2006年03月06日 21:12 [Edit]
臨床いじめ学の教科書 - 書評 - いじめの根を絶ち子供を守るガイド
ずっと宿題だったのだが、ちょうどいい機会でもあるので書評。
奥田健次の教育改革ぶろぐろ部: いじめの根を絶ち子どもを守るガイドタイトルは『いじめの根を絶ち子どもを守るガイド 親と教師は暴力のサイクルをいかに断ち切るか』。原著タイトルは“The Bully, the Bullied and the Bystander”であり、直訳すれば『いじめっ子、いじめられっ子、傍観者』となる。
この問題に関してはプロでもある奥田健次先生の推薦だけあって、大変優れたいじめ対策の参考書である。「臨床いじめ学」という講座が存在したら、本書は教科書として必須だろう。
本書のタイトルだが、いささかハウツー本臭すぎる。原題直訳の「いじめっ子、いじめられっ子、そして傍観者」の方がインパクトも強く、また内容をよく表している。
何と言っても本書の特徴は、いじめの当事者として「傍観者」という存在に着目したことにある。そう。いじめが成立するには、この第三の存在が欠かせないのだ。いじめに対する介入として行われる行動は、たいていいじめる者(the bully)への制裁と、いじめられる者(the bullied)への保護と補償しかなされないが、いじめに対して最も効果があるのは、この第三の存在である傍観者(the bystander)を、「目撃者」(the witness)へと転じさせるというのが本書が提示する数多く処方の中で最も特徴的なものであろう。
いじめという社会現象は、何も学校内だけでおきるものではない。社会のありとあらゆる現場で発生する、実にありふれた出来事である。前回取り上げた麻原の子女たちの入学拒否もそれに該当するし、下手をすると社会問題の過半がこれに分類可能かも知れない。その意味で、いじめが他人事であるという人は存在せず、その意味において本書は子育ての現場を超えた普遍性を持っている。
ほとんどのいじめ事件において、我々は実は「他人」ではなく「傍観者」である。確かに法律は傍観者でいることを罰する事はない。しかし傍観していることのツケは、あとで確実に帰ってくる。
はてなダイアリー - マルチン・ニーメラーとははじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。
そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。
傍観しているということは、極論すればこういうことでもある。
とはいえ、「目撃者」になるのはこわい。「なぜ自分がそんなリスクを取らなければならないのか。こういう問題はもっとえらい人に任せればいいだろう....」それらに対する答えは、是非本書を一読願いたい。
本書にも不満はある。本書は「どういじめを対処すればいいか」という臨床的な見地に関しては実に多くの知見を用意しているが、「なぜいじめが発生するか」という生理学的見地に関してはあまり述べられていないのだ。
いじめっ子やいじめられっ子という特性が「生まれつき」のものでないことは、本書を読めば明らかだ。自分が「いじめっ子」、「いじめられっ子」、そして「傍観者」のどれになるかは状況によって変わる。
どうして我々はいじめるのか。どうしてわれわれはいじめに遭うのか。そしてどうしてわれわれはそれを傍観するのか。
それを、私は知りたい。
とはいえ、本書にその答えを求めるのは過剰請求というものだろう。本の一冊や二冊でわかる程度の簡単な問題であれば、とっくに解決しているに決まっている。それだけに、本書の価値は高い。私がいじめの生理学を知りたがっているまさにこの瞬間にも、いじめは世界のどこかで進行しているのだから。
というわけで、本書はいじめっ子、いじめられっ子、そして傍観者、特に最後の人にお勧めである。主題からは外れるが、この手の本としては索引がしっかりしているのもいい。単なる読み物ではなく、何回も「使われる」ことを想定しているのだ。「読む」というより「活用」して欲しい一冊である。
Dan the Accidental Bully, the Occasional Bullied, the Frequent Bystander, and the Skeptical Witness
追記[2006.10.17]:
ハコフグマン: いじめをなくすにはこういう事件をなくすためにどうしたらいいか。私は「知っていて放置した罪」をもっと厳罰に処すべきと思う。
いじめにおけるbystanderの問題をきちんと扱ったのが本書なので、改めてTB。