2006年01月14日 10:40 [Edit]

いじめの非対称性

社会あるところにイジメあり」への反響のあり方には考えさせられる。これだけ多くの人にブックマークされながら、これほどTBやcommentが少ないというところに、いじめ問題の特徴が透けて見えるようだ。

ブラジリアン・ガールと不器用な俺の物語 | 今、そこにあるいじめ
この議論は今現にイジメで苦しんでいる人に対しては何の具体的な解決策も提示していない。それどころか、無関心な、間接的にイジメに荷担している層を「イジメは人間の本性」だとばかりに開き直らせてしまいかねないと思うのだ。

確かに「寛容性」と「流動性」は具体策を示すキーワードとしては抽象的かも知れない。しかし、そこから具体策を導くのはそれほど難しいことではない。というよりさまざまな具体策を私が私自身の経験も踏まえて抽象化したというのが正しい。

まず「流動性」だが、これは「いじめられた側の対策」である。「いじめる社会から抜ける」というのは、いじめに対する対策としては最もよく行われる方法だ。私自身が取って来た対策でもある。教室や職場でいじめにあったらやめてしまえば少なくともそこではもういじめられなくなる。実に効果的だ。

どれだけ効果的かは、ミクロのレベルからマクロのレベルまで行われていることを見ればわかる。いじめは実は社会対個人という形を取るとは限らない。大社会対小社会という形を取る事も多い。その際小社会側がその大社会を抜け別天地に向かうという行動は、しばしば世界史すら動かして来た。南北アメリカ大陸の国々は欧州におけるいじめが生み出したといえば言い過ぎだろうか?そう。ブラジルもいじめが生んだ国の一つなのだ。ここ一世紀で最も有名な事例としては、ホロコーストと国家イスラエル成立というのは懸命な読者ならすぐ想定して下さった事だろう。

もっとも、これが対症療法に過ぎないことも確かだ。この方法ではいじめた側は何の制裁も受けないし、またいじめらっ子が転出先の社会でまたいじめにあわないという保証は何もない。そして何より怖い事に、この方法はいじめられっ子がいじめっ子に攻守逆転することに対して何の歯止めにもならない。

欧州のいじめられっ子たちが、「新大陸」の住民達をどう扱ったかを見ればこのことは痛いほどわかる。ブラジルも例外ではない。今だってアマゾンの奥地で「集団いじめ」が着々と進行中なのではないか?イスラエル(国名)がいまパレスティナ(地名)で何をしているのだろうか?

だから、「寛容性」なのである。いじめを止めるには流動性が必要だが、いじめをなくすには寛容性をもってするしかない。

それは「寛容性」とは何だろうか?難しそうな言葉だ。実際知ろうとすればするほどわからなくなるほど難しそうだ。なにしろAlexander Popeという人はこうまで言い切ってる。

Alexander Pope - Wikiquote
To err is human, to forgive divine.

「許す」ということは「神業」でしか無いのだろうか?もっと地に足の着いた「許し」というのはありえないのだろうか?

その第一歩は、痛みを知るということだろうと思う。痛みを知り、それを自分が誰かに為そうとしたとき、その時自分にとって為されたを想起してその誰かの立場に共感して、はじめて許すというのがどういうことかが「わかる」。

その点において、いじめは難しい。まず痛みがわかりにくい。いじめの痛さは、いじめられてた者でないとまずわからない。いじめている側にはその自覚すらない場合がほとんどだ。

しかし「許す」のが本当に難しいのはまさにここからだ。その痛みを知るということは、人においてはむしろその次の段階、「その誰かの立場に共感する」ことをむしろ難しくする。目には目を。歯には歯を。痛みには痛みを。その痛み故、痛みがわかるものはかつて痛みを与えた者に復讐心を抱かずにはいられない。

確かにこうして見ると、許すということが神業に思えてくる。自らは痛みを知りつつも、それを人に与えるのは思いとどまらなければならないのだから。

しかし、本当に思いとどまらなければならないのだろうか?おそらく完全にそうするのは「神業」だ。そしてその時思いとどまったことは、残念ながら痛みを与えた側には伝わらない。統治理念に寛容をかかげ、自分の敵対者をすべて許したカエザルがどうなったかを我々は知っている。

そこで「目には目を、歯には歯を」である。この言葉は現代においては野蛮な刑罰として理解されているが、かつては刑罰の濫用を戒めるための法典だった。「目には目以上を奪ってはならない。歯には歯以上奪ってはならない」と当時は読んでいたのだ。

そう。痛みはある程度返してもいいのだ。その事は相手に痛みを知らせる効用も持っている。自らの復讐心を鎮める働きも持っている。これであれば、神ならずとも実行できるのではないか。問題はその加減だ。弱過ぎては教訓とならず、強過ぎては復讐の応酬になってしまう。そう簡単ではない。しかし神業とまでは言えない。

これを「寛容」と呼ぶのに語弊があるなら、「節度」と言い直してもいい。これであれば、我々の努力次第で持てるのではないのだろうか。

Dan the Potential Victim(izer)


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この記事へのコメント
「本文の文字数が多すぎます」とか言われたんで手短に書くけど。
「いじめ」の酷いのは、たいてい「対象を社会から排除するためのいじめ」というやつ。例えば空気の読めない人間や調和を乱す人間を、「これは痛いだろう」と思うことをやってコミュニティから追い出す。そしてこの場合、当然ながら、いじめる側がいじめられる側の痛みを知らないはずがない。
というわけで、「痛みはある程度返してもいい」というのは誤った認識だと思うのだけど。そんなので効果があるのは、「いじめる側の自覚のないいじめ」という、なんか被害妄想みたいな「いじめ」だけ。普通は火に油を注ぐだけの結果に終わる。
Posted by くぁwせrftgyふじこlp at 2006年01月15日 00:04