航空機事故や列車事故では、運行にあたる会社が糾弾から免れることはない。これが自動車事故となると、それがほぼ絶無だ。たとえばトヨタを、「尼崎列車事故の倍の人々を、この国だけで毎月鬼籍に落とす会社」と弾劾する人がほとんどいないのはなぜだろう?

私が知る限り、こうした視点を自動車に向けるのは、「オールドメディア」ではこの著者ぐらいしかない。もう一つ「交通死」も自動車事故に関する良著であるが、こちらは実際に著者の娘さんが犠牲が出発点ということもあって、実情に関する描写はより緻密だが、社会的視点は杉田氏の著書に一歩譲るといったところである。

もし、我々が「面白くなければテレビじゃない」と完全に割り切ってしまえば、これは問題とは言えないだろう。一つ一つの自動車事故は、当事者にとっては大いなる悲劇でも、つまらない日常に過ぎないのだから。列車事故はおろか、「引っ越せ引っ越せ」の騒音おばさんよりもニュースバリューは低いだろう。

しかし、もしメディアに「(世の)役に立たなければメディアじゃない」という機能があるのであれば、一見つまらない日常的な問題も、きちんと料理する必要があるのではないか。「ピーマンはみんな嫌いで食べ残すから使わない」じゃなくて、それでも食ってうまい料理を出すのがプロというものではないのか。

実はこういう「つまらない日常の積み重ね」というのは、ネットがオールドメディアに対して優位性を持つ、一種のキラーコンテントになる可能性はないだろうか?

JR西日本の企業体質 - livedoor ニュース
死因の12%の理由が喫煙と報告されているが、6割も税金をかけている国家の体質はもっと問題なのかもしれない。自分の命は自分でもっと管理すべきだ。乗り物を乗る際は、命を託す覚悟を決めて乗ることも大事かと思う。【了】

もちろんこういう視点が「オールドメディア」に皆無だったというつもりはない。

Contemplating Disaster
In comparison with famie, a plane crash or train smash is almost insignificant, yet it is the smaller event which holds our attention.

尼崎の事故に関して書かれたものではない。 Newsweek の 1977年2月28日 のコラムである(Thisisapen氏に感謝)。以下、拙訳*0

飢餓に比べたら、飛行機事故も列車事故も大したことではない。しかし我々の注意を惹くのは、こうした「小さな」出来事の方なのである。

筆者は記事をこう結んでいる。

The challenge -- for our imaginations as well as for the media -- is to give the wider disasters their true place in human experience.
[我々、そしてメディアの想像力に対する課題は、より大きな災害に対して相応の扱いをすることなのである -- 拙訳]

それからすでに四半世紀。我々とメディアの想像力は、ワイドショーとタブロイドの域から少しでも進歩を見せているのだろうか?

むしろマスメディアに関しては、「偏食」の度合いはずっと進んでいるように思える。「お茶の間の奥様方にはわからないでしょう」という台詞を、何度楽屋で聞かされた事か。そこには「わかりやすい番組を作る」ということを放棄し、「わかりやすい事しか取り上げない」という姿勢が残るばかりだ。「わかりやすい事」という風の前に、「日常的な悲喜劇」という塵がつもって山となることはない--なかった。

しかし、ネットにはそれが出来る。今まで不可能だった塵を集めて山を作ることが可能になったのだ。しかも、塵の主はそれが山になるかどうか意識する必要すらない。ただ自分の日常を連ねて行けば、Googlebotがそれを集めてくれる。そうして出来た山には、相応のPageRank、そして「山としての価値」が自然と出来上がる。

新聞を殺すのはネットそのものではなく、名もないbloggerたちが書き連ねて来た日常と、それを蒐集分析するための仕組みなのかも知れない。

Dan the Needle in the Haystack


  1. Thisisapen氏の訳はこちら。該当部分の訳が申し訳ないがいまいちなので引用部分は拙訳した。