あちこちでもてはやされている本だが、目を通したのはつい先日だ。

Flatter(追従)なしに、誰もが一読すべき本である。

すでに本書の内容は、blogsphereであちこち散見されるし、実際書評も多く出回っている。それでもまだ本書を読んでいない人は読むだけの価値がある。それはひとえに、著者のFriedmanがこの「世界は平らになりつつある」という考えを醸成するのに、徹底的に現場取材をしているからだ。本書の考えはすでに「フラット化」されblogsphereにばらまかれているが、本書で本当に面白いのは、ビル・ゲイツからバンガロールの電話オペレーターに至るまでの、フラット化の最前線の現場の声であり、こうしたことは書評を読んだだけではわからないからだ。

確かに本書はかなり厚い。英語版で600ページ、日本語版は上下で800ページほどある。が、分析の明晰さと現場の描写の闊達さもあって、決して厚さを感じさせない。原文の表現も平易なので、ふところがさみしい人は英語版を入手してもいいだろう。これは決して日本語版が高くてまずいというわけではなく、訳もこなれていて、原文の色を損ねないよう細心の注意を払って訳されている。しかし上下そろえて4000円近くというのは、やはり一般書としてはキツい値段だ。文庫化が強く望まれる。

本書は、単なる経済レポートではない。「フラット化」というのは経済を超えてありとあらゆる人に及び得る力であり、実は9.11もまたフラット化の一つの側面だとFriedmanは喝破する。本人の言葉を借りれば、フラット化した世界の裏を象徴するのが9.11というわけだ。そして表を象徴するのが11.9で、それが何から来ているのかは本書を読んだ人のお楽しみ。

しかし、著者自身認めているように、厳密には世界はまだフラットではない。フラットな世界で勝負できる人口は、まだせいぜい10億人。ただし面白いのはその10億人が地理的にはとびとびに存在していることだ。著者の目には、秋田より大連の方が「フラット」に見えるだろう。

実際のところ、フラットな世界は、表紙のコインの表面が地球になっているというモデルよりも、阿蘇山や十和田湖のような感じに近いのではないか。フラットな世界で長く成功を納めるのも難しいが、フラットな世界にまずたどり着くのも勝るとも劣らない難事なのだ。もちろん筆者はこの点も見落としていない。一章まるごとこの問題に費やしている。

そしてこの「フラットな火口世界」にたどり着くのに一番必要なのは、教育なのである。いくら通信と運輸といった、フラット化には欠かせないインフラを手に入れても、それを活かす人がいなければチャンスは流れ去ってしまう。フラットな世界というのは、皇帝の新しい服と同じく、見える人にしか見えないのである。

しかし皇帝の新しい服と違って、それは確かに存在するのだ。

Dan the Flatlander