kimbyonglo号は街人。全羅北道淳昌出生。18歳の時、潭陽日新学校にて西洋人宣教師より算術と西洋史を教わる。

1905年乙巳保護条約が締結されるや、龍湫寺で崔益鉉の熱弁にふれ同志を募り淳昌邑日人補佐廳を襲撃した。同年昌興学校を設立し新学問を教え、1910年渡日。1913年明治大学を卒業し、留学中「學之光」の編集長を務める。帰国して京城法専助教授、普成専門講師を歴任し1919年弁護士開業、光州学生運動、6.10万歳運動、元山ストライキ事件、端川労組事件など、関係者を無報酬で弁護を引き受け、1927年に新幹会中央執行委員となる。
8.15光復以後、韓民党創設に参与し中央監察委員長となり1948年初代大法院長(最高裁判所長官)に就任した。1957年大法院長から退いた後、自由法曹団代表、民正党代表最高委員、「国民の党」最高委員などを務めた。その良識において、背族的「韓民党」の中では数少ない異色的人物であったと言えよう。

「断ち裂かれた山河」(ハンギョレ新聞社・2002年)より

シアレヒム」2号(1981.7.15)「 秘話『反民特委』始末記 - チミモウリョウどもの酒盛りはかく始った-」に登場