申し訳ないのだが、これを見た時点で、「高校教師の補講ブログ」さんの「バカの壁」が見えてしまった。

高校教師の補講ブログ: バカの壁から推測する養老孟司という人
それはそれでいい。確かに、合理性を考えるなら、楽をして大きく稼げるなら、それに越したことはないからだ。現に本書はベストセラーになって、著者は笑いが止まらないだろう。

「バカの壁」の主題は、人は人にいかに「わかってもらえない」かということであり、そしてそのわかってもらえないさ加減を象徴する言葉が「バカの壁」なのだ。「バカの壁」を読んで養老孟司がわかると思った時点で、あなたはすでに「バカの壁」に阻まれていることになる。

実はこの「バカの壁」は、養老孟司が発明した言葉ではない。編集部の発案なのだ。実際本書は養老孟司の独白を、編集部がまとめたものなのだ。だから著者は正確には「養老孟司・新潮新書編集部」としなければならない(あるいはもうはっきりと編集のG氏の名前を出すか)。

その新潮新書編集部の能力がマグレでないことは、その後の新潮新書の快進撃を見てもわかる。去年を見ても「国家の品格」に「人は見た目が9割」とヒットを飛ばしまくっている。

それではなぜ新潮新書はヒットを飛ばし続けるか?

読者に勤勉を要求しないような作りになっているからだと私は考えている。読む時に気合いがいらないようになっているのだ。

実はこうした本のつくりは、制作側、特に編集者にかなり負荷がかかる。楽に読める本は、楽には作れないのだ。これは本を数多く読めばだんだんわかってくることだが、なぜか世間の評価は「分厚く小難しい本ほど書くのに気合いが必要だ」となっている。

本当に難しいのは、難しいことを簡単にすることなのだ。それがわかるだけでもバカの壁が一段低くなるはずだ。

私自身は、実は「難しいことを難しいままに書いた本」も好きだ。「ただ書くだけでも精一杯。とても優しく噛み砕く余裕なし」という最先端の議論を「固いまま」出した本を改めて自分で噛み砕くのはとても気持ちがいい。例えば The Emperor's New Mind なんて何度「噛みしめたか」わからない。だからといって「サクサク食べれるよう加工した本」を否定する気はさらにない。

ましてや、本が読まれなくなった時代である。「離乳食」の需要は増すばかりであろう。固い本ばかりいい本だという人は、自分にも乳児の時代があったことを忘れているのではないか?

養老孟司にだって「固めの本」はある。基本的にこの人は演歌歌手並みの同工異曲を繰り返して来ていて、それを本人も認めるのにやぶさかでないという「虫好きじいさん」なのだが、その同工異曲を「聞いてしまう」理由の一つが、メディアを使い分けていることにもあるかも知れない。例えば「超バカの壁」に書いてあることはみんな「無思想の発見」にも書いてあるし、御丁寧にも「超バカの壁」にもその旨が書いてある。

養老本に繰り返し出てくる思想に、「手入れの思想」というのがある。「バカの壁」と違ってこちらは養老オリジナルである。これはかなり使える思想で、理解しきれないほど複雑なシステムを我々がどう扱って来て、またどう扱うべきなのかいうことの答えでもある。

そして自分自身もまた理解しきれないほど複雑なシステムである。読書というのはいわば自分を手入れしていることなのだ。そこで著者が「手入れ」を超えて「啓蒙」してやるという思想はそれこそ唯脳的一元論ではないのだろうか?

Dan the Bibliomania

追伸:とはいえ、養老本にだって「クソ本」はある。「からだを読む」の羊頭狗肉ぶりはすごい。これは編集部のミスもあるだろう。「消化器から見えるヒト」あたりにしておけばそうはならなかったのに。