2006年02月23日 15:08 [Edit]
不労報酬
功利的発想がしみこんでいるからこそ、「不労」という「労働」が成立するに至ったのではないか?
内田樹の研究室: 不快という貨幣骨の髄まで功利的発想がしみこんだ日本社会において、「働かない」という選択をして、そこからある種の達成感を得るということは可能なのか?
内田先生の認識とは逆に、私は日本は昔から「不労」に対してずいぶんと寛大に報酬を支払う国だと認識していた。曰く「口止め料」。曰く「捨て扶持」。たとえば英語ではこれらの概念をこれだけ簡潔に表現するすべを私は知らない。
それらの国に、「不労報酬」がないということではない。実際口止め料も捨て扶持も、どの社会においてもある程度見られる。「慰謝料」という概念だって、[何もしなかった状態] - [それが起ったことによって発生したコスト]と算出している以上は、一種の不労報酬と理解できる。
問題は、それが「いくら」になるかだ。
「買う者」が多ければ上がるし、「売る者」が多ければ下がる。それだけのことだ。
そして見ての通り、かつての日本は不労報酬の買い手に不足しない社会だった。総会屋からヤクザまで、「働かないことが報酬」という「職業」はいくらでもあったではないか。彼らが時々株主総会やデイリで「騒ぐ」のは、「プロモーション費用」としてむしろ彼らが持ち出しで「やってくれる」ものだ。
日本の治安の安定のかなりの部分が、不労報酬決済によって成り立っていたというのは皮相的な見方だろうか?
少なくとも「娑婆」においては、これらのことは「不当」であると認識されるようになった。今の日本はかつての日本ほど総会屋やヤクザに甘くない。少なくとも不当報酬の価値は、「外」においては確実に低下している。
しかし、「内」での認識はまだ「外」に追いついていない。家庭内不労報酬は相変わらず「高値」で取引されている。
朝は「いつまで寝てるの!」という母親の叱責でまず100円。
「げっ、たるいぜ」とのろのろ起きあがり、朝食の席で「めしいらねーよ」と告げて「朝ご飯くらい食べなさいよ!」と怒鳴られて50円。
「なんだその態度は、おはようくらい言え!」と父親に怒鳴られて200円。
「うぜーんだよ」と口答えしたら、父親が横面をはり倒したので、おおこれはきびしい1000円です。
けっと家を飛び出して、家の玄関のドアを蹴り飛ばしたら足の爪を剥がしたので、これは痛いよ500円。
という具合である。いや、まだ釣り銭の計算が出来ないうちから、我々は「不労経済」の洗礼を受けている。我々が我々の子供のためにおもちゃを買うのは、子供の笑顔を見たいからだろうか?もちろんそうやって買われるおもちゃもあるだろうが、子供に騒いで欲しくないから、子供に泣きわめいて欲しくないからという理由で買われるものも多いのではないか。少なくともファミレスにおいてあるおもちゃはそういう役割を期待されている。
それを悪いというつもりはない。少なくとも幼少時においては不労経済はある程度認められてもいい。それどころか哺乳類や鳥類といった、子育てを積極的にする動物においてはこの不労経済こそが親子の絆と言ってもいいかも知れない。狐がいるのに雛がピーチクパーチクやるのは、「パパ、ママ、早く僕に餌をよこさないと、僕食べられちゃうよ」というメッセージだと主張する動物行動学者も少なくない。
問題は、巣立ちの時期になってもこれをやることだ。動物においては「子離れ」の次期に、不労経済の買い手が一気に消失する。いくら泣いてもわめいてももはや親は何もしてくれない。どころか親はさらに吠えたりする。こうして子は別の経済法則が支配する世界に対峙することになる。
しかし彼らの自己完結した世界において、これはたいへん合理的な存在仕方なのである。
自己完結などしていないのである。そこには家族という他者がいる。他者がいるから「不労経済」が成立しているのである。だからその世界が「合理的」なものとなるためには、家族というバイヤーが不労を買い取ってくれなければ「完結」しないのである。
その不労経済を断ち切るのは簡単だ。
買わなければいい。
うちにいてもおいしい思いはできないよ、無い袖は触れないよ、と言うだけでいい。
それを言わないということは、家族もまた、不労経済を快く思っているとするしかないではないか。
Dan the Self-Insufficient Being