2005年12月30日 06:10 [Edit]
ルビの瀰漫、もとい波及
これを見て、昔書いたCGIを思い起こした。
内田樹の研究室: 配架の愉しみと語彙についてけれども、「瀰漫」は「蔓延」や「波及」や「一般化」とはニュアンスが違う。
どのような他の語をもってしても「瀰漫」の語のはなつ「瘴気」に類したものは表すことができない。 この「瘴気」だってそうだ。
「毒気」では言い換えることができない。
rubyfury.cgiという名前のCGIで、任意のWebページにルビをふるものである。1時間弱ほどの即興で書いたものだがなかなか使える。ソースは こちら。
あくまでProof of Conceptのプログラムなので、私自身はこれ以上手を入れる気はないが、Ajax化もそれほど難しくはないだろう。
勘違いしているひとが多いが、「現代人は情感が乏しいので、情感を表す語彙が貧困になった」のではない。 「情感を表す語彙が乏しくなったので、情感が乏しくなった」のである。
同感だが、語彙を我々はどこから学ぶかと言えば、「書いてあるもの」からだ。それは書籍であり漫画であり今ではWebページでもあるが、その語彙に触れただけでは情感はともなわない。発音がわかってやっと語に情が伴うのだ。「辞書を引け」というのは容易い。しかし辞書を引く行為は読書の流れを寸断する。
かつてはルビがそれを補完していた。戦前の新聞を見ると、よくもまあというぐらいルビが振ってあった。今ではルビというのは子供用とされており、大人の読み物ではあまり見かけず、むしろ文学的小道具として使われている。
とはいえ、何でもかんでもルビを振るのはうざい。文学ならとにかく通常の文章ですべからくルビをふってあると気がそがれる。rubyrufy.cgiでもabbrタグを利用するよう指定できるが、これであれば読めない字にだけマウスをかざせば読みが出てくるように出来る(弾←これで確認してみよう)。こういった工夫を書き手の労力なしで成り立たせるサービスもWeb 2.0に分類されるのだろうか?
日本語が痩せているということがすべての問題の底流にある。
それはちょっと違う。痩せているのは日本語そのものではない。我々の日本語力だ。
この二つは違う「日本語」と言った場合には日本語の言語空間全てを、「我々の日本語力」と言った場合はそのうち各人がアクセスできる領域をそれぞれ指す。焚書でもしない限り、過去の蓄積にさらに新しい語彙・表現が加わる以上日本語そのものは簡単に痩せたりしない。しかしその言語空間をどれだけ闊歩できるかは各人のふるまい次第だ。
ITはそれを広げる方にも狭める方にも役に立つ。今のところ、広げる方に役立っている例を数多く目に出来たのは一技術者としてはうれしい一方、それが使われないまま放置されている例を見ると悲しくなってくる。
この点に関しては、「文系」の怠慢はいささか目に余る。「理系」がかな漢字変換を提供し、ワープロを提供し、Webを提供し、そしてblogを提供した間、文学者たちは何をしてきたのだろう?
Dan the Rubyfurer
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「メルチメディアデイジーについての考え方 by リヴァイアさん」
ルビを振って呉れるのですか、あら便利。
でも、リヴァイアさんは、完全な文系でもないから、ちょっと違うか。
#点字本を自分で起こす生存している日本人ノーベル文学賞受賞者とかいうのも見たい気がする。
おおよそ文科が人として、なし得ることは2000年前に完了しているだけです。
新人類、と言うより『Overhuman』が現れない限り、文科はこの袋小路の中で興亡を繰り返すでしょう。
理科に関していえば、もはや引き返すことの出来ない状況に来てしまった以上、絶望の川を渡りきるか、おぼれて全滅するか。
命のあるうちには観たくないです。
広辞苑より
(為スベカリのク語法。多くの場合、下の「べし」と呼応する)なすべきこととして。当然。
ク語法・・活用語の連体形にアクを加えて名詞化する語法。
以前から何度か誤用されていらっしゃるようなので、気になり書き込みました。
abbrは、本来は略語を指定するタグのようです。
