「やばいの?」私はたずねた。

「うん、やばいの。足、どうだ?」

 私は自分の足を試しにその場で動かしてみた。先ほどまで感じていた強力な軸感覚は消え失せていた。

「呪文の効果は切れちゃったみたいだな」とバルキリーちゃんは言った。

「でも、まだ走れると思う」と私は言った。

「五十メートルいくつで走れる?」とバルキリーちゃんはたずねた。

「えっと、九秒?」

「おっそ」バルキリーちゃんは露骨にがくりとした。「私なんてコレ持ったままで七秒台は余裕に行けるよ。まあこんなこと言ったって何も始まらないし、とりあえず走れるだけ走るか」

 私たちは再びトンネルを進み始めた。

「ねえ、さっきの液体はもうないの?」走りながら私はたずねた。

「残念ながら、各種一本きりなんだ」バルキリーちゃんが言った。

 各種?

「各種?」

「うん。とっておきのがあと二本。でも、こんな狭いトコじゃあな」

「広い場所に出たら、それで迎え撃つの?」

「それもいいかもな」

 バルキリーちゃんは笑った。私もよっぽど笑いたかったけれど、息が乱れていて全然笑えるような余裕はなかった。

 冷静になって考えてみれば、今はまったく笑える状況じゃないし、そもそも私はへらへらと笑っていい人間ではないのだ。こんなに切羽詰まった状況に陥った原因は私にあるのだから。もしあのとき村人の言うことに素直に従って行動していたとしたら。でも、そうしていたらバルキリーちゃんはここにいなかった。彼女は勇猛に地上で戦っていただろう。そして「嵐」に八つ裂きにされていただろう。

 あのネクロマンサーとジャイアントも今頃は。彼女と彼とは、どこかで会ったことがあるような気がする。いったいどこで? でも、確かに会った、さっきが初めてではない。それとも、似た人物と何度か出会ったことがあるだけ? 彼らの類型と。同じ「まなざし」。私は、彼らと様々な場所で出会い、話し、別れ、そして再び、同じ「まなざし」を持った違う彼らと出会う。それを繰り返す。つまりそういうことなのだろうか? だから私は見ず知らずのバルキリーちゃんと親しげに言葉を交わせる? でも、私はバルキリーちゃんと一言も喋ったことがない。私はバルキリーちゃんを想うことしかしていない。頭の中の小石が、頭蓋の小さな隙間を、ころ……と静かに転がる。私にとってバルキリーちゃんとは、願望と妄想と無意識の入り混じったイメージの塊だった。

 そのとき、こもった空気の圧が下がり、風が前方から吹いてくるのを感じた。視界が開ける。私たちは出口に通じる広場に出ることができたのだ。

「なあ。言わなきゃいけないことがある」とバルキリーちゃんは言った。

「なに?」

「あれを見てみな」

 風の吹くほうに目をやると、そこには高い石の断崖があった。頼りなさ気な縄梯子が一つかかっている。月明かりが地下に差し込んできている。

「あれを登ったら、外に出られる?」と私はたずねた。

「うん。でもな、外に出られるのはチーフだけなんだ」とバルキリーちゃんは言った。

「え?」

「チーフだけがこっちとあっちを行き来できるのさ。私たちにはできないんだ」

「バルキリーちゃん?」

「仕組みが違うんだ」とだけバルキリーちゃんは言った。

トンネルのほうから不吉な音が聞こえてきた。

 ガッシャ、ガシャ、ガッシャ、ガシャ、ガッシャ、ガシャ。

 ビーギュ、ギィギギィ。ザザザ。

 ガッシャ、ガシャ、ガッシャ、ガシャ、ガッシャ、ガシャ。

 ビーギュ、ギィギギィ。ザザザ。

 ガシャ、ガシャ、ガシャ、ガシャ、ガシャ、ガシャガシャガシャガシャガシャガシャ。

 ガシャン。ビーギュ、ビービービーギュ、ギィギギィ、ザザザザ。

 何かがやってくる。周波数の合わないラジオみたいなノイズがかった音と、金属の擦れ合う音を響かせながら。

「バルキリーちゃん」私は彼女の名を呼んだ。「バルキリーちゃん」

手が小刻みに震えた。バルキリーちゃんに手を握ってほしかった。でも彼女の手は私の手ではなく金の斧をぐっと握りしめていた。斧に嫉妬するほど私は馬鹿ではない。全身から流れ出る汗が、冷たい風で冷やされる。

 バルキリーちゃんは赤い液体の入った小瓶を足元に投げた。ぬめぬめとした赤い液体の中から数体のスケルトンが現れた。彼女は片手に金の斧を、もう一方の手にオレンジ色の液体の入った小瓶を持って、私から離れていった。彼女の後ろ姿を見て、私は彼女をもう引き止められないのだと痛感した。何をどう願っても、最後の最後にはひとりでこの縄梯子を登って、私はここから出なければいけないのだ。村人はきっとそのことを私に伝えたかったのだ。彼女は私のために戦ってくれるのだ。私のために。

「バルキリーちゃん!」私は叫んだ。「私たち、また会える?」

「会えるよ!」バルキリーちゃんは振り返らずにそう言った。

「よかった!」私は言った。バルキリーちゃんは小瓶を持った手を高く振り上げた。

 私たちは再び会わなければならない。だって、私にはまだ用事があるのだから。伝えていないことがあるのだ。貸したものを返してもらわないといけないのだ。

 ビーギュ、ビービービーギュ、ギィギギィ、ザザザ。

 ビーギュ、ビービービーギュ、ギィギギィ、ザザザ。

 その音はまるで私の頭の中から響いてくるみたいだった。頭の中の小石が暴れだす。ぐつぐつと沸き立って、柔らかなひとつになる。私は縄梯子に手足をかける。登る。縄梯子はふらふらと揺れ、不安定だった。一心不乱に登った。背後からはもう何も聞こえてこない。上だけを見て登った。登った。

 縄梯子を登りきると、洞穴に出た。ここをまっすぐに進めば、外だ。

振り返って断崖のほうを見下ろした。さっきまで私と彼女がいた広場は全く見えなかった。目を凝らしてみても、月の光が届いていたはずの広い空間などどこにも見えなかった。くらやみだけが無尽蔵に広がっていた。私は急に怖くなって、その場から逃げ出すように洞穴を走った。怖いのと、不安なのと、悲しいので、涙が出てきた。

 出口に近づくと、淡い月の光ではなく眩い蛍光灯の白い光が私を出迎えた。デパートの非常口を開け、外に出た。歩いて駅の自転車置き場に向かった。私の自転車はなかった。延々と泣きながら、歩いて家に帰った。巡回中のおまわりさんに見つかっていたら、私は補導されていたかもしれない。でも幸いなことに、歩いているあいだは誰とも会わなかった。自宅の玄関の鍵はかかっていなかった。家の中は暗かった。両親は寝静まっていた。それはそうだ。もう夜更けだ。自分の部屋に戻り、ティッシュで鼻をチンとかんだ。スマートフォンを確認すると、津村くんからメッセージが届いていた。『36 』とだけ書いてあった。

制服を脱ぎ、ベッドの脇に綺麗に畳まれたパジャマを着て、ベッドに潜り込んだ。ベッドはぬくもりもなく、つめたくなっていた。あんなに長いあいだ留守にしていたのだから、ベッドがつめたくなっているのも当たり前だ。当たり前なのだ。

 私はもうぐったりと疲れていた。けれど最後の気力を振り絞って、机の上に置きっぱなしにしてあったスマートフォンを手に取り、クラッシュオブクランを起動した。画面には跡形もなく全壊された私の村が存在した。私の村は自己修復を始め、数秒後には元通りになった。アーミーキャンプでバーバリアンとアーチャーとジャイアントがたくさんたむろしているのが見え、大工の小屋をスライドさせると暇を持て余した大工が昼寝をしているのが見え、村全体を見渡すと何人かの村人たちがタウンホールと施設のあいだを行き来しているのが見えた。私はユニットや大工や村人たちのことを、個として判別することが全くできなかった。それが私をどうしようもなく悲しくさせた。けど、どうして悲しいんだっけ? 私は何かとても大事なことを忘れている気がする。もう、頭の中からは何の音もしない。しん、と静まり返っている。

 全てのトラップを再利用して復活させると、クラッシュオブクランを閉じた。もう何も考えられない。目を閉じると、穏やかな眠りの波がやってきた。

 

 

 

 驚くべきことが三つある。

 一つ目は、津村くんが私よりも早い時間に登校してきたこと。こんなことは初めてだ。

「久しぶり」津村くんは言った。

「久しぶり」私も言った。

「もうすっかり、体調は良くなったの?」

「うん。もうすっかり」

「それにしてはクマが酷いけど?」

「ちょっと寝不足なだけ」

 鞄から勉強道具を取り出して、机の中に入れる。

 ころころ。何かが転がる音がする。

 机の中を覗き込んだ。

 鉛筆があった。

 プラスチックキャップをかぶった鉛筆があった。それを手にとって眺めた。どこからどう見てもそれは私の鉛筆だった。

 鉛筆が戻ってきたこと。これが驚くべきことの二つ目。

「どうしたの?」津村くんがたずねた。

「これ。机の中にあったの」私は彼にその鉛筆を見せた。

「失くしたって言っていたやつ?」

「うん」

「はじめから机の中にあったんじゃないの?」津村くんは言った。

「そんなはずない」私は言った。そんなはずない。絶対にそんなはずはない。

「それじゃあきっと、妖怪が返してくれたんだな」津村くんは言った。「横山さんが学校を休んでいるあいだにさ」

「そうか。そうだね」私は言った。「妖怪退治に成功したんだよ、私」

「それはよかった」津村くんは笑った。私も笑った。本当は、私が退治したわけではない。

 私はその鉛筆からプラスチックキャップを外そうと思ったけれど、やめた。誰も使っていないのなら鉛筆の芯は尖ったままだろう、きっと。

 驚くべきことの三つ目は、一限目が始まる前にちゃんと川手さんが登校してきたこと。

 久しぶりにクラス全員が揃ったわけだ。

 その日のお昼休み、川手さんはお弁当を携えて教室を出ていった。きっと屋上で食べるつもりだ。給水塔の貯水タンクの横で、ひっそりと食べる気に違いない。

私はもうイメージだけで自己完結させるつもりはなかった。私もお弁当を携えて席を立った。

 そのとき、松原くんも席を立った。川手さんが出ていった扉のほうに目が向いている。その手には惣菜パン。惣菜パン一個で身が持つなんて信じられない。

 私は松原くんよりも先に教室を出ようとする。でも、松原くんのほうが廊下に近いし、なんだか彼はちょっと急いでいる。目的が一緒だなんて、まさか。それとも、私が学校を休んでいるあいだに、二人のあいだに何か接点が生まれたのだろうか。そんなこと、考えたくない。

「ねえ松原」隣の席の津村くんが、松原くんに声をかける。松原くんの足が止まる。

「なんだよ津村?」

「お前、今日の昼飯それ一個なの?」

「はあ?」

 津村くんは私の心を読んでいるのだろうか? それとも私と津村くんは似たもの同士なのだろうか? とにかく彼はナイスアシストをした。私は初めて津村くんに感謝した。もちろん心の中で。

 足が止まった松原くんの横を通り過ぎて、私は屋上へ向かって足早に歩いていった。



(了)