
35)若鮎の肌

美和との情事から三日後、純平の不安は的中した。美和から呼び出しの電話がかかってきたのだ。
「羽鳥君、明日の二時に会社に来て頂戴。会社では羽鳥君と呼ぶから、あなたも美和と呼ぶのは控えてね。急ぎで重大な話があるの。都合があっても必ず来て。絶対にね」
美和の強い口調に、純平は言いようのない不安を感じた。
翌日、純平は港区青山の美和の会社へと向かった。約束の時間に遅れないよう、一時間前に近くの駐車場に車を停めた。美和の会社は、十二階建ての新築ビルの最上階にあった。ダークスーツに身を包んだ純平は、近くの喫茶店で時間を潰しながら気を落ち着かせようとした。重大な話とは一体何なのか。まさか三日後に妊娠が発覚するはずもない。美和の真意が全く読めず、不安は募るばかりだった。
約束の三十分前、純平は美和の会社が入るビルへと足を踏み入れた。華やかな通りを闊歩するビジネスマンたちを横目に、純平は敗戦に向かう兵士のように重い足取りで歩を進めた。普段は楽天的で明るい純平も、この日は気分が晴れない。壮大なビルのエントランスの自動ドアが、まるで彼を嘲笑うかのように誇らしげに開いた。
「咲くも散らすも出たとこ勝負、やる気あるなら前に出ろ!」
心の中で北島三郎の歌を口ずさみ、純平は覚悟を決めた。強姦したわけではない。美和の誘いに乗ったのだ。ただ、避妊をしなかったのは純平の落ち度だ。しかし、美和だって純平の行為を拒否しなかった。責任は純平だけにあるわけではない。
それでも、結婚まで貞操を守るというポリシーを持つ美和が、なぜ純平を受け入れたのか、その理由は謎のままだった。あの日の朝も、二人はそのことには触れず、慌ただしく身支度をして別れたのだ。
受付カウンターには、気品のある受付嬢が二人。笑顔で「いらっしゃいませ」と挨拶された。純平は柳沢社長に二時に面会のアポイントがあることを告げた。受付嬢は内線電話で秘書に連絡を取り、左のエレベーターで十二階へ案内された。エレベーターを降りると、豪華な社章が目に入った。
「夢の通販革命 MIWAコーポレーション」
年商六十億円を誇る会社らしい、大胆で誇らしげなキャッチフレーズだ。
ここにも美人の受付嬢がいた。名前を告げると、すぐに「どうぞ、こちらへ」とオフィスの中へと案内された。最新鋭のOA機器が整然と並び、三十人以上の女性オペレーターが忙しそうに働いている。ゴルフ場の事務所とは比べ物にならない、見事なオフィスだった。
入り口から右手にある社長室は、イタリア製の豪華な赤い絨毯が印象的だった。応接セット、社長のデスク、部屋のインテリア全てが品性と貴賓に満ち溢れている。大きな社長デスクに座る美和は、まるで女王陛下のようだった。今日の彼女は白いスーツを身に纏い、眩いばかりに輝いている。
「俺はとんでもない場所にきてしまった」
純平は一瞬たじろいだ。
「羽鳥君、いらっしゃい!先日はレッスンありがとう。楽しかったわ」
美和の冷静な挨拶に、純平は唖然とした。
「いつもお世話いただきありがとうございます」
丁重に挨拶を返し、美和の次の言葉を待つ。
「純平君、今日はあなたにぜひ会わせたい人がいるのよ。もうすぐ来るからお茶でも飲んでお話しましょう」
「会わせたい人ですか?」
「そう、あなたにとってはいいチャンスになるかもしれないわよ」
「チャンスですか?何でしょうね?」
「まあ、会ってからのお楽しみってとこかしら……」
美和はあの日のことには一切触れず、純平の目を見て微笑んだ。純平はこの女帝の目論見が全く読めなかった。<
短編小説ランキング/p>
<続く>