2005年12月23日 20:07 [Edit]
「誰が言ったか」>>「何を言ったか」
なぜ、
blog != web_diary; # but why?-向井さんのコメントではなぜそのような現状に対して「そうじゃなくてシカトするべきだ」という主張をされたのでしょうか。
と言われたら、
blog != web_diary; # but why?-ただただしさんのコメント記事の信憑性は内容のみで判断されるべきであり、TrackBackやコメントを受け付けているかどうかで判断すべきことではありません。そして内容の判断は、TrackBackやコメントがなくてもできることです。
という風に我々の対話システムが出来ていないというのがその答えになる。
我々は実のところ、人の話しを吟味するにあたって「何を言ったか」よりも「誰がそれを言ったか」の方を重視するよう出来ている。
科学の素養がある人ならば卒倒しそうな見地だが、実際そうなのだから仕方が無い。
命題にあたっては、その命題のみを審議の対象とすべしというのは科学的態度の基本中の基本だ。「誰がそれを言ったか」はそこでは「無関係」どころか「判定の邪魔」ですらある。E = MC^2 はアインシュタインの人格とは無関係に成立しなければならない。ヒトラーが言っても「1+1=2」は真だし、マザーテレサが言ったとしても「太陽は地球の周りを回っている」は偽である。
ところが、このアプローチはあまりに高くつく。命題のみを判定材料にするためには、その命題の実証は受け手が行わなければならない。「1+1=2」のような比較的簡単な命題ならまだしも、「地球の裏で旅客機が墜落しました」というような命題を自分で検証するのはあまりに困難だ。
その代わりに我々がとっているアプローチは、「信頼度による検証」だ。そこでの判断材料は、命題そのものの審議ではなく、話し手の信頼性だ。「地球の裏で旅客機が墜落しました」という命題は、私が言ったのと、NHKが言ったのと、はたまたbogusnewsが言ったのではまるで受け取られ方が違う。
もちろん、このアプローチには危険が伴う。実のところ「今まで嘘をついていなかった人が明日も嘘をつかない」ということには、論理学的にはまるで根拠がない。「今まで嘘をついていなかった」ことと「明日も嘘をつかない」は、論理的にそれぞれ独立した命題である。狼少年もたまには本当のことを言うし、弘法だって筆を誤る。その反省として科学的判定法が導入され、我々現代人は「誰が言ったかより何を言ったか」という事を耳にタコができるぐらい言われ続けてきた。しかしそれを主流にするには、世界は広過ぎ、人生は短すぎるのだ。
だから我々は、自ら相対論を実証する代わりにアインシュタインの言う事を「信じる」方を選ぶ。科学コミュニティにおいてすら、自分の専門範囲以外では「信頼度による検証」を用いざるを得ないのだ。ポール・グラハム論法がはやる所以でもある。
そしてその「信頼度による検証」を支えているのが、動的な信頼度の再設定だ。今まで嘘をついていなかった人を明日信じる理由は、この動的信頼度設定によってその人の信頼度が上がっているからだ。もしこの人が明日嘘をついたとすると、あさってにはその人の信頼度は急落する。その逆に狼少年も反省を宣言し、そして信用を積み上げて行けば信頼度は回復する。
実は Google の Pagerank というのは、これを機械的に行っている行為とも見なせる。「信頼度が高い人の発言もまた信頼度が高い」というのは「高い Pagerankを持つPageにあるLink先のPagerankも高い」という風に言い表せる。
この信用度は、日々刻々と更新されている。そしてその更新度を決める重要な因子が、その人がどれだけ異議申し立てに対して開いているかだ。我々は真偽が明らかな命題だけを扱っているわけには行かない。今夜のおかずや明日の天気といった、「命題未設定」問題も扱わなければ死んでしまう。そして命題未設定問題を扱うにあたって最も重要なのは、条件が変わった時にそれを受け入れられるか、なのである。
だから、条件変更を受け入れる人の信頼度の方が向上する。反省は信頼の証なのである。
現在のPagerankの欠点の一つは、Linkの意図までは汲み取れないことにある。Linkは何もページ作成者がLink先のページを信用している時につけるとは限らない。全くその逆、「このLink先は信用できん」という時にも付けるものだ。しかしその区別はGooglebotには出来ない。結果としてネガティブSEOがポジティブSEOになってしまうことが多々生じる。そしてこの欠点は、Googleだけではなく我々にもあるのだ。我々はGoogleよりは個々のLinkを吟味するが、吟味したLinkの数ではとても太刀打ちできない。いきおい、ネガティブな評判も、数が多くなればポジティブになるといったことがしばしば生じる。
これに対抗するには、地道であるが個々の「信頼性再設定アルゴリズム」を、なるべくこうした「判定システムの錯誤」が起きないよう再設定していくしかない。その中で最も効果がありそうなのが、「聞く耳を持たぬ奴はシカト」なのである。これにより、「過剰信頼性」は早期に「調整」される。
匿名の意見を実名の意見よりも「割り引く」理由もまた、この延長にある。信頼が命題ではなく発言者にある以上、発言者のIDが不明な場合は「信頼度」を「中立」にせざるを得ない。匿名意見に対して実名のそれとおなじだけの信頼度を与えるのもまた「信頼性バブル」の原因となるのだ。
blog != web_diary; # but why?-鈴木さんのコメント別にトラックバックやコメントじゃなくても、例えばリファラを見て気がついて反応する、ということもあり得ますしね。
もちろんcommentやTBだけがフィードバックを得る方法ではない。が、技術的に一番自然な方法でもある。だからその分割引ましょう、ということ。私はなにもきっこ氏の書く内容がすべてガセと言っているつもりはない。
あと、信頼性というのはしごく重要な属性ではあるけれども、その重要性は各人において異なるというのも忘れてはならないだろう。信頼性の維持には莫大なコストがかかる。「命題の全検証」よりは低コストだが、それでも誰でも負担できるほど低コストでもない。だから
ふたたびただただしさんのコメント小飼さんの言論を「割り引いて」考えなくてはいけなくなります。
割り引いてもらった方が発言者は心理コストが低い、すなわち「気が楽」なのだ。信頼性は、高過ぎても低過ぎても円滑な発言をさまたげるということは確かだろう。
以上が、「信頼性の市場」に関する私の仮説である。
Dan the (Un)?trustworthy Man
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「『太陽は地球の周りを回っている』は偽」って言うのは何でですか? >小飼弾様
幾何学的にはどちらも真である筈。
マザーテレサならキリスト教だから、どっちかというとこっちの立場の方がありそう。
物理学や論理的にどちらが説明が楽かというと、もちろん「太陽は地球の周りを回っている」の方ですが、誰かそれを見たり確かめたりした人はいるのか?
まだ誰も太陽系外に出ていないので、見た人はいないと思うのです。
誰か説明して下さい。
エヘヘッ。 (^^)
信頼度を測ろうとすると、それなりに継続したブログ/日記であれば過去の記事をいくつか読んでみるという手段が有効であろうと私は思っています。もちろん体裁で判断するのに比べれば遥かにコストはかかるのですが、それでもその方がよいだろうと。
答え方は2つあると思います。
1. 見て確かめた者がいないとしても、これまで膨大に蓄えてきた科学的知見、観測結果、論理、すべてがそうであることを示しています。安易に言葉を入れ替えてもどこかで矛盾が生じるので上手くは行かないだろうということです。
2. 所詮運動は相対的なので、系の取り方によっては地球のまわりを太陽が回っているのも、太陽が地球のまわりを回っているのも両方正しいですね
お好きな方をお選びください ;-)
万有引力の法則でさえ、正しいとは簡単には証明できません。
何せ未だに万有引力は何桁まで正しいと言えるかを実験している人がいるのです。
万有引力の法則を決める重さや距離も実は全てある前提の下の設定なのです。
人があることを理解・認識するには必ず前提があるのです。
極端な世界や社会では前提は全て崩れて、常識が一切通用しない状態となります。
私はBlogもNHKも何も信用してません。
もちろん小飼弾様も向井様も信用してません。
自分自身をも信用していません。 (゜o゜)
人に関して私が見る部分は、「この人はどういう立場で」「どういう意図で」「どういう行動をしたか」です。
そういう意味では、小飼弾様はTVにまで顔を出して仕事の内容もさらしている人なので逃げも隠れもできないので、ある程度信用します。
しかしながら件の「きっこ」様は、謎の人なので、簡単に信用するのは怖いと思います。
書いていることは現時点で仮に全部正しいとしても、ハーメルンの笛吹きのように楽しい音色で誘導して、皆を危ない洞窟へ連れて行こうとしているのかもしれない。
エヘヘッ。 (^^)v
どうやって証明するのでしょうか。
知らないふりをしているとは思いますが。
例えば、従来コメントを受け付けた状態で数々の記事を書き、ある程度の信頼を得ていた人が、ある日スパム対策を理由にコメント欄を閉鎖したとしましょう。その日を境に、その人の信頼度は下がるでしょうか? 通常は下がりません。まして、信頼を勝ち得るまでコメントを受け付けていればOKというものでもありません。コメントの可否というポイントは、信頼度の評価基準としては脆弱すぎるのです。
私が読んだかぎりでは、トラックバックやコメントを受けつけているかどうかが、「ひとつの要素」にあたることには、とくに異論・反論はないように見受けられます。したがって、すくなくとも、そのかぎりでは、意見は一致しているのではないでしょうか。
論点は、その「ひとつの要素」である、トラックバックやコメント受けつけの有無を、どの程度の比重をもつものとして判断するか、ということだとおもわれます。
この話題を煮詰めてゆくのであれば、どの程度の比重を与えて判断するのが適切か、というかたちで、真正面から取りあげてゆくのが、生産的かなとおもいます。もっとも、意見が一致している、というところで、議論を打ち切ってしまうのも、ありだとおもいますが。
いかがでしょうか?
ましてやその指標をもとに「blogかどうか」を切り分けるなどナンセンスだ、と主張しています。
まぁ、正直なところ、これ以上続けても意味なさそうなので、私はもうツッコむのはやめようと考えていますが。
失礼しました。
なお、「blogかどうか」を切り分けるのはナンセンス、という部分は、私も同意見です。

