topimage「国賓として来日した大統領・廬泰愚に対し、天皇が謝罪の意をこめて述べたという言葉が「痛惜の念」であるのですが、日本ならびに韓国のマスコミが、知ってか知らずでか、天皇のあの言葉は朝鮮に対する植民地支配を心から詫びる表現であったというふうに報道してきたのはご存じの通りです。しかしその報道に偽りはないのでしょうか
また今回の金大中訪日(1998年10月)をもって「歴史認識問題」については終止符が打たれた、と韓日両政府は主張しているのですが、はたして本当に終止符は打たれたのでしょうか。

「痛惜」なる言葉が中国の古典に最初に現れるのは「文選(=もんぜん)」に収録されている魏の文帝曹丕(=そうひ)の文章であろうかと思われるのです。曹丕は彼自身、大文章家であり「文章は経国の大業(国を治める上に欠くべからざるもの)にして、不朽の盛事(その価値は永遠なるもの)なり」という有名な言葉を残したくらい、人が書き残す文章に特別な意義を認めた人物であるのですが、先ほどのべた「文選」に収められた彼の文章の中に「与呉質書」(呉質に与える手紙)という書簡文があるのです。この書簡の中で文帝は、徳漣という人の文才を高く評価した上で、「その才学、以て書を著すに足る」にも拘らず、かねてから抱いていた「述作の意」を果たす前に病を得て早世したことを惜しみながら言った言葉が、

「美志不遂(=とげず) 良可痛惜(=まことにつうせきすべし)」

つまり「折角の美しい志を遂げることができなかったことを思うと、誠に痛惜に堪えない」であって、「痛惜」なる表現の中に自らの過誤に対して謝るという意味は含まれておりません。

私は元来、意地の悪い人間ですので、どうしても、この言葉と高杉晋一氏(第7次韓日会談の日本側代表)の吐いた言葉を結びつけて考えざるをえないのです。彼は何と言ったか。

「日本がもう20年朝鮮を持っていたらよかった。植民地にしたというが、日本はいいことをやった。よくするために努力したが、戦争に負けたので努力が無駄になった」(『日韓問題を考える』、太平出版社、1965年刊)

まさにこれは「美志不遂 良可痛惜」ではないのですか。
もう一つ今度は、朝鮮の史書『三国史記』からの用例を紹介させて下さい。百済16代辰斯王(=しんしおう)8年7月(西紀392年)、高句麗の好太王は4万の精兵を率いて百済の北辺を襲い、石山見など10余の城を陥落させたあと、10月になるとさらに南下して関弥城(=かんみじょう)を奪いました。関弥城は礼成江下流にある現在の金村郡助邑浦であって、百済の北方を守る重要な軍港であったのです。
ところが百済の辰斯王は好太王の用兵術を恐れるあまりこの城の奪回をあきらめ、都にも帰らず狗原で狩りをしながら無為の日々を送っているうちに、その年の11月、突然、狗原の行宮(あんぐう=旅先の仮宮)で死んだのでした。死んだ辰斯王のあとを継ぎ第17代王として即位した阿辛王(=あしんおう、「日本書紀」では阿花(=あくえ)王は翌年(393年)の正月、始祖・東明王の祠堂に拝礼し、眞武を左将(総大将)に任命すると同時に次のような詔(=みことのり)を賜ったのでした。

「関弥城はわが北辺の要衝であるが、それが高句麗の手中に陥ったのは実に痛惜の極みである。須(=すべから)く卿は朕(=わ)が心を帯し国家の恥辱を雪(=そそ)ぐことに専念せよ」

ここに「痛惜」という言葉が出てくるのですが、これはかつて自分の支配下にあった領地が今他人の手に渡り心が痛むという意味であって、どこを探しても前非を詫びるという謝罪の意味はないのです。

日本の皇室がそこまで「文選」を通読し、そこまで「三国史記」を研究した上で「痛惜」なる言葉を使っただろうか、疑問を抱く人がいるかも知れません。そのような人には「今回天皇の言葉に痛惜なる言葉を入れたいが、それに異存があるかどうか」駄目押しをするために廬泰愚訪日の3日前(1990年5月22日、首相・海部俊樹の特使として廬泰愚のもとに派遣された人物が、かつて大本営に配属されていた陸軍参謀であり、満州の関東軍総司令部で参謀を勤めた瀬島龍三氏であったということを忘れないでほしいと思うのです。

日本の陸軍参謀部が設置されたのは1878年(明治11年)ですが、遠謀深慮というべきか、朝鮮の支配と中国(清)に対する侵冦(しんこう)に備え、設立の翌年から参謀本部は数十人のスパイを放ち該当地域の内情を探らせたのです。とりわけ参謀本部が関心を抱いたのは朝鮮半島と高句麗のゆかりの地・満州に跨がる彊域(領域)の古代史であって、スパイとして派遣された酒匂景信(=さこうかげのぶ)中尉が現在の輯安(=しゅうあん)県にまで浸透し、好太王碑の拓本(酒匂雙釣本)を日本に持ち帰ったのは1883年(明治16年)であったと言います(李進煕著「好太王稗の謎」、講談社刊、1973年)。それをもとに、当時(4世紀)存在していたはずもない「大和朝廷」なるものが朝鮮半島南部に「任那日本府」を置き(「日本」という名称が使われ始めたのは「日本書紀」が書かれた人世紀以後)、朝鮮南部の支配権をめぐって高句麗と戦闘を交えたという、大がかりな歴史の改ざんが、参謀本部の手で進められたのでした。

そのような「史実」に基づいた史観が皇国史観と呼ばれるものですから、日本の皇室には当然、参謀本部的「学究」の伝統が今日まで続いてきていると思って然るべきではないでしょうか。
前の大戦中、大本営並びに関東軍の参謀を勤めたのが瀬島中佐であるとすれば、当然のこととして高句麗好太王の百済侵攻だとか、百済阿辛王が言った「痛惜の念」あたりの「三国史記」の話は熟知のことであっただろうと思うのです。知らなかったのはむしろ無知蒙昧な韓国人側だったでしょう。

「文選」についても同じことが言えるかも知れません。
清少納言の『枕草子(=まくらのそうし)』に「文は文集(=もんじゆう)・文選はかせの申文」という個所があります。「文集」とは「白氏(=はくし)文集」のことですが、「香炉峰の雪は簾(=すだれ)をかかげて見る(香炉峰雪撥簾看)」という白楽天の詩をさえ、さりげなく日常の会話の中にちりばめた清少納言の昔(平安時代)から、「文選」は日本の教養階級にとっては必読の書であって、その宮廷文学的伝統は昔ほどではないにしても、連綿として今日まで生きているのです。変なナショナリズムに毒されハングル専用を主張するあまり、意図的に漢字教育を遠ざけてきた結果、例えば『文選』のような中国の古典文学と縁が速くなったのは、むしろ南北を問わずわれわれの方であるのです。

昔の清少納言だったらただちに見抜いたはずの「痛惜の念」程度の言葉をさえ理解し得ず、手もなく瀬島中佐あたりの詭道(=きどう、だましの手口)に乗せられ「日本の天皇が涙ながらに謝ってくれた」と喜んだ韓国の現状を嘆かずにはいられません。

もう大抵の読者は気づかれたと思うのですが、『三国史記』における阿辛王、その左将眞武、そして敵である好太王の関係は、そのまま天皇明仁、大統領廬泰愚、そして北朝鮮の金日成主席の関係そのものであるのです。このことを熟知の大本営参謀瀬島中佐は、何食わぬ顔で「痛惜の念」なる言葉を廬泰愚に向かって天皇明仁に吐かせたと思うのです。

それはともかくとして、「痛惜の念」を抱いたまま、日本の天皇は金大中大統領の招きで韓国を訪れるかもしれないのですが、これは民族の尊厳にかかわる間題であり、明仁天皇がこの許し難い妄言を自らの口で取り消さない限り、金大中大統領は自らの恥を後世に残すような愚行を犯すべきではないと、私は確信しているのです。

最後に「痛惜の念」という言葉に対する、かの有名な池明観教授の解説について触れましょう。1998年10月9日付『東亜日報』に報道された記事のことですが、この言葉は「日本の作家井上靖が勝手に造った造語であって辞書にも載ってない」と言うんですよ。『東亜日報』の記者(金昌赫)の問いに対する池明観教授の答弁なんです。彼の机には、『広辞苑』くらいの辞書も置いてないんでしょうか。池教授は日本での「亡命」を終え、きらびやかに錦をまとって帰国するなり翰林大学日本学研究所の所長に就任し、また歴史に対する共通認識のための「韓日歴史研究委員会」の韓国側委員長にも政府から委嘱されている立場の人物です。最近はまた、日本文化を解禁するという金政権の政策に応じ、それに対する「諮問委員会」の委員長にも選出されていて、日本の歴史ないし文化の間題に関するオーソリティーとして、文字通り八面六腎の活躍ぶりを見せている人物であるだけに、さっき指摘した彼の答弁では困ると思い、池教授の名誉を傷つけない程度の短い文章を『東亜日報』に書き送って、訂正を求めたのです。1998年10月13日のことでした。その後一度だけソウルの担当記者から電話がかかってきて「上司と図ったうえ、社としてどう処理するかお知らせします」というメッセージがあったきり、その後今日に至るまで、うんともすんとも返答がありません。どうなっているんでしょうか。


【附託】
魏文帝「与呉質書」にある「痛惜」の部分(『文選』)

徳漣常斐然有述作之意其才學足以著書美志不遂良可痛惜

阿辛王(あしんおう)の詔(みことのり)に出る「痛惜」の部分(『三国史記』百済本紀第三)

王謂武曰。關彌城者我北鄒之襟要也。今為高句麗所有。此寡人之所痛惜。而卿之所宜用心而雪耻也