本blogでは、塩野七生を何度も取り上げている。

にも関わらずまだ「寸評」はあっても「書評」をしていなかった。

今年も半分終了し、私生活でも大物の処分が一つ終わったので、そろそろ行ってみることにする。

塩野七生は、その冷徹な文章運びとは裏腹に、惚れた対象に対して書き抜く、懸想文作家である。おそらく彼女の懸想の極北はカエサルだろう。そのドーパミン放出力の強力なこと、私まで百人隊長になりたいとのぼせながら思ってしまったぐらいだ(実際には傭兵隊長みたいなもんだが)。

それでは、塩野七生が本書を著したときマキアヴェッリに抱いていたのは、恋慕だったのだろうか?

本書は「懸想文」という塩野スタイルを踏襲している。にも関わらず、彼女が懸想しているのは主人公マキアヴェッリではない。懸想の対象はフィレンツェ共和国であり、メディチ三代であり、フィレンツェの花である才気あふれる人々である。彼女は共同体というものに対してきちんと懸想できるとまれな作家なのだ。「海の都の物語」を見ればその点明らかで、こちらは突出した(傑出した、ではない。そちらはよりどりみどりだ)人物が出てこない分、非常にわかりやすい。

それでは、彼女がマキアヴェッリに対していたの感情は一体なんなのか。

友情、である。

古代ローマから現代まで、彼女はおよそありとあらゆる時代の「イタリアの伊達男たち」を著作、すなわち懸想の対象として来た。が、マキアヴェッリに対してだけは違う。

わが友、なのである。

「タイトルにそう書いてあるじゃん」というのは論外としても、「やはりマキアヴェッリに懸想している」というのは塩野ファンが陥りやすい罠。しかし、「読んでいる」だけではなく「書いている」人は絶対この点を誤解しないだろう。

証拠として、私は以下を引用、いや孫引きすることにする。マキアヴェッリ本人の言葉だ。

「礼儀を弁えた服装に身を整えてから、古の人のいる、古の宮殿に参上する。そこでは、わたしは、彼らから親切にむかえられ、あの食物、わたしだけのための、そのためにわたしは生をうけた、食物を食すのだ。そこでのわたしは、恥ずかしがりもせずに彼らと話し、彼らの行為の理由をたずねる。彼らも、人間らしさをあらわにして答えてくれる
 四時間というもの、まったくたいくつを感じない。すべての苦悩は忘れ、貧乏も恐れなくなり、死への恐怖も感じなくなる。彼らの世界に、全身全霊で移り住んでしまうからだ。」

「古」を「脳内」に書き換えると、なんだかそのまま電波男に思える。その点において、本田氏は立派な作家であり、脳内宮殿の描写力、そしてそのための現実の分析力は決してマキアヴェッリに劣るものではないだろう。

しかし、マキャベリがすごいのはそこからだ。

電波男がその宮殿で天国を満喫し、その天国に癒されているのに対し、マキアヴェッリは「地獄への道案内お願いします」とのたまっているのだ。

マキャベリの著作は、ことごとくこの「脳内インタビューによる、地獄マップル」になっているのだから愉快だ。塩野七生でなくてもお友達になりたいではないか。マキアヴェッリ本人は、ちっともマキアヴェッリストでないのだから。韓非がちっとも性悪論者でなかったのと似て。

その友によせた、ちょっと冗長な弔辞が、本作品である。そこで彼女は彼の幼少時代を書き、青年時代を(おそらくチェザーレ・ボルジアを思い出しながら)書き、その妻を書き、旅先での「ブスメン」との逢瀬を書き(ここでのキモメン代表がロレンツォ・メディチ)、モームを取り上げながらそのいささかヘタれたラブコメを書き、そしてフィレンツェ共和国の滅亡をもって、その歴史的(イストーリコ)で、喜劇的(コミコ)で、そして悲劇的(トラージコ)な彼の人生を締めくくっている。

それでは彼ら--ニコロ・マキアヴェッリと塩野七生がどんな男たちに惚れるか。

これは、両者の著作を読めば明らかだ。

地獄への道を熟知し、人々を天国に送り届けるにも関わらず、自らは地獄へと堕ちることをいとわない男たち

である。

現代日本人は、塩野七生に惚れられなくて誠に幸いであるというべきだろう。地獄に席を予約している男(ここではあえて「人」ではなく「男」)しかこの女(ひと)は惚れないのだから。

煉獄のニコロも笑って同意してくれると思う。

Dan the Historic, Comical, and Tragic Man