2006年01月30日 16:24 [Edit]
d自分/dt
これは、少し考えると「そこまで速くない」ということはわかる。体内リサイクルもなく、その代わりエネルギー消費もないと仮定すると、このペースでは体重60kgの成人は一日20kgもの代謝を行うことなってしまう。「三日で1回転」というのは、小腸の柔細胞などかなり速い部分に限った話しである。神経細胞のように「一生もの」だってあるのだ。
とはいえ、
爪を切っても、ご飯を食べても、お酒を飲んでも、映画を見ても、セックスをしても、そのつど、私たちは「それをする前とは別人」になっている。
にもかかわらず、私たちは「同じ人間である」と思っている。
という点に変わりはない。川の流れは同じくして、しかももとの水にあらずというわけである。
ここで「自分」を「川」と見るか、「水」と見るかということで見方が変わってくる。
「川」として見れば、「かつて流れていた水が起こした洪水にも責任を感じる」だろうし、「水」として見れば「それは別の水が起こした洪水だ」と感じるだろう。さらに数学的比喩を使えば、[その時の自分] = d[自分の一生] / dt ということになる。あるいは [自分の一生] = ∫[その時の自分] dt ということだ。困ったことに、「自分」は積分の方にも微分の方にも使う言葉となっていて、その時々で都合のいい方を我々は使っている。
それでは、自分はどこまで「連続」なのだろう?
「絶対的他者」とは、「私がその人のために/その人に代わって『すみません』と言う当の人」のことなのである。
とはいっても、子供の時のオネショまで今の自分が「すみません」というのも筋違いに思える。かといって、まだ物心の突かなかった頃の自分と今の自分が「不連続」というのも「へんてこ」な感じがする。少なくとも倫理というツールは「自分の連続性証明」にはちょっと使えなさそうである。
「自分の不連続性」に関しては、法もいくばくかお墨付きを与えている。未成年と成年は「不連続」扱いだし、心神喪失も「不連続」扱いしてくれる。とはいってもこれもまた「自分認識」とは大いにギャップがあるだろう。
個体としてのヒトの連続性に関しては、DNAという強力なツールがある。B細胞のように「変化する部分」もあるが(利根川博士はこれでノーベル賞)、基本的にDNAは一生ものである。しかしその中に入っている意識はそうは行かない。Eganのディアスポラでは、この「自我」の誕生をもって「意識連続体」の起点としているが。
ん、まてよ、さすれば逆に意識をもって意識の連続性を定義させるという手もありうる。自分とは「ここまでは自分と自分が思っている範囲」としてしまうわけだ。後だしじゃんけんのような後味の悪さはあるが、強力ではある。
とはいえ、この手を濫用すると今度は「領土権争い」が生じる。「うちのカミサン」から「うちの国」まで、実は意識というのはそこまで伸ばすことも可能で、そうすると他の意識と「衝突」が発生する。もしかして、これこそが「全ての諍いの母」かも知れない。
結局哲学というのも、「自分というものの境界問題」に落ち着いてしまうのであろうか....
Dan the Ever-Changing Man
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鋭いっすね!
法律的概念も一つのフィクションだと思うんですよね。
ちょっと調べれば3年の勘違いってことが分かると思うんだけど。
脳内制御に問題あり。
『もう牛を食べても安心か 福岡伸一著』
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内田先生は「倫理」って言葉を使っているけど、小飼氏のエントリにそれが触れられてないことに注目してます。
ただ個人的には、LD的な心性というのがもしあるのだとして、本ブログはそれを突出した形で顕している側面もあると見ています。他の方々もそう思って眺めているんではないでしょうかね。信者というか応援する方々の断片的な言葉もその象徴でしょう。
何処かよく似ているんすわ。なにものかと。

