2005年06月16日 03:30 [Edit]
「負けた」教徒達へのまなざし
斉藤環には、香山リカのひらめきも和田秀樹の屈託のない自信もない。
だからこそ、もし私が治療を必要としたら、この人にお願いする。
もちろん今の私はなんとか世の中と「やりくり」をつけているし、他に彼を必要とする人たちはあまりに多いのだけど。
彼は、自分が精神科医としていかに無力かを全く隠そうとしない。それでいて、精神科医を諦めたりしない。
啓蒙的段階を過ぎ、私が引き続き「専門家」を自称し続けるならば、今後はひきこもりの「わからなさ」についてより多く語るべきなのかもしれない。「専門家」とは何にでも回答できる人のことではなく、「何がわからないか」を性格に知っている存在のことだから。それゆえ私は、必然的に精神分析に依拠することになる。常に「分析の不可能性」から出発し、必要十分な時間をかけて、乏しい情報からリアルな謎を想像する。そのための技術として、精神分析に勝るものはない。そこから脆弱な謎を秘めた他者へと向けて、届く言葉に工夫を凝らすことは、私たちの寛容性の最後のよりどころとなるだろう。[pp.86]
彼自身の無力感は、彼の「診療対象」たるひきこもり達と勝るとも劣らないだろう。おそらく彼の「患者」たちのほとんどは完治しない。いや、癒されてすらいないだろう。事実「ニッポンの未明」で彼はさかもと未明と対談しているのだが、「心の沼」に沈んでいく彼女に対して、彼は呆然と立ち尽くすしかなかった。そこには気休めの言葉も叱咤もない。
彼は知っているのだ。ひきこもり達に対して、「出てこい」と呼びかけたり、ましてや無理矢理引きずり出すのは「病状」を悪化させるだけの効果しかないのだろいうことを。しかし、彼らが沼からの脱出を決意し、誰かに助けを要求したら、最初にロープを持って駆けつけるのは彼だろう。
もちろん、中には叫ぶ前にそのまま沈みきってしまう「患者達」もいる。声を張り上げる間もなく餓死してしまうケースだって中にはある。それでも耳をすませて待っている。彼のような人が「外」にいるのだということは、ひきこもりにとって最大の救いかも知れない。
だから、最後にこれだけは言っておきたい。あなたに彼らを「愛する」自信がないのなら、どうかせめて無関心のままでいてはくれまいか。若者の非社会性などという似非論壇めいた問題意識は、どうか忘れてはくれまいか。それは、あなたに直接害を加えない他者への、最低限の礼儀というものなのだ。そして、「礼儀を取るか愛を取るか」こそは、まさに「公正さ」の入り口に横たわる問題なのである。[pp.21-22]
私はこれが同業他者へのメッセージに思えてならない。強いて言えば、「『愛する』自信」ではなく、「『愛する』力量」なのだろう。その表現の差に彼の自らの力量に対する告白が見て取れる。彼を持ってしても、現時点では礼儀を取って、愛が満ちるのを待つしかないのだ。
これも、立派な愛ではないのか。
Dan the Impatient Patient
P.S. それにしてもこの本、最新刊のはずなのにamazonでは現在最下位だった。一位はもう出版されて7年が経とうとしている「社会的ひきこもり」。「『愛国』問答」もそうだが、もう少しラクレはがんばってほしいなあ。出版社がひきこもっててどーする!。
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自分でわからないものを「わからない」というだけの実力と自信がある。
コメンテーターには向かないが。

