第二部「彼女の不在・泥酔」






彼女は目覚めなかった。

彼女は静かに寝息を立てながら祭壇に横たわるようにして眠っていて、今にもすっと目を開けて起き上がってきてもおかしくなさそうに見えた。
けれどもやはり彼女は目を覚まさなかった。

三番目の大工と四番目の大工が彼女の様子を見に来た。
彼らは何やら独り言の応酬みたいな会話をひとしきり続けてから、うんうんと頷いた。
「まあ心配はないさ。」と四番目の大工が言った。
「きっと三日もすればひょっこりと起き出すよ。」と三番目の大工が言った。
「いったいどうなっているんだ?」と僕は訊いた。
「きっと栄養源のダークエリクサーが足りないんだ。」と四番目の大工が答えた。
「ダークエリクサーとミルクと野菜のシェイクを毎日経口摂取してあげれば、健康には問題ないと思うよ。」と三番目の大工が答えた。
二人の飄々とした物言いは癪に障った。
ダークエリクサーとミルクと野菜のシェイクなんて、どうミックスしたって美味しくなるわけがない。

毎日三回、定時に村娘と四番目の大工がやってきて彼女の世話をした。
まるで介護だ。実際それは介護だった。

彼女と彼女の祭壇は、庭園のそばの木陰に移された。テントと蚊帳を張り、そば枕を起き、シルクのシーツを敷き、そこで彼女はすやすやと眠り続けた。
僕は日に何度も、彼女に会いに行った。
村の状態や資源稼ぎの進捗、日常的に起こる些末な出来事まで彼女に向かって話しかけた。
反応が返ってくることを期待しながら。
もちろんそんな期待は常に裏切られ続けた。
物事は基本的にはそんなに上手くいかない。特に強く望むものほど、強く思い描くものほど、却ってそれに近づくことができないなんて、よくある話だ。

彼女との日々の習慣を失った僕は、空になったビールジョッキみたいに何の価値もない男に成り下がっていた。いわゆる腑抜けというやつだ。
ジョッキに新しいビールを注がなければならなかったが、誰も彼もが飲みたい分だけのビールを自分のグラスにのみ注いでいた。

彼女が眠り続けていても村の様子が変わることはなかった。
少々資源狩りが大変になったと、住人たちがやたら愚痴をこぼすだけだ。

僕は先陣を切り、ダークエリクサーを執拗に狙い続けた。返り討ちに遭うこともしばしばだったが、とにかく毎日こつこつと資源を集めに行った。
どんなに腑抜けようと、仕事は仕事だ。
やるべきことは最低限でもやらなければならない。


一週間が経ち、それでも彼女は目覚めなかった。
二週間が経ち、それでも彼女は目覚めなかった。



彼女が眠り続けてもう一ヶ月が経とうとしていた。
すでに春は花開き、小鳥たちが鳴いていた。
魔法の森は植物の露にきらめき、健やかな海風が村の隅々にまで吹き渡る。
彼女の不在だけが、ぽかりと空いた大きな穴だった。



互いの居場所を守り合おうと言ったじゃないか。
あれは嘘だったのか?



いや……。
それともあれは、何かのサインだったのか?



僕は何かを見逃しているのだろうか?
決定的な何かを。



三番目の大工に飲みに誘われた。珍しくその日は暇だったようだ。
「いやあ、お前さんが頑張ってくれてるおかげで、こっちは休む暇もほとんどないよ。嬉しい悲鳴さ。村は発展した。以前よりもさらに。以前よりもずっと。」
僕はジャイアント用のかなり大きめなスツールに座り、店員の村娘にエリクサービールを二つ注文した。
大工は怪訝な顔をした。
「おい、どうしてダクエリビールを飲まない?」
「どうして?」僕は言った。「どうしてエリクサービールを飲んではいけない?」
「いや、別にそうとは言ってないのだが。」
「結局は一緒だよ。僕がエリクサービールを飲もうとすると、みんな罪人みたいな目で見てくるんだ。さっきの村娘の目を見たか?」
「いや……。」
僕たちは運ばれてきたエリクサービールを飲みながら、塩どんぐりクッキーをつまんだ。
「お前さん、あの子がいつまでも目覚めないことは確かに心配だろうが……。」
「三日もすれば目覚める。そう言ったのはお前だ。」僕は言った。
「悪かったよ。あのときは少しでもお前さんを安心させたかったんだ。騙すつもりはなかった。」
僕は大工の目を見た。でもそれで彼の本心まで覗き見ることなんて僕にはできなかった。申し訳なさそうに八の字に歪んだ眉と、怯えているみたいに絞られた目蓋。怯えている? どうして?

僕が黙っていると、
「まだ一杯目だ。もっと気楽に行きたいものだよ。」と大工は呟くように言った。僕は仕方なしに頷いた。
それから僕たちは村の今後について思いを巡らせながら話をした。
ダークエリクサータンクとポンプは現段階での最大貯蓄量まで改良され、連なる壁や防衛施設も昨年とは比べ物にならないほど頼もしくなった。大工が言った通り、村は発展した。そしてこれからも発展が続く。僕にその上限なんかわかるはずもないが、それでも進化の袋小路にぶつかるのは気が遠くなるほど先の話だろう。

三番目の大工がつい最近まで血眼になって取り組んでいたのは、巨大クロスボウの改良だ。巨大クロスボウは放っておくとすぐにただの邪魔な置き物になってしまうため、定期的にメンテナンスが必要とされる。だが取り回しが不便なぶんだけ強力な施設で、さらに二つのモードの可変機能も付いている。
その巨大クロスボウにさらなる火力を付与するために、彼は十日間もほとんど寝ずの作業を続けた。ちんたら作業していれば、日夜資源を狙ってくる相手に不覚を取ってしまうのだ。彼は彼で職務を全うしていた。

僕が九杯目のエリクサービールを飲み干したとき、三番目の大工は五杯目を中途半端に残したまま机に突っ伏して寝息を立てていた。

疲れているのだ。
僕だって疲れている。でも彼は僕以上に疲れている。
店の中をぐるりと見回してみると、みんなやつれた顔でビールを飲み、塩どんぐりクッキーをつまんでいた。
バーバリアンは不景気を抽象化したようなため息をつき、ゴブリンはつまらなそうに少ない金貨を一枚ずつテーブルの上で数えていた。

それでも大工が言った通り、村は発展したのだ。
そして加速度的に今も発展し続けている。
見た目の上では。

勘定を払い、大工の身体をひょいと持ち上げて外に出た。五月の風が吹いていた。
季節にかかわらず、魔法の森はその深みを失わない。ただ、樹木の間を駆け抜ける風の性質が緩やかに巡っていくだけだ。四月の風、五月の風、七月の風、八月の風、十月の風、十二月の風、一月の風、三月の風。全て違う。風が巡る。

ほとんど意識のない状態の大工を小屋まで送り届けたあと、僕はタウンホールの近くにある自分の祭壇に腰を下ろし、そこでしばらくダークエリクサービールをちびちびと飲んだ。辺りは暗く、村は寝静まっていた。

僕は目を閉じて、昔の出来事から今の出来事までを、なるべく順序立てて思い出そうとした。せめて頭の中では、自分が歩んできた道のりの時系列をはっきりとさせておかなければならないと思ったのだ。
でも、どうやったって無理だった。記憶の断片を思い起こすことはできても、それらを繋ぎ合わせて整理することができない。独立した記憶たちが頭の中を通り過ぎていく。捉えられない。そこには時間の連結がない。僕の頭の中にあるはずの時間軸がぐにゃぐにゃに曲がってしまっている。だからいつも、昨日と今日と明日を行ったり来たりしているような錯覚に陥ってしまう。
しかし、周囲の環境は着実に後退不可能な変化を遂げているのだ。それだけは確かなことだ。時間と記憶をうまく整合して繋ぎ合わせられないのは、周囲の環境に取り残されているような感覚が常につきまとっているからだろうか。



目を開けると朝が来ていた。意識がいつ昏睡し、そしていつ覚醒したのか全くわからなかった。正確には、僕は自分が眠っていたのかどうかさえわからなかった。
起き上がって伸びをする。眠気はあまりない。
「この身体」になってから酒量は明らかに増えてしまっていたが、それでも二日酔いになったことは一度もなかった。肉体だけはタフでハードなのだ。ただ精神がそれに付随していないだけで。
僕はタウンホールの中に入って、寝起きで不機嫌な村娘に挨拶をすると、洗面所で顔を洗い、歯を磨き、髭を整えた。それから村の外れの彼女の寝床に向かった。
彼女は相変わらずすやすやと眠っていた。耳をすますと寝息が聞こえた。

「苦痛な一ヶ月が過ぎたよ。
これからも苦痛なままだけどね。
君が目覚めない限りは……。」

彼女は今、何の夢を見ているのだろう。
あるいは、彼女は今どこにいるのだろう?

夢。
最近、夢を見ない。さっぱりと夢を見ない。
まるで彼女が僕の分まで夢を見続けてくれているみたいだ。



昼飯時より前に、僕はタウンホール内の円卓に三番目と四番目の大工と村娘を呼び出した。
「はっきり言って異常すぎる。」と僕は言った。「もう永遠に目覚めないのかもしれないと思うと僕はとてもこわい。」
僕の対面に座る三番目の大工は、腕を組んで黙っている。その隣の四番目の大工は眉を八の字に歪めて、やはり何も言わない。
村娘が口を開いた。
「病気にしては顔色も悪くないし、寝苦しそうにしているところも見たことないけどねえ。」テーブルに肘をついて、今にも欠伸をしそうな表情で宙に目をやっていた。
「でも、もう一ヶ月だ。」と僕は言った。「一ヶ月だ。」同じイントネーションで繰り返してみたが、村娘はハッとすることもなく、薄ぼんやりとしていた。
「何が起こっても不思議じゃないのがこの世の常さ。」と四番目の大工が言った。
「僕は異常だと言っているんだ。世の中の不思議の話をしたいんじゃない。」
「うん。うん。」四番目の大工は両の手のひらをこちらに向けながら大仰に頷いてみせた。「君が実際的な話をしたがっているのはよくわかるよ。よくわかる。でも、彼女を起こす手立てなんて俺たちにはてんで思いつかないんだよ。専門外だからね。」
「でも君は彼女専属の大工だろう?」と僕が言うと、彼は肩をすくめた。
「専属と言ったって、あのお嬢ちゃんのことをなんでも知ってるってわけじゃない。マニュアルなんてないし、トラブルシューティングだって実行できない。」
何がトラブルシューティングだ。文化にかぶれている。
彼女と巨大クロスボウは同列上の存在じゃない。彼女は彼女なのだ。
黙っていた三番目の大工が、重々しく口を開いた。
「お前さんが心配する気持ちは痛いほどわかるよ。でも、冷静になってよく考えてみてほしい。これが本当に異常な状況なら、うちのチーフが必ず手を打つはずだよ。けれどそうしないのは、彼女がここ一ヶ月も眠り続けていることに異常性がないと、チーフが判断なされているからだ。」
「だとしたら彼女が眠り続けているその必然性を知りたい。知る権利があるはずだ。」と僕は言った。
「そうだね。でも、できないんだ。チーフと我々とでは干渉できる領域が異なっている。」と彼は言った。
「そうかい。」と僕は言った。
誰も何も喋らなくなり、我々は目に見えるほどに充満した沈黙の中でただそれぞれの顔色を伺っていた。
みんながみんな不景気な顔をしていた。僕も同じように不景気な顔をしていたのかもしれない。
そうか、みんなきっと自分が不景気な顔をしていることに気付いていないんだ、とそのとき思った。

五月の陽気もそこそこに、夕暮れになると冷たい風が肌を刺した。以前の僕なら風邪を引いているくらいの寒さだった。祭壇に腰を下ろしてダークエリクサービールをちびちびとやりながら、僕は夜が更けるのを待った。
昼の熱気が完全に消え去り、村が段々と静まっていく。ひと仕事を終えて酒場に向かう者や、アーミーキャンプでだらだらと夜を過ごす者、タウンホールで食事中の村娘たち、疲れた身体を横たえていびきをかくバーバリアン、膝を抱えて静かにときを待つアーチャー。村のトーンがどんどん暗くなっていく。さらに夜が更けていく。

村が静まり返る。僕はダークエリクサービールを飲み干すと立ち上がった。
なるべく物音を立てずに彼女の寝床に向かい、その寝顔をしばらくのあいだ眺めた。暗がりの中で彼女はぼんやりと光っているように見えた。もちろん気のせいだ。
「できるだけ早く戻ってくるよ。」
僕は眠っている彼女の額に唇を付けてから、魔法の森に足を踏み入れた。


白いもやを抜けて眼前に姿を現したのは、強固な壁が張り巡らされた村だった。
僕が住んでいる村とは比べ物にならない。圧倒的だ。まずこんな壁は今まで間近にして見たことがない。壁の表面にはどろりと赤熱した溶岩が循環していて、触れることさえ躊躇われる。
村の中心部がどうなっているのかは外周からはよくわからないが、樹木の年輪みたいな壁の層が遠目から見える。四層ほどだろうか。そして壁と壁のあいだにみっちりと防衛施設や資源施設が並んでいる。
眩暈がするくらいに僕の村とは違いすぎる。大砲は僕の村の物より一回り大きく、よりゴツゴツとしている硬質な素材でつくられていた。こんな恐ろしげなものが一体どんな砲弾を打ち出すのか僕には想像もつかなかった。
「止まって。」
壁のいちばん外層で僕は村娘に呼び止められた。うちの村の村娘よりもいくらか目つきの悪い村娘だった。
「こんな夜更けに、たったのひとりでいったい何の用?」
「ちょっと聞きたいことがあるんです。」
「ちょっと?」村娘は首を傾げた。「たかがちょっと聞きたいくらいのことのためにわざわざこんなところにこんな時間にたったのひとりで乗り込んできたってわけ? のこのこと?」
「言葉の綾だったんです、訂正します。大事なことです。」と僕は言った。「とても重要なことを聞きに来たんです。ここに来れば僕の知らないことがわかるかもしれないと思って。」
村娘は腕を組んだ。
「要件を言ってごらんなさい。」
「僕の大事なひとのことなんです。とても大事なひと。」
「その大事なひとが眠ったまま起きてこないって言うわけね?」村娘はあっけからんと言ってみせた。
「どうしてわかるんです?」
「他所の村の王様はね、大体同じ理由でここにやってくるからよ。いつもお決まりのパターン。僕の大事な恋人が困ったことになってるんです、ってね。」
僕が何も言わずにいると、村娘はひとつ咳払いをした。「でも、こんな夜更けにやってきたのはあなたくらいのものだけどね。」
「すみません。でも、村の者たちからは引き止められると思って、無断でやってきたんです。こうするしかないと思った。」

「まずこの村に入るための条件は、私たち村の民に敵対心を示すものをこの場に捨てること。」
僕は頷き、その場に剣を捨てた。
「すべて捨てなさい。」村娘は僕の手にはめられたガントレットを指差して言った。
「これも?」
「当たり前でしょう?」
僕はガントレットも捨てた。ついでに肩当てと剣の鞘も捨てた。
「第二の条件は、私たち村の民に他村の権威を示すものをこの場に捨てること。」
すぐに合点がいった。王冠を外して地面に置いた。村娘は頷いた。
「あとは何を捨てればいいかな?」と僕は訊いた。
「もう捨てるものなんて腰布とサンダルくらいしかないでしょ?」
「え?」
「脱げって意味じゃないわよ。もうこの場に捨てるものなんて何もないって意味。」
どうも調子が狂う。
僕は村娘に導かれて、村の内部へと足を踏み入れた。








「誰もが自分のことをスペシャルな存在だと勘違いする。」
と彼は言った。そしてダークエリクサービールをひと息に飲み干した。
どこの村にも憩いの場所があるように、この村にもそれはある。ただここは、僕の村と違って憩うスタイルがわりに違うようだった。
というのも、もう数時間で夜も明けるという時間帯にもかかわらず、この村はわいわいと人で賑わい、酒場は喧騒に包まれていた。眠らない村、と僕はその光景を見てふと思った。あるいはただ村の生活スタイルが昼夜逆転型なだけであって、昼には静まり返っているような村なのかもしれないが。
とにかく、酒場のカウンター席で配下の屈強なバーバリアンたちを侍らせて、酒を浴びるように飲んでいた彼はそう言った。
誰もが自分のことをスペシャルな存在だと勘違いする……。
「スペシャルな存在。」と僕はおうむ返しに呟いた。スペシャルな存在。スペシャルな存在。スペシャルな存在……と、頭の中でやまびこのようにそれは繰り返された。
「だが、実際にスペシャルな存在になれるのはほんの一握り。そうだな?」と彼は言った。
僕は黙っていた。彼も別に僕の返答を期待しているというふうでもなかった。
彼がすっと手を挙げると、新しいダークエリクサービールの注がれた新しいジョッキがすぐさまカウンターテーブルに置かれた。彼はそれをぐっぐっと飲み始めた。
周りのバーバリアンたちが僕のことをじろじろと見ていた。僕がどの程度の「王」なのか、品定めしているのだ。彼らの中には、僕を見てつまらなそうな顔をする者もいれば、嘲るような笑みを浮かべる者もいた。
誰も僕に席に座れなんて言わなかったし、僕が座っていいような席も見当たらなかった。
バーバリアンたちの他にも客はたくさんいたが、みんな僕には無関心を決め込んで、円いテーブル席の前で顔を突き合わせてひそひそと喋っていた。
酒場の入り口付近に立ち尽くしたまま、僕は彼がダークエリクサービールをうまそうに飲んでいるのを眺めているしかなかった。
だがそのうちに「お前も何か飲めよ。」と彼は言った。「酒場に来て何も飲まずにいるなんて全く狂人の振る舞いだろうが。」
それもその通りだ。僕はカウンターテーブルのほうに歩み寄って、ダークエリクサービールを注文した。

「それで、相棒を眠りから覚ましたいと?」と彼は言った。
僕は頷いた。彼は鼻を鳴らした。
「そんなことは簡単だ……と言いたいところだが、肩を揺さぶって起きるような単純さでもない。」
「ええ。その通りだと思います。」
「そのうち勝手に起きるとは思わないのかね、お前は?」
「これ以上は僕が待てません。何かしらのアクションを起こさなければ、彼女は永遠に戻ってこないような、そんな気がしているんです。明日になったら透けて消えてしまっていてもおかしくないような感じなんです、これは。」
ダークエリクサービールが来た。
僕がそれをカウンターテーブルから手に取ろうとする前に、すぐ近くにいるバーバリアンのひとりを彼はぶん殴った。
「いいかげんにしろ。早くこいつの分の椅子を持ってこい。」
ぶん殴られたバーバリアンは泡を吹いて床に伸びたまま動かず、代わりに別のバーバリアンが怯えた表情で大きめのスツールを店の奥から持ってきて、彼の席の隣に置いた。僕は黙ってそれに座り、ジョッキを手に取った。
辺りは妙に静まり返っていた。
「それじゃ、乾杯。」と彼は野太い声で言った。
「乾杯。」と僕もそれに続いて言った。
コォォン。金属のジョッキが重なって鈍い音を立てた。それからあちこちでカコァァン、コォォン、と乾杯する音が聞こえてきて、店の賑わいは元に戻った。ここでは彼の一挙手一投足が店の雰囲気を支配してしまうのだろう。
王を冠する者同士だというのに、僕と彼とでは威厳というものがまるで違い過ぎていた。

十四杯目のダークエリクサービールがカウンターテーブルに運ばれてきたとき、カウンター席にまともに座っている者なんて僕と彼以外にはいなくなっていた。みなカウンターテーブルに突っ伏しているか床に寝転がっているかだった。
「いいか、彼女の目を覚まそうだなんて考えるな。」と彼は言い出した。「来るべき時を待て。お前にやれる唯一のことは、来るべき時のためにしっかりと準備をしておく、それだけだ。」
彼は僕のペースに合わせて酒を飲んだ。僕が来たときに飲んでいた分も含めると彼はこれで十六杯目という計算になるが、おそらくそれ以前から飲んでいたに違いない。もしかするととっくに二十杯目を越えているのかもしれない。
二十杯? と僕は思った。ジョッキの容量約700ミリリットルを二十杯で14リットル。単純だ。そんなことは誰にだってわかる。
でも純水よりちょっと重たいこの青黒い液体が体内に14リットル分も収まっているなんて、見た目からはあまり想像ができない。彼のでっぷりとしたビール腹。しかし異常なほどたくましく鍛えられた上体の筋肉が、出っ張った腹以上の存在感を誇示しているために、肥えているという印象は受けない。
「その来るべき時に彼女が目覚めると?」彼の肉体を横目で見ながら僕は言った。
「そうだ。来るべき時とはすなわちお前自身が手繰り寄せる運命でもある。だがそれを、彼女の目を覚ますためだの、彼女を救うためだのと考えてはならん。
求め方を間違えた者に正しき道は開かれない。これはそういう類の話なのさ。」
いったい僕たちは何の話をしているのだろう?
十五杯目のビールがやってきて、僕たちは間髪入れずにそれを飲んだ。ダークエリクサービールの飲み過ぎで死んだ者はいるのだろうか? そんな話はまだ聞いたことがない。エリクサーの海に溺れて死んだゴブリンの話なら聞いたことがあるけれど。
僕はウェイトレスの太った村娘を呼び止めて、「塩どんぐりクッキーが食べたいんだけど。」と言った。
「塩どんぐりクッキー?」と彼女は聞き返した。
「ここでは出さないの?」
「そんな前時代的な食べ物、ウチには置いていませんよ。」
「前時代的?」
「もっとも、あなたのお生まれになったところでは、名物なんでしょうけどね?」
そう言って彼女は、大きくて桃みたいに丸い尻を左右に揺らしながら、店の奥のほうに消えた。
隣でやりとりを聞いていた彼がガハハハハハハハハハハ、ハハハハハハハハハハ、ハハハハハハハハハハ、ハハハハハと笑って、ジョッキを握っていないほうの手でテーブルをバンバン叩いた。すると周囲の円テーブル席に座っている住人たちも目を覚まして、一様に手を叩いて笑った。
「いいか、ここでそんな軟弱な食い物を頼もうとするなよ。肉を食え。
おい、肉だ! 肉を持ってこい!」
十五杯目を飲み干したあとに、大きな皿に載った肉がやってきた。
ハーブを散らしたホグの丸焼きだった。かろうじて意識を保っていた泥酔状態のバーバリアンが、震える手で僕と彼の皿に肉を取り分けた。よく見るとそいつは、先ほど彼にぶん殴られたバーバリアンだった。顔の左半分がぼっこりと腫れ上がっていた。
彼は部下が取り分けたその肉の塊にテーブルナイフを突き刺し、がつがつとむしゃぶりつき始めた。そしてホグの牙を、それこそクッキーをかじるみたいにさっくりと噛み砕いた。
「牙には栄養素がたっぷりと含まれているからお前も食え。遠慮はするな。まあ、嚙み砕くだけの顎があればの話だがな。」
そう言って彼はまたガハハハハハ、ハハハハハと笑った。
吐きそうだ。もちろん、飲み過ぎということもある。でも、それで吐きそうなんじゃない。
僕と彼ーーあるいは僕とこの村全体ーーとでは価値観に相違がありすぎて、そのズレをどうにも埋められそうに思えないのだ。それが胃のムカつきとなって現れるのだ。この村では丸焼きにしたホグをろくな調理もしないでそのまま客の前に出すのが先進的だと言われているのか? 大きくて丸い尻をぶいぶいとさせるのが先進的なのか? 部下を侍らせてダークエリクサービールを二十杯飲むのが?
「どうした、さっきから一口も食ってないな。豚は嫌いだったか?」脂の付着した口元を毛深い腕で拭きながら彼は言った。僕は曖昧に頷いた。

二十四杯目のダークエリクサービールを飲んでいる途中で僕の意識はぷっつりと切れた。誰かが部屋の明かりを急に消してしまったみたいに、突然目の前が真っ暗になったのだ。
目が覚めたのは昼過ぎだった。明るいトーンの陽の光が窓から差し込んでいた。窓? 僕は辺りを見回してみた。水を吸ってじっとりとしているようなブラウン色の壁、それに囲われた小さな部屋の片隅の、スプリングの固いベッドに僕は横たわっていた。ベッド脇のサイドテーブルには水のたっぷり入った水差しとグラスが置いてあったが、胃がムカついているせいで飲みたいとは思えなかった。
「この身体」になって初めての二日酔いだったが、それよりも生まれて初めて飲み過ぎで気を失ったことのほうがショックの度合いは大きかった。

部屋のドアが開いた。キィィ。耳障りな開閉音だ。
そこには艶やかな紫色の長い髪を垂らした、目付きの鋭い女性が立っていた。
「調子は良くて?」と彼女は言った。



違う。彼女じゃない。
目の前にいる女性は僕の知っている彼女じゃなかった。同じような顔、同じような服、同じような声、同じようなスタイルの、別人だ。