第三部「井戸」








彼女はまるで井戸の底を覗き込むみたいにして、僕の瞳を見た。
「あなたの恋人じゃなくて残念だった?」と言って彼女は笑った。「意外に可愛らしいお目々してるわ、あなた。」
彼女はサイドテーブルのグラスを手に取り、水差しから水を注いだ。彼女の手首から芳しい動物性香料の香りが漂ってきた。甘美的で、フェロモンのような刺激のある香りだ。
目の前に差し出されたグラスを受け取り、僕はゆっくりと一口だけ水を飲んだ。
「昨日のことはどこまで憶えているの?」
「二十四杯目まで。」と僕は答えた。
「酒場の主人が褒めていたわ。軟弱そうに見えてアレは大したタマだ、って。」
「勘定を払っていない気がする。」
「気にしなくっていいのよ。」と彼女は言った。「ここを出て右手のほうに水浴び場があるから。気分が良くなったらタウンホールにいらっしゃい。」
そして彼女は出ていった。動物性香料の香りはしばらく経ったあとも部屋に居残っていた。その香りは僕の頭の奥のほうを強く刺激するようだった。

外に出ると、ここが村の離れの小高い丘であることがわかった。僕が今まで寝ていた建物は物置小屋だった。裏手にもう一つ小さな部屋があり、そこに農耕道具や何に使うかわからない道具が揃えてあった。
大体30メートル先に噴水広場のような場所が見えた。水浴び場とはあれのことらしい。
深呼吸をすると、地面に生い茂る植物の青いにおいに混じって、身体から酒の臭気がにおってきた。吐き気を堪えながら僕は水浴び場まで歩いていった。

水浴び場に近づくと、美しく引き締まった背中が見えた。バルキリーが三人、静かに水浴びをしていた。
どうしたものかとまごついていると、そのうちの一人がぎろりと鋭い目線を僕に投げてよこしてきた。
「おい、よそ者。じろじろと気持ち悪いんだよ。」そう吐き捨てて彼女は堂々と水浴びを続けた。他の二人は僕のことなんか空気同然といった感じで気にも留めていなかった。
僕は水浴び場に背を向け、来た道を少し戻ったところに座って彼女たちの水浴びが終わるのを待った。
そのあいだ僕は目を閉じて彼女のことを思い出そうとした。僕の大切なひとのことだ。だが美しい背筋やフェロモン臭気が僕の思い出の邪魔をした。
とにかく彼女のことを思い出すんだ。
思い出さなければならない。



僕の村に丘と呼べる場所はないが、その代わりに離れのほうにはみすぼらしい水車小屋とちっぽけな風車と小規模な花畑がある。海岸遊歩に飽きると、僕たちは時々そこでゆったりと落ち着いた時間を共有した。
トコトコと音を鳴らしながら回る水車の音を聴きながら、水車小屋の土臭い床に寝そべると、世界がまさに二人だけのものに感じた。
風車が時折カタカタッと素早く回ると、何だか不吉な予感がして、僕たちは強く手を握り合って互いの存在を確かめた。
花畑のそばのベンチに並んで座っているとヒーラーがやってきて、戦いに疲れた僕たちの肉体を癒してくれた。

「退屈じゃない?」と彼女が訊く。
「退屈じゃない。」と僕が言う。「もし退屈に感じても、隣に君がいるなら大した苦痛じゃない。」

「ねえ、こっちを向いて。」

「こっちを向いてったら。」



あのときの僕たちは確かに幸せだったはずだ。



「おい、あんた。」後ろから声をかけられた。
バルキリーが三人立っていた。
「入りたいなら入れよ。」とそのうちの一人が言った。
あとの二人は濡れたオレンジ色のくせ毛をそれぞれのタオルで拭いていた。
「ありがとう。」と僕は言った。
「ありがとう?」彼女は首をかしげて、他の二人を見た。他の二人も首をかしげた。妙な沈黙のあと、二人はくすくすと笑い出し、一人は眉をひそめたまま、丘を下りていった。まだこの村の住人流の会話に馴染めない。

水浴び場に誰の姿もないことを確かめてから、僕は服を脱いで広場のタイル張りの床に足を踏み入れた。
噴水は止まっていた。噴水口は四つあり、その下にそれぞれ対応するバルブがあった。バルブの一つを捻ると、空に向かってホグの牙のように反り上がった噴水口から冷水が噴き出した。

水浴びを終えてから、僕は身体を拭くものを何も持っていないことにようやく気が付いた。身体の水気を切って腰巻きをつけ、物置小屋に戻った。キャビネットの引き出しの一つにタオルが入っていたので、それを使わせてもらった。

タオルを首にかけて、僕はまた丘に出た。ここから村の様子が見渡せた。
どうしてこの村はこう、全体的に赤黒い色をしているのだろう。僕の住む村も、発展していけばそのうちこの村のようになるのだろうか。目がちかちかするから、あまり好みの色合いではない。壁や各施設の装飾も少々悪趣味に思える。もちろん、品の良さが村の防衛にはこれっぽっちも役立たないということなど、重々承知しているわけだが。

村に下りようと、蛇行するなだらかな道を歩いている途中で、僕は獣道のようなものを見つけた。背の高い草をかき分けたような痕跡がまっすぐに続いている。こちらに行くと山の方角だ。向こうにはホグの厩舎でもあるのだろうか。興味はあったが、僕は村に下りることを優先し、そこをあとにした。

村は驚くほど静まり返っていた。人の気配というものが全く感じられない。村人ひとり見当たらない。時折、大工がどこかで何かを
ガンガンガンガンガンガンッ
カツンカツンカツンカツンッ
と一定の無機質的なリズムで叩く音が聴こえてくる。それだけだ。

赤黒いタウンホールの中には、悪趣味な沢山のドクロ模型のシャンデリアが煌々と光を照らす、大広間が広がっていた。例のフェロモン臭気がかすかに鼻を掠めたが、彼女の姿はここにはなかった。ただひとり、巨木をざっくりと輪切りにしたようなテーブルの肘掛け付きの椅子に、あの男が座っていた。
「思ったより早かったな。」と男は言った。彼は顔色も良く、僕と違ってぴんぴんしていた。
よく見ると彼の座っている椅子の肘掛けの先端に、飾りドクロの握りが付いていた。幸いなことに、僕が座った椅子にドクロの握りは付いていなかった。というか肘掛けもなかった。僕は両手と濡れたタオルを膝に置き、なるべく自分が平常な状態であるとアピールするため、まっすぐな姿勢を意識して彼と対面した。
「客人なんだから、もっとゆっくり夜まで寝ていても良かったんだぜ。」
「この村の女王様が起こしに来てくれたんです。」
「あいつはせっかちだからな。」と彼は言った。
「それで、今日は彼女を目覚めさせるやり方を教えてくれるんでしょうか?」
「まだそんなことを言うのか、お前は。」
男はテーブルに身を乗り出して僕の瞳をじっと見据えた。僕は黙ってその視線を受け止めた。途中で目を逸らしたくなったが、彼の瞳は僕の瞳を捕らえて放さない異様な力を持っていた。僕は自分の身体が足のつま先からゆっくりと石化していくような、ぞっとする感覚を味わい続けた。
僕の身体が胸のあたりまで石になったような気がしてきたとき、彼は目を細めてひとつため息をつき、椅子の背もたれにどっしりと身を預けた。
「お前は他の名前だけの連中とは違って酒はいくらか飲めるようだが、他の名前だけの連中と同じくらいには軟弱者らしいな。」
僕は黙っていた。返す言葉がなかったのではなく、喋るほどの気力が損なわれていた。
「軟弱さとナイーヴさは違う。そうだな?」と男は言った。僕は頷いた。確かに違う。言葉の意味が違うのだから違うのだ。当たり前の話だ。
タウンホールの玄関口のドアが開いた。例のフェロモン臭気の女王が、アーチャーをひとり連れてやってきた。
「ごきげんよう。」彼女は揚々と例のにおいを振りまきながら歩き、空いている適当な椅子に座って膝を組んだ。服のスリットからは彼女のつるりとした生足が覗いていた。
僕の背後からアーチャーがやってきて、手に持った物をおずおずとテーブルに置いた。木彫りのタンブラーだった。
「ダークエリクサーと果実のジュースです。」とアーチャーは小さな声で囁くように言った。
「もっとはっきりと喋りなさい。」と彼女が言った。アーチャーの肩が少しびくついたのがわかった。
「ありがとう。」僕はようやく声を出すことができた。
タンブラーを手に取って中身をちらりと確認する。青黒い液体にクランベリーと思しき果肉の粒が浮かんでいる。
「それ、二日酔いに効くのよ。ぐいっといっちゃってちょうだい。おかわりはこの子に頼んでね。」と彼女が言った。そしてくすりと笑った。
「せっかちなんだ、こいつは。」と彼が言った。そしてぐふふと笑った。
一息にジュースを飲んだ。冷たくて喉越しが良くて酸味が効いていて美味しかった。けれどおかわりを頼む気にはなれなかった。

しばらくして資源狩りの編成についての会議が行われた。アーミーキャンプから代表者のバルキリーとジャイアントがやってきて会議に参加した。バルキリーのほうは、その勝気な目つきやぶっきらぼうな喋り方から察するに、先ほど水浴びをしていた三人のうちのリーダー格の子に間違いなかった。彼女は僕のほうをちらりと見て、ふんと鼻を鳴らしただけだった。
会議は僕が普段自分の村で執り行うそれとは似ても似つかず、そのほとんどの時間を怒号と罵り合いで浪費しているように見えた。とにかく意見の食い違いが凄まじく、それぞれがそれぞれで全く譲る気配がない。バルキリーはもっとバルキリー部隊の数を増やせと言い、ジャイアントは援軍釣りの囮としてしか使われない者の気持ちを考えろと言い、女王は高笑いして言い合いを混ぜっ返し、王は怒鳴ったり笑ったりを繰り返しながらどちらの意見にも反発していた。僕と女王のそばで立ち尽くすアーチャーの二人だけが、空気に浮かぶ塵のようにひっそりと沈黙していた。
どうして大工や村娘がこのような大事な会議に参加していないのか、僕は不思議に思った。会議がひと段落した頃合いを見計らって彼に訊いてみた。
「大工や村娘たちは?」
「何?」
「なぜ会議に参加していないんです?」
「なぜだって?」彼は言った。「よくわからんな。下賎な輩を会議に参加させる意味はなんだ?」下賤な輩。
「答えろ。」彼は言った。
「大工は資源をどこに分配するかの話し合いに必要で、村娘は村の住人たちに情報伝達をするために……。」
「その必要がない。」彼は言った。「資源をどこに分配するかは俺が決めることだ。それに、戦術部隊長のバルキリーとジャイアントが各部門のユニットたちに会議内容を伝えるから、情報伝達役もいらない。雑事のサポートが必要ならバーバリアンやアーチャーを呼べばいい、奴らは腐るほどいるからな。」
「なるほど。」全然なるほどではなかった。

この村と僕の村とではやはり価値観が違いすぎるのだ。そのあまりの違いに僕は混乱してしまいそうになる。昨日の夜ここに来たばかりなのに、僕はもうホームシックみたいな感じだった。三番目の大工や、小言のうるさい村娘に会いたい。彼らのことが懐かしい。
どうして僕はここに居なければならないのだろう? ……と一瞬思いかけてしまった。目的ははっきりとしているはずなのだ。僕は彼女を眠りから覚ます方法を知りにここへやってきたのだ。でも僕がタウンホールで興味のない会議を延々聞かされることとそれに、何の因果関係がある?
何かしらのアクションを起こさなければいけない。

『来るべき時を待て。お前にやれる唯一のことは、来るべき時のためにしっかりと準備をしておく、それだけだ。』

準備をしなければいけない。
でも、何を? どうやって?

夕暮れがやってきて、村は活気を取り戻し始めた。王と女王はアーミーキャンプの者どもを引き連れて、幾たびも魔法の森の向こう側へと資源を求めに行き、そのあいだにいつのまにか現れた村の住人たちが店の準備をした。武器屋、換金屋、酒場などなど。大工のリズミカルな金槌の音が鳴り止むことはなかったが、みんなその音に慣れているのか、それとも僕だけにその音が聴こえているのか、とにかく誰もそれを気にしてなんかいなかった。
僕は王と女王たちが魔法の森を行ったり来たりする様をただタウンホールのそばから眺めていた。

一時間ほどだろうか。さすがに飽きてきた。僕がタウンホールから離れようとするとあのジュースを持ってきてくれたアーチャーが僕を呼び止めた。
「どちらへ行かれるのでしょうか……。」
「小屋に戻ってもう一眠りしようかと思って。」
「そうですか……。」
それきり彼女は一言も喋らなかった。僕は彼女を置いてひとり丘へ向かった。

丘の道を上る途中で、またあの山へと向かう獣道が気になった。

どうしても気になる。
背の高い草が風に揺れて僕のことを誘っているように見える。
夜までまだ時間はある。僕は草をかき分けて、その道ならぬ道に踏み込んだ。

広場に出た。山の麓にほど近い場所だ。井戸がある。井戸?
どうしてこんなところに井戸があるんだ?
どうしても気になる。どうして気になる? わからない。わからないが、僕は井戸に近づいていった。無性に井戸の中を覗き込みたくて仕方がないのだ。
井戸の縁に手をかけて、僕は身を乗り出した。夕陽の届かない暗闇だ。目をこらすと遥か下のほうに水が溜まっているのがわかる。水面は身じろぎひとつせず、暗がりの中で僕の顔を映し出している。水面の僕と目が合う。近くの雑木林がざわついている。

水面の僕が僕を見て笑った。

僕はぎょっとして身を引いた。今のはなんだ?
その拍子に、首にかけていたタオルがひらひらと井戸の中に落ちていった。僕は恐る恐るその様子をうかがった。タオルは暗闇の中の水面にまるで内側から引っ張られるように吸い込まれ、消えた。
「恐かったかい?」
僕とは向かい側の井戸の縁から、ひょいと一匹のガーゴイルが姿を現した。
「いつからそこに?」僕は言った。こめかみを冷たい汗が伝うのがわかった。
「ずっとここにいたさ。俺はここの守り番だからね。」とガーゴイルは言った。羽音も立てず彼は宙を飛んでいた。「あんた、何を見た?」
「いや……言っても信じないだろう、きっと。」
「何が起こっても不思議じゃないのがこの世の常さ。」と彼は言った。どこかで聞いたことのあるような台詞だった。
「笑う僕の顔。」と僕は答えた。
「笑っていたのか。」
「笑っていた。」
「そうか。まあ悪いことは言わんから、もう中を覗くのはよしたほうがいいね。」
「この井戸はいったい?」
「覗く者を引きずり込むのさ。」
ガーゴイルはゆっくりと飛びながら、こちらに手招きをしてきた。僕は彼についていった先の、木陰のベンチに座った。僕の隣で、彼は肘掛けにしゃがみ込んで大きな腕を組んだ。
ベンチの前方、20メートルほど先に井戸がある。遠くから見る井戸は、本来の機能を失って誰にも見向きされなくなった、古びたオブジェのように見えた。しかし中には水が張っている。守り番もいる。恐らく井戸は何らかの機能を保ってそこにあるのだろう。それが井戸としての本来の機能なのかはわからないが、とにかくそれは活用されるべくしてそこにある物のはずだ。僕は井戸から目を離せずにいた。
「君は旅人か何かか?」と彼は言った。
「まあそんなところかな。」と僕は言った。旅人。目的のはっきりとした旅というものがあるのなら、僕は旅人ということになる。
「俺はもう何年もここを守っているんだよ。君みたいに、何も知らずに井戸に引き寄せられてきた者が引きずり込まれないように。」
「引きずり込まれる?」
「そうさ。あの井戸の中の冷たい水がみんな引きずり込んでっちまう。」
「さっき首にかけていたタオルを井戸に落っことしてしまった。」
「タオルが身代わりになったと考えな。」
ガーゴイルと二人きりで喋るのはこれが初めての経験だった。僕の村のガーゴイルたちは、いつも集団で行動し、決して単独行動を取ろうとはしない。群れとしての存在。それが彼らの行動哲学だと思っていた。きっと、はぐれ者というのはどこにでも存在するものなのだ。僕だってかつて明確にはぐれ者だったし、多分今でもはぐれたままでいる。そして恐らく彼女もまだ。
「そのお方から離れろ。」不意に遠方から声がした。
ひとりのアーチャーが、木陰から弓を構えて立っていた。弓の弦が張り詰めていて、今にも矢が放たれそうだ。しかしガーゴイルは井戸のほうを向いたまま微動だにしていなかった。
「そのお方から離れろ。」もう一度、同じ抑揚で彼女は言った。
ぼそりとした声。まず間違いなく、ジュースを持ってきてくれた先刻のアーチャーだろう。
「ただ話をしていただけだよ。」と僕は立ち上がって言った。
「いいんだ。」ガーゴイルが言った。「俺は村の連中に忌み嫌われてんのさ。だからこんなトコでずっと井戸守をしなくちゃならん。おい、そこの娘っ子、俺は今日もちゃんと守り番をやってたってあのくそったれ夫婦に伝えておけ。」
「僕はここから離れたほうがいいだろうか?」
「そうだな。」彼はそう言って少し黙った。わずかな時間を名残惜しむような沈黙だった。「そうしたほうがよろしい。出会う場所と時間が違ったら、君とは友達になれたような気がするな。」
彼の発言に対して、僕は何も言うことができなかった。同意のしようも否定のしようもなかったからだ。
ガーゴイルは再び井戸の縁のところに身を隠し、我々の前から姿を消した。僕はアーチャーにつき添われて、その場から離れた。
「君は戦闘には参加しないのかい。」と僕は訊いた。
アーチャーは歩きながら少しのあいだ黙っていたが、「本当は私も村のために戦いたいのですが……。」と呟くように言った。
「戦わずに済むならそのほうがいい。」と僕は言った。
彼女は信じられないという風な目で僕の横顔を見た。
僕は彼女が何かを言葉にするのを待った。でも彼女は結局、何も言わなかった。沈黙が夜のとばりとともに降りてきた。

僕たちは丘の上の小屋に着いた。まだ冷ややかさのある五月の夜の風が、丘の地表を撫でるように走っていた。
「それでは私はこれで。」アーチャーは踵を返し、きびきびと丘を下りていった。その後ろ姿に僕はかつての彼女の面影を重ねた。うら寂しい気持ちが不意に僕のこころを襲った。
僕は小屋に入り、一眠りしようとベッドに横になった。きっとまた、僕はあの酒場で大酒を飲まなければならない。
あのアーチャーの後ろ姿が脳裏にこびりついていた。この村では、大工や村娘に役割を与えないのだ。その代わり、戦闘に参加しないアーチャーが召使いのような仕事をする。
戦わないユニット。それがいったいどんな意味を持つのか僕にはわからない。この村は狂っているのかもしれないし、あるいはこれが正常でまっとうな在り方なのかもしれない。僕にはとてもじゃないが判断できない。
それにしても、あの井戸はいったいなんだったのだろう?



ドアをノックする音で、僕は目を覚ました。部屋の中はすっかり暗くなっていた。返事をするとドアが開き、ランタンの光が目に飛び込んできた。目が眩んだ。
「あら、ごめんなさいね。」
この村の女王だった。彼女はランタンを僕から遠ざけてくれた。僕はちかちかする目で彼女のほうを見た。淡くあたたかい光に彼女の艶やかなロングヘアが浮かび上がっていた。
「調子はどう?」
「おかげさまで。」二日酔いはもうすっかり治っていた。
「酒場で彼があなたのことを待っているわ。今日は私も行くから、一緒に飲みましょうね。」
僕はベッドから出てサンダルを履き、彼女と一緒に小屋を出た。彼女の隣に立つと例のフェロモン臭気がにおってきたが、そのにおいには微妙な変化が生じていた。今朝は芳甘な香気を強く感じたが、今はより動物的でナチュラルな色香が剥き出しになったような感じだった。それはやはり僕の頭の奥のほうをノックしていた。別に嫌いな香りというわけではないが、何か危険な感じのする香りだ。あまり積極的に嗅ぎたいとは思わない。
「あの子に聞いたわよ。井戸のほうに近づいたって。」
「ええ、まあ。」
「あそこには誰も近づかせないようにしているの。だから看板も立てていないし道も作っていない。獣道みたいなものはできているけど、注意しなければ普通は気が付かない。あそこに行った経緯を教えてくれる?」
「僕にもよくわからないんです。ただ、不思議とあそこに身が惹かれていったとしか言いようがありません。僕はそこで井戸の中に映る自分の顔を見ました。」そこまで言って僕は言葉に詰まった。「あの井戸に引きずり込まれた者は、いったいどうなるんですか?」
彼女はくすりと笑った。「ここにはもう帰ってこれなくなる。一生ね。
背筋がぞくりとした。
あの井戸は確かに僕を誘っていたのだ。

丘を下りる途中で、僕たちは例の山のほうの井戸へと続く獣道に差しかかった。今でもなお、あちらのほうに身を引き寄せられるような感覚がある。ぞっとする。立ち止まって獣道のほうを見ていると、彼女に手を握られた。生温かく、ぬるりとした手だった。
「恐いのなら、その恐さを覆い尽くすほどの強さを持たなくてはならない……と、あのひとなら言うでしょうね。」
「僕はあのひととは、そりが合わないかもしれない。」
するりと、僕は本音を口にしてしまっていた。
どうして彼女の前でそんなことを言ってしまったのか、わからなかった。下手をすればこの村の王への侮辱とも取られかねないし、目の前の彼女を怒らせることにもなるかもしれない。
でも、彼女は怒ってはいなかったし、気分を害した様子も見せなかった。それどころか、くすくすと笑って、僕の指に自分の指を絡めてきた。
「私、あなたのようなナイーヴなひとも好き。ねえ、あのひとを殺せばあなたがこの村の王になれるのよ?」
「え……?」
「冗談よ、冗談。」彼女はくすくすと笑った。笑えなかった。

酒場はすでにたくさんのユニットたちで賑わっていた。昼間のバルキリーたちやジャイアントの集団も酒を飲み、ドクロをくり抜いた器でむしゃむしゃと肉を食べていた。
あの男は昨日と同じ場所に座っていたが、そこにバーバリアンたちはいなかった。彼らは王から離れたテーブル席のひとつで、陽気に酒を飲んでいた。しかし僕の姿を見るなり、ぎろりと鋭い目線を投げかけてきた。
僕は男の右隣の席に、彼女は左隣の席に座った。昨日と同じスツールだった。彼女が座っているのは、どうやら彼女のためにあつらえた、唐草模様の入った特別なスツールらしい。僕と彼女の席にはすでにコルクのコースターとペーパーナプキンがセットされていた。
もちろん、男はすでにダークエリクサービールを飲んでいる最中だった。
「ダークエリクサービールを。」僕は店主に注文した。
「ヴィレッジ・ダークチェリー。」と彼女は言った。
やがて酒が運ばれてきた。僕のもとには大柄なジョッキに並々と注がれたダークエリクサービール。彼女のもとには線の細いカクテルグラスに度数の高そうな液体。黒ずんだチェリーが房付きで添えられている。
カクテルなんて、「ロワイヤル」の一部上流階級の嗜むドリンクだと思っていた。少なくとも僕の村でそんな洒落たドリンクを出せる者はいない。前時代的な食べ物なら、いくらでも出してくれるけれど。
「では今夜も、楽しく飲もう。」彼はそう言ってジョッキを持ち上げた。
我々は乾杯をして、酒を飲んだ。

酒場は昨日よりもずっと騒がしかった。耳に入ってくる会話から察するに、どうやら今日はいつもより多くの資源を奪うことができたようだ。
我々はハイペースで酒を飲みながら、他愛のない話に花を咲かせた。例えば罠のメンテナンスについての話だとか、アーミーキャンプに使う薪の話だとか、あるいは単純に天気の話だとか。
「五月の空の、あの胸のすくような青さが良い。俺はいちばん好きだね、五月の空が。」と彼は言った。
僕はそれに頷きながら、この男がこのような、実質的には何の意味も持たない会話を楽しめる一面もあるということに、若干面食らっていた。それはあるいは、隣に彼女がいるからこそ、見せることのできる一面なのかもしれない。
「ところで、」と僕は仕切り直すように言った。「あの山のほうにある井戸は、いったい何のために造られたものなんでしょうか?」
「井戸?」彼は言った。「お前はあの井戸の話をしたいのか?」
「気になるんです。あそこはとても尋常とは思えない。何かしらのいわくを感じるというか。」
彼はしばらく黙っていた。
「お前はあそこで何を見た?」
「井戸の水面に映る自分の顔と、井戸守のガーゴイル。」
「自分の顔が映っていたのか?」
「正確には違うのかもしれません。水面に映る僕の顔は、僕の意思とは関係なしに笑っていました。薄気味悪い笑みでした。」
「そうか、笑っていたのか。」と彼は言った。それ以上何も言わなかった。
「あの井戸は何に使われているんですか?」
「いや、どんな用途にも使われてはいない。ただあそこにうっかりと引きずり込まれる者のいないよう、井戸守を配しているだけだ。」
「あなたもこれ、飲んでみない?」と唐突に彼女が言った。
僕はヴィレッジ・ダークチェリーを注文した。

昨夜よりも楽しく飲むことができた。少なくとも意識ははっきりと保っている。彼は相変わらずのハイペースだったが、僕は自分のペースで飲み、彼も次の一杯を強要することはなかった。とは言え、やはり飲み過ぎるほどには飲んだ。彼女もやはり酒に強く、するするとカクテルを飲み、途中からダークエリクサービールに切り替えた。
酒と一緒に食事も摂ったので、腹が空気を入れ過ぎた風船のように破裂しそうだった。恐らく彼はこの毎日の繰り返しで、でっぷりとした腹を持つようになったのだろう。

外に出ると、火照った身体には気持ちの良い五月の夜風が吹いていた。酒場を後にするユニットたちの後ろ姿を眺めながら、僕はしばらく店の隅のほうで風に当たっていた。酔っ払っていた。
昼に飲んだあの果実のジュースで気分をすっきりとさせたかった。でもあのアーチャーの姿はどこにも見えなかった。
しばらくして王と女王がセットでやってきた。彼らは僕のぶんの勘定も払ってくれていた。礼を言うと「気にするな。」と彼は言った。
「お世話になりっぱなしでは恐縮です。何か僕にできることがあれば。」
「お前にできることは、来るべき時のために準備をしておくことだけだ。」
「それは……具体的には何をすれば?」
「ダークエリクサーを摂取する。身を鍛える。内なる声に耳をすませる。」
内なる声に耳をすませる?
「内なる声に耳をすませる?」
「じっくりと考えるがいい。この村でじっくりと。」
そう言うと彼は自分の祭壇に戻っていった。

僕が丘に向かって歩き出すと、女王がついてきた。
「ねえ、あなたの大事なひとのこと、教えてよ。」と、女王が言った。「眠ったままの女王サマのこと。」
「彼女のこと……。」
僕は酔っ払った頭で彼女のことを思い出そうとした。なるべく鮮明に、できるだけ細かなことまで。
「彼女は裁縫が得意で。寒がりだった僕に服を作ったり、マフラーや手袋を編んだりしてくれるひとで。」
そういえば、彼女は僕のために外套を作ってくれるはずだった。
「裁縫が得意。素敵ね。」
「僕は彼女が毛糸を編んでいるところを見たかったんだけど、彼女はどうしてか一度も僕の前ではやってくれない。いつも僕の知らないあいだに裁縫を終いまでやってしまって、しれっとした様子で完成した物を僕に渡してくるんです。どうして作業中の姿を見せてくれないんだろう?」
「私だったらあなたに見てもらいながらしたいと思うけど。でも彼女はそうじゃなかったのね。」
僕は頷いた。

小屋の前に着いた。丘の上は月明かりにほんのりと照らされていた。
「見送ってくれてありがとうございます。」
「ねえ。明日また改めて、ここに遊びに来てもいい?」
「遊びに?」
「今度はあなたのことをもっと知りたいわ。」
僕は彼女の言葉の意味を考えようとしたが、酔っ払っている頭では無理だった。
「ええ、構いませんよ。」と僕は言った。
「約束ね。」と彼女は言った。「それじゃあ、明日の夜。また酒場で。」





しかし結果的に、その約束を僕は反故にしてしまうこととなった。



村でこんこんと眠り続けているはずの彼女が、僕に助けを求めてきたからだ。