2005年11月17日 14:15 [Edit]
自由と平等の間には
講演前で時間がないので手身近に。東京に戻って来たので改めて。
資本主義の申し子である新興企業のリーダー達の話す言語は資本主義のそれであるが、その向かっている矛先は民主主義の言葉を語るリーダーであり、語る言葉が同じ日本語でありながら、まったくかみ合っていない。それはどちらが正しいと言うことではなく、依拠している宗教が違うくらいの違いがあるように思える。
だからこそ、Liberté(自由), Egalité(平等) の最後に Fraternité があったのだと思う。
「博愛」と訳されるこの言葉だが、この訳はちょっと気に入っていないのであえて仏語のまま。
直訳は「兄弟愛」。コンテキストを勘案すると「同胞愛」となる。
しかしこれはカインとアベルほど中の悪い「二人」を取り持つだけの力があるのだろうか。
本書はこの Liberté, Egalité, Fraternité に代表される「西洋的国家理念」に対する批判と、それに対する「日本的代案」の本である。
批判の部分は、同意できる点ばかりだ。特に第二章、「『論理』だけでは世界は破綻する」は、文学者の息子にして数学者である藤原氏の面目躍如といったところだ。きちんと不完全性定理にまで言及しているのは、数ある「文系による西洋批判」が見落として来た点でもあり、本書を読むといわゆる文系の教養不足が垣間見えて痛快ですらある。
しかしその対案はどうかというと、数多の類書と同じく、「昔はよかった」「やっぱ武士道」といった感じで、藤原氏の批判力の限界が露呈してしまっている。
藤原氏は「卑怯を憎む心」を特に重視している。そのこと自体は私も賛成である。しかし「それに理由は必要ない」とするのは、数学者らしからぬ理の怠慢なのではないか。
卑怯はなぜ悪いか、これはきちんと理で詰められるのである。卑怯の代表として筆者が取り上げる「弱いものいじめ」を例にそれを解いてみよう。
弱いものいじめが悪い理由は、二つある。
一つは、「弱いもの」の定義が日々刻々と変わること。先ほどのEntryのとおり私は眼鏡をなくすというポカをやったが、眼鏡なしの私はその時点で「弱者」へと変わった。逆に言えば、眼鏡さえあれば弱視者という弱者は弱者ではなくなるのだ。弱いものをいじめるということは未来を狭めることを意味する。
もう一つは、弱いものを切り捨てて行くということが、共同体そのものを小さくしてしまうことにつながるということだ。40人が1人をいじめて排除し、残った39人の中の別の一人をいじめて排除し....いきつくところは1人になってしまう。赤軍は総括で自滅したではないか。
藤原氏は会津藩の日新館の七か条の結びの結び、
ならぬことはならぬのです
を引き合いに出して、こういったことは理屈抜きで教えるべきだと解いている。確かにこれらの「躾」は、「問答無用」で教えるべきだと私は思う、が、それは「ならぬことはならぬ」ではなく、理を説いていたら「間に合わない」からだ。理には証明が必要だが、工に必要なのは公式だ。そして社会を生きて行く以上、これらの「公式」は証明できる前に使えるようになっている必要がある。
だから「問答無用」は本来緊急避難なのである。子供が成長したらきちんと公式の証明を説くべきなのだ。そうしてはじめて理と工が揃った、公を担える大人が出来上がるのではないか。
こうして育てられた日新館の子供たちが戊辰戦争でどうなったのか、藤原氏が知らぬはずはないはずなのだが。
理で動かせぬこともある。だからこそ、理を尽くすべきではないのか?
RHEOS REPORT:民主主義と資本主義(2) - livedoor Blog(ブログ)Fraterniteの議論はこれから特に必要なのだと思う。自由と平等という怪物をけん制し、世界に安定をもたらすという・・・・。あ、これはスターウォーズにおけるフォースですな。
またの名を「武士道」。藤原氏が説く代案でもある。残念ながらは自由と平等の相克を調和させるのには力不足なのだ。
レジデント初期研修用資料: カオスの縁を目指したフォースの意思ジェダイは弱い。どうしようもなく弱い。
正義が勝てる場面は何回もあった。さっさと議長を殺害できれば。クローン軍の契約を打ち切って、もっと別の方法を探れれば。
そう。ジェダイは武士道ゆえ、共和国を損ねてしまった。武士道は美しい。そして美しいものを愛でる心が「国家の品格」を確立するのに肝要だと藤原氏は説く。しかし見ての通り、武士道は弱く儚い。品格は美しく儚い故に、国家の目標とはなりえても、国家を支える柱とはなりえないのだ。
それが Fraternité なのか、藤原氏の説く「惻隠」なのか、はたまた全く別の何かなのかは、私もはっきりとした結論をまだ持たない。しかし現代社会の問題が、自由と平等の葛藤にあることだけは確かなようだ。
Dan the Fratérnal(?) Man
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フランス語なら
frataniteではなく、
fraterniteでしょう。
『クラウン仏和辞典 第5版』のfraterniteの項には、
"Liberte,Egalite,Fraternite「自由、平等、友愛」(フランス共和国の標語)"と書いてありますが。
厳密に言えば、3つの単語とも、最後のeはアクサン・テギュ(accent aigu)のついたeです。htmlファイルなら、éで表示される文字です。
弱い動物だから、集団にならなければ身の安全は図れないし、集団内に争いが生じたときも相手を(素手で)殺してしまうことは難しい。
ところが、道具を持ったとたん、カインがアベルを殺すことが可能になりました。サムソンがゴリアテを倒せるのです。
ちょっとした諍いが共同体を全滅させる可能性が生じた以上、これを防ぐのが急務になるました。
そこでリーダーたちは、『ケンカに道具を使うのは卑怯である。』とか、『弱いものをいじめてはいけない』とか、まあ、『武士道』の原型をこしらえ、同属殺しを防いだ、と考えられます。
でも、これは散ってしまった花。いくら美しかろうと藩幕政以外の土壌に咲くとは考えられません。
Merci. Spellchecked.
Dan l'Homme à Errer
被害者であることが多かった少年時代、気付かずに加害してしまった青年時代、美しく生きたいと思い続けた成年期を経て今は生産は悪だと思うようになりました。
しかし、けっして自分が絶対零度に到達することはないと知っています。
哀しいです。
愛は軌跡=奇跡だ。
では、絶対的にそうか?と言うと、必ずしも、そうだと思えない。
そこで、プリミティブな質問。『絶対悪』は存在するか?
もし、存在するとすれば、それは何か?
『闇』を知れば『光』を見ることが出来ると思うのです。
一つの価値観というか一つのものを絶対基準にしてしまうとその世界は矛盾をはらんでしまうでしょうね。結果崩壊する。なにごとにも多様性が必要だと思います。
弱いものいじめがいけない理由の一つはその多様性を殺してしまう可能性が大きいからだと思います。
躾は子供のころは問答無用でも成長して理解できるようになったらちゃんと理由を説明する必要があるという意見には大賛成です。
逆です逆です。そこは理屈抜きで正しいことを選びとることの
重要性を言っているのですから。
藤原氏の論旨からすれば、弱いものいじめをしても良い理由だって
いくつもひねりだせることになるのですよ。
エントリー拝見しました。
>これは「ならぬことはならぬ」ではなく、理を説いていたら「間に合わない」からだ。
同感です。躾というのはそういう事だと思っています。
空手の場合、教えるのは「型」であって「手」ではないということに近いんじゃないでしょうか。
Just Fe〜el!!
だとおもいました。 \(^o^)/
小生個人的には、藤原先生が書かれている
「論理、理は、理のつけようがない
始め(前提)がある」がこの本の肝だと思います。
結局は他人だけに都合のよい前提からはじめた
論理によって、兵隊にさせらないように注意すべきだという
ことだと思いました。\(^o^)/
