呼吸をすると、トンネルの湿り気を帯びた土のにおいと、バルキリーちゃんの首筋から鎖骨にかけてのコロンの香りがはっきりと感じられた。バニラっぽい、甘ったるいの。私はてっきり、彼女は柑橘系を好むとばかり思っていた。私はイメージでものを語るべきでないのだ。でも、イメージこそが私の全てだ。イメージがはっきりとした実感を私にもたらしてくれる。

 私の意識は膜を突き破り、さらに明確に実感を取り戻す。私の鼻の先に大粒の汗が溜まって、上唇に落ちる。トンネルに等間隔に吊り下げてあるランプが、地上からの振動できぃきぃと揺れ動く。いろんなことが克明に実感できてくると、今度は急に、心細くなり始めた。彼らは――いや、村のたくさんの住人たちは――無事なのだろうか? 村人さんは?「嵐」はいつおさまるのか? バルキリーちゃんは、この先も私に付いてきてくれるのだろうか?

「どうやらまずいことになっちゃったみたいだな」とバルキリーちゃんが言った。「付いてきてるよ、一匹やばいのが」