どうも風車です。免許の卒検受かったはいいが、免許センターにいつ試験を受けにいくか未だにハッキリしておりません。まさかこういうハヤテ以外の問題でtanabeebanatさんのところの情報(運転免許センターへの行き方まとめ)にお世話になるとは思ってもみませんでした。

 それはさておき、個人的にびっくらこいてることが1つ。こないだ書いた考察(「何でもアリ」な漫画の社会的背景とか)が、意外とそこかしこで取り上げられていました。久しぶりにアクセス数見てみたら、そこだけ数値が倍近くだったり。ていうかあんだけ長ったらしい文章なのに、読んでくださった方々がいらっしゃるという事実にまず感謝。しかもそれについていろいろ言ってくださることにもう感激、自分は果報者です。

 で、調子に乗って(笑)もう少し考えておきたいことについて今日はまとめてみた次第です。tanabeebanatさんの記事「エンディング」とは罪な言葉…や、それに関わるブログさんの記事に多少関連してくるかもしれません。


「ハヤテのごとく!」考察

〜記号としてのキャラクターか、主体性のある登場人物か〜

 1:演劇からハヤテへの導入再び

 以前ワタシはハヤテという作品にはマンガ以上に演劇に近い要素を有している可能性について論述したことがありました。その根拠としてセミパブリックな空間という独自の概念とともにもう一つ、コンテクストのずれからくる「情報の格差」というものについても提言しました(※1)。
 この作品の発端が勘違いから始まったということに加え、更に様々な登場人物がいくつかの世界、というか空間(三千院家の屋敷、白皇学院、西沢さんや咲夜嬢のいる外部)に分けられているこの作品においては、登場人物間における情報の格差が非常に重要な鍵を握ります。知らなかった事実を聞かされたり、特定の人物だけに何かが打ち明けられたりという行為の繰り返しの中で(たとえば4月3日におけるヒナギクの打ち明け話や、ハヤテと咲夜との会話など)、こうしたずれは広がったり、縮まったりを繰り返すわけです。

 ちなみにこの情報の格差という概念はマンガに限ったことではありません。舞台演劇などにおいてはより広範で規模の大きな情報のズレが存在し、それらを是正し続けることが演劇においては必要不可欠である、と演出家、平田オリザ氏の著書「演劇入門」において語られています。
 同書において、具体的な情報のずれの起こるポイントとして

・演劇作品内における役柄同士
・演劇集団内での劇作家、演出家、俳優といった個々人間
・劇場における表現する側と、それを観る側

 という3つを挙げており、これらのそれぞれにおいて情報のずれをなくしていくための対話が必要不可欠である、と述べられています(ちなみに同氏はこの情報のズレを述べる際に「コンテクストのずれ」という概念を利用しています)。もっとくだけた言い方をすれば

1:登場人物同士の間での情報格差
2:実際に演じている俳優と、それを統括する演出との間での、作品への考えの相違
3:登場人物や演出達と、見ている観客達との作品に対する見方の違い。

 ということになるでしょうか。見て分かるとおり1番目の情報格差は芝居の中の問題ですが、残る2つは芝居の外側における情報格差の問題、つまり人と人との直接のコミュニケーションの問題です。ちなみに実際大学で人形劇をやってきた身としては、こと2番目や3番目はこと学生演劇において非常に切実な問題だったりします。時には演出とケンカになっちゃったり……
 まあそれはさておいて、この3つの情報格差のポイントをハヤテという作品に当てはめることはできないか? というのが今回の考察の主な内容になります。これが上手く作用すれば、ハヤテと演劇との間に親和性を求めていたワタシのかつての仮説は、より説得力を増す……かもしれません(笑)。


 2:より拡大させた情報格差の定義 〜咲夜嬢誕生日大感謝祭より〜

 上述の3つのポイントに即してハヤテの作品における情報格差の種類を定義付けしていくと、以下のようなものになると思われます。

1、キャラクターとキャラクターとの間の情報のずれ
2、キャラクターと作者との間の情報のずれ
3、キャラクターと読者との間の情報のずれ

 要は「俳優=登場人物=キャラクター」「演出家・劇作家=畑先生」「観客=自分も含めた読者全て」という3つの公式をさっきのポイントにあてはめただけです。なんも難しいことはやってません。
 1番目の「キャラクターとキャラクターとの間の情報のずれ」というのは言わずもがな、今まで私に限らず多くの人が取り上げてきたものでしょう。
 ナギはハヤテが自分にプロポーズしてきたもんだと思い込んでいるけれども、当のハヤテはそんな気など全くない、というこの作品の根幹部分についてもそうですし、他にもこの作品では様々な部分で「このキャラクターはそのことを知っているけれど、こっちのキャラは本当のことを知らない」というような情報の齟齬というか格差というかがいくつも存在します。ましてや直接対面していないキャラクター達もいるわけですから。

 ところでこの1番目のキャラクター間の情報格差を考える際に注意しておきたいのが、3番の「キャラクターと読者との間の情報のずれ」との混同です。ここでは手っ取り早く愛歌さんと飛行石についてを例にとって考えてみましょう。

 誕生日のクライマックスで愛歌さんは飛行石を手に取り「お金ではどうにもならないこともとても多い」というセリフを残しています。この描写は、上述の3番目の情報格差に対して大きな影響を及ぼしています。
 飛行石が示され、更に興味深い発言がもたらされているこの描写、しかしこの描写が同席しているハルさんではなく、読者に向けて放たれているものであるということは、すぐにお分かりいただけると思います。ここに至って読者は愛歌さんがハヤテ同様に飛行石を持っていることを知り、さり気に彼女が病弱であることを匂わされ、その発言がそれらに起因し、かつ三千院家とも何らかの関わりがあるのでは、という想像を掻き立てられるわけです。
 対して隣にいるであろうハルさんは、読者と同じ領域に立ち入ることは出来ません。仮に飛行石を彼女が垣間見たとしても、「その飛行石が恐らく三千院帝の手から渡ったものであり、ハヤテ君が同じものを身に着けている」という読者ならば持ちえている情報を、彼女は有していないからです(※2)。更に当の本人である愛歌さんはというと、勿論自分のことですから、それらが最終的に意味するところはしっかりと分かっているはずです。
 このように、このワンシーンだけを分解してみても読者と愛歌さん、読者とハルさん、という3番目の情報格差と、愛歌さんとハルさんという1番目の情報格差とが混在していることが分かります。ハヤテに限ったことではありませんし当たり前の事かもしれませんが、読者と登場人物の間にも情報格差が存在し、そこに影響を及ぼすための、つまり読者に対して新たな情報を公開するための描写が存在することを踏まえて読み進めていくことは、作品において人物の相関を客観的に理解する上では非常に重要だと思います。
 まあ、単純に作品に主体的に感情移入して読みたい場合は、あんまり重視することではないと思いますが、ワタシみたいな穿った読み方をする上では特に重要ってことで(笑)。

 ちなみに、誕生日の舞台裏として設定されていたヒナギクの西沢さんに対する打ち明け話。こっちはもう分かりやすいくらいに1番目の情報格差に対して働きかけるエピソードです。ヒナギクと西沢さんの双方のスタンスを読者は充分に理解していますから、ここで語られるべきは観覧車の中の2人の間の問題だけになります。

 ところが、同じ誕生日でもハヤテ君と咲夜嬢との間で語られていたアーたんと自分の兄についての描写。これは明らかに3番目の情報格差を意識して描かれているのでしょうが、問題はハヤテ君の発言に対する明確な情報の受け手として咲夜嬢が存在していること。つまり3番目を目的として行った会話に、1番目の要素が不自然に混在しているように見えるのです。なぜ不自然かといえば、早い話がこの話題について「咲夜嬢に対して語られるべきものであると、読者との間で合意が形成されていないのにもかかわらず、3番目の効果を目的として語り始めてしまった」という点に集約されるでしょう。

 この点に関して平田オリザ氏の「演劇入門」には、次のような記述があります。

 演劇においては、コンテクストの摺り合わせがなされない段階で、表現者の側が鑑賞者に、仮想のコンテクストを押し付けるとき、台詞はリアルな力を失うのだ。
「ここは美術館かもしれない」
「ここが美術館でもかまわない」
 という主体的な合意が形成される前に、
「ああ、美術館はいいなあ」
 という台詞が俳優の側から発せられるとき、人はその台詞を、リアルと感じなくなってしまうのだ。

 今回の場合、咲夜嬢の誕生日ということが大前提としてあることがまず一点。ナギが家族のことを思い出してどっかに行ったということがもう一点。これらの遠くからきている「家族」に対するイメージをよりハヤテ達に近づけるための要素によって、読者に対して「咲夜嬢に対して兄についての言葉を放っても構わない」という合意を求めていくことができなかったことが、以前グレパンさんが述べていたような「地の文を読まされている」という感覚の最大の原因でしょう。ワタシはこれを「エッセンスのばら撒き」と形容しましたけれども。ただ、今後の咲夜嬢が1番目の要素を効果的に利用して描かれていくのであれば、これらの不自然さは多少解消されるかもしれませんが……

 愛歌さんの描写に関してそのような不自然さが見られないのは、前もって飛行石に関する情報が読者に開示されていた上で、バックステージにおける「愛歌さんが病弱で一年休んでいた」という記述の存在、加えて下田編のラストにおけるナギや帝に対する描写の存在(※3)などといったポイントがあいまって「これを愛歌さんに喋らせても構わない」という読者と作者との間での暗黙の了解が成立していたからこそ、成せる業だったわけです。

 今あげたように、3番目の情報格差の描写に対する不自然さの解消においては「キャラクターと読者」という関係を通しながら、キャラクターの延長線上にいる「作者」と読者とのレヴェルにおける合意の形成が必要不可欠です。というか、演劇に限らず全ての表現作品においては1〜3番までの情報格差を利用する上でも最終的な目的として

 作者と読者との間の情報格差

 これを是正し、双方の合意を形成していく過程が求めらるとワタシは考えています。これが成されなければ、作者が何を描いても読者に対して届くことはないでしょう。作り手が一方的に自分の考えを発信しているに過ぎないのですから。畑先生自身これを成し遂げるために詰め込めるものは全て詰め込み、バックステージや単行本すらも駆使して自身の作品の考えを読者に受け入れられるよう届け続けているのでしょう。かつてバックステージの毎週の更新を「不安の現れです」と称していた畑先生ですが、その不安の正体とはこういったものだったのかもしれません。なにしろ演劇と違い、マンガは書き手と読み手との距離に物理的な開きがある上、読み手の規模も数も演劇の比較になりません。それら不特定多数の人々に対してこうした演劇的なスタンスを持った作品、そして情報を提供していくのだとしたら、やはり相当な苦労がいるのではないでしょうか。
 いくら「何でもアリ」とはいっても、書き手が読み手を無視して一方的にテーマを突きつけてくるようでは、いずれは読者に見限られてしまうでしょう。以前も書きましたが、この作品が「何でもアリ」なスタンスを取っている要因の一つには、書き手である畑先生自身が読者への歩み寄りを行っているという点があります。それはとりもなおさず、読者との間の合意を形成し、作品の流れをよりナチュラルなものにしていくための一つの手段と観ることもできるでしょう。


3:作者の手を離れたキャラクター達


 ……書いているうちにかなり横道に逸れた気がしますので、話を情報格差の点に戻します。
 1番目と3番目の情報格差への描写については上で述べたとおりなんですが、残っているのは2番目の情報格差。そもそも描いている作者と描かれるしかないキャラクターとの間に情報格差なんてもんが生じるはずがないし、これは考える必要ないだろ、と少し前まではワタシも考えていたのですが……最近になってあちらこちらのブログさんを回っていく中で、この情報格差についても多少意識していく必要性を感じています。
 その根拠ともなったのが

「キャラとストーリー」(橙の世界さん)
「エンディングからの逆算による弊害」(くるくるばたばたさん)

 の記事でした。
 こちらにあるように、キャラクターが自分たちで勝手に動いていると感じられる作品は非常に読んでいて楽しいものだと思います。それはキャラクターが生き生きとしているという証拠でもありますから。こと小説などにおいて、ワタシも「キャラクターが作者の手を離れて動き出す」なんて話をたまに聞くことがあります。
 ハヤテという作品自体、連載を続けてもう3年になります。そしてキャラクターにはそれぞれ徐々にですが「こう動かした方がいい」という個性が出て来はじめているように思います。こういうキャラクターが勝手に動き出す状況は決して悪いことではないはずです。
 しかし一方で畑先生には「こういう風に動いてくれなくては困る」というシナリオ上の考えがあるわけです。それも他のマンガ等の作品とは少し違った形でのシナリオの組み方ですからちょっと複雑。
 ここをどう折衷させていくか、これが大きな問題です。
 シナリオのために強引に話を進めれば、せっかく浮き出てきたキャラの個性を殺しかねない。一方でキャラの動きに任せてしまえば、自分の描こうとしていたシナリオが崩壊するという危惧がある。
 既に何人かの方が論じていますが、エンディングから物語を逆算するという手法ではこうしたキャラクターとシナリオとの齟齬が非常に大きなものとなるように思います。
 というのもハヤテという作品そのものは、日常の一日一日をじっくりと描いていくマンガだからです。キャラクターたちの視点は日常の私たちと殆ど変わりなく、その日その日をゆっくりと過ごして、前に進んでいきます。自分が今後どうなっていくかは、希望はあるにせよ基本的には分からないわけです。いうなれば演繹法的な行動や試行の元に未来の予測を見出しているに過ぎません。また、この視点においてなら、登場人物たちは単なるキャラクターではなく、リアルに考えて行動する人物として描出されるでしょう。
 一方作者である畑先生が明確なエンディングから逆算してストーリーを構築しているのであれば、キャラクター達とは全く逆の視点からこの作品の世界観を見つめていることになります。明確に描いたエンディングにたどり着くためには、どういったイベントが必要で、どのようにキャラクターを動かしていけばいいかを考えながらシナリオを構築していきます。言うなればこちらは帰納法的な思考の中で作品世界の「現在」の状況を描写していきます。この視点では原則として登場人物たちは勝手に行動されては困ります。あくまで記号としてのキャラクターとして運用していくことになります。

 視点的な意味合いを考慮すれば、キャラクターからの視点と畑先生からの視点から見通せるハヤテという作品世界には、確実な違いがあるといえるのではないでしょうか。これがワタシが先ほど挙げた2番目の情報格差に繋がっていくのではないかと考えています。

 再び咲夜嬢の誕生日を例にとって考えてみます。この誕生日には舞台裏としてヒナギクと西沢さんの対談がありました。それと同時にバックステージの情報を参照すれば、この2人の話は既に下田で決着を付けるはずだったそうです。しかしどうやっても下田の話の中に収まりきらないということで、咲夜嬢の誕生日という場を利用し、苦肉の策としてその他の伏線ともども打ち出したとのこと。
 この畑先生の考えを踏まえてヒナギクが打ち明けるシーンを見てみると、下田の話との整合性、そして密度が恐ろしく高い状況下で告白が行われる予定だったということが分かります。たとえば西沢さんの「会いたいと思えばいつでも会える」という台詞。これは下田までの道中の出来事に裏打ちされています。また、ヒナギクが西沢さんに打ち明ける根拠の一つであった「この人に嘘はつけない」という思いは、まさに下田の温泉での出来事からきています。

 一連のヒナギクの動向を踏まえて、更に下田の道中からラストまでの流れを見ていくとヒナハムの打ち明け話そのものはそれほど時間をかけるはずのものではなく、畑先生としてはさらっと流したかったのかもしれません。実際私にとって印象に残った箇所といえば、西沢さんの「会いたいと思えばいつでも会える」という言葉と「基本的にヒナギクは告白はしない」ということのみ。打ち明け話に対する西沢さんの反応やヒナギクの苦悩そのものではありませんでした。特に後者のヒナギクの主張を踏まえてホワイトデーでハヤテからプレゼントを貰う描写を改めて確認してみると、なんとなくヒナギクの感情に通じるものがある気がします。

 しかし実際にはそうはならず、2週間以上遅れた打ち明け話。この2週間の引き伸ばしをどう捉えていくか。

 畑先生の視点からすれば、単純に打ち明け話を別のイベントに当てはめていったのかもしれません。しかしキャラクターからの視点で捉えれば、この2週間というのは考えている以上に長い時間経過なのではないでしょうか。しかもその間に一番のキモとも言えるホワイトデーのイベントを通過させました。事実ワタシがこのホワイトデーのイベントを読んでいて思ったのが、ヒナギクにとって西沢さんへの申し訳なさというのはここで描写されないのだろうか? ということだったりしたのですが……まあ、それはさておくとしても。

 一日一日のスパンが非常に長いこのマンガにとって、2週間の時間経過というのはキャラクターにとっても、そしてキャラクターを通してこの世界を見つめている読者にとってもかなりデカイのではないかというのがワタシの考えです。ゆえにヒナギクにとっては必要以上に苦悩を強いる時間が長くなりました。同時に読者がヒナギクや西沢さんに感情移入した場合、この打ち明け話に対して予想以上に大きな意味を求めてしまうでしょう。だからこそ、西沢さんの反応はある程度予測ができたとはいえ、あまりにも「それだけ?」という感覚が残ってしまうのでは……とワタシは考えています。もしも畑先生が単純にイベントを当てはめていったのであれば、4月3日の時点でのヒナギクの視点と、畑先生自身が考えているヒナギクの思考との間には少なからぬ開きが生じていると考えれらないでしょうか。

 もちろん、畑先生がそんなに単純にこの作品を捉えているとはワタシは思いません。打ち明け話が2週間遅れたのであれば、それを補填できるようなイベントを考えて作品の軌道を少しずつでも修正していかなければならないでしょう。おそらく今後ヒナギクが描かれていく場合には、このポイントが多少なりとも考慮された描写が存在するだろうとワタシは今から仮説を立てています。それこそが、先述した2番目の情報格差を埋め合わせ、キャラクターと作者との間の共通認識を生成するということではないでしょうか。
 ただ、仮にそれらの描写がないのであれば、恐らく畑先生はエンディングまで見通したときにこの2週間のずれ込みを「誤差の範囲」として捉えていることになるでしょう。要するにワタシの考えは全て杞憂に終わっちゃうわけですがね。

 前にも述べましたが、仮にエンディングからの逆算というtanabeebanatさんの仮説が正しいのであれば、この作品世界を見通す視点はキャラクターと作者との間で全く異なることになります。作品の性質上、キャラクターは先の見えない中で主体的に動こうとしても、畑先生としては自分の考えている未来に向かって思い通りに動かしたいのです。その上、どこかでイベントに歪みが生じれば、キャラクターと作者との情報格差はより明確になり、そのフォローが不可欠です。この異なる立場にある2者間の情報の格差とその補填、共通認識の生成の過程において、ハヤテという作品は次々とイベントや物語を生み出しているのかもしれません。少なくともひな祭りから咲夜嬢の誕生日までの一連の流れを見る限りでは、こうした考え方もできるのではないでしょうか。

※1:このハヤテと演劇の関連性については、こちらの記事を参照してください。ただ、ものすごく長ったらしいですけど……

※2:正確には、この描写に関して「現状では読者に対してハルさんがそういった情報を有しているという事実が伝えられていない」と考えるべきなのですが、ここで考える問題ではないと思いますので、便宜上簡略化します。

※3:母親の死に関して「お金ではどうにもならないことがある」という形でナギが理解をしているという描写。そのすぐ後に帝がそれを認めていないかのように仄めかす描写が存在している。バックステージにおいて、誕生日に盛り込んだ内容の大部分が下田編で語られるはずであったという畑先生のバックステージを鑑みるに、この描写と非常に似通っている愛歌の台詞には何らかの関連性を求めてもいいだろう。


なんつーか、本当にただ「まとめただけ」になってます。さらには無駄に長い……スミマセン。しかも自分自身がその長さに辟易して一色刷りに……。今後は文章のスリム化をもう少し学びたいです。てか、記事を分割した方がよかったのかも。もうホントスミマセン……