2006年08月10日 03:40 [Edit]

「群衆の叡知」ではなく「叡智の群衆化」

実は「群衆の叡智」は、マキャヴェリまで遡れる。

My Life Between Silicon Valley and Japan - Crowdsourcing
ここに「Outsoucing」ならぬ「Crowdsourcing」という言葉を発明し、この言葉を広く一般に普及させるとともに、提唱者的ポジションを確保しようと企図するのが、Wired誌編集者のJeff Howeだ。

Vacation中につき手元に本がないので正確な引用は出来ないが、彼はこういう趣旨のことを言った。

群衆は、「何が正しいのか」という設問には苦手でも、「どちらが正しいか」という設問には案外的確な答えを出すものだ

群衆が叡智を発揮するのは、実は最後の段階なのである。

群衆が叡智を発揮するにあたっては、問題が群衆にもわかるよう整理され、かつ回答案が提示されている必要がある。実は、この「問題を整理し回答案を提示する」部分が最も難しい部分で、群衆が担当しているのは一番楽な部分だ。

「みんなの意見が正しい」のではない。「正しい意見がみんなの意見となる」のだ。

「みんなの意見が正しい」ものになりえないのは、正誤が数学的ないし物理的にはっきりと下せることを見ればわかる。πの値は、たとえ63億人が"3"だといっても誤りだし、63億人がいくら願をかけようが、光速度は299,792,458 m/s だ。「みんなの意見」は「公理」や「宇宙の意見」に対して無力だ。

にも関わらず、最近になって「群衆の叡知」が注目されだしたのは、「すごい意見」が「みんなの意見」に変わるまでの時間がずっと短くなったからだと私は考えている。ガリレオは350年待たされたが、今や35時間待たずとも、それが「みんな」の注目を集めれば「みんなの意見」は出そろう。

もう一つの重要な条件が、「みんなの教育」である。こちらは「群衆の叡智」なる言葉が注目される前からゆっくりと進んだトレンドなので見落とされがちだが、「みんなの教育」が向上していれば、より早い段階で「みんな」は判断を下すのに充分な理解を得ることが出来るのは当然である。

煩悩是道場 - 「みんなの意見」は正しいのだろうか
だけれども、それなら尚のこと「みんなが言っている」という事を自己主張の正当性として使うのはやめにしたほうが良い、とオレは思うよ。

という意見が「みんなの意見」となる程度にみんなが賢くなってはじめて「群衆の叡智」が成り立つ、というわけだ。

実際、「みんなの意見」が間違えるケースで最も多いのは、「正しい意見をみんなの意見とする」という視点が「みんなの意見だから正しい」と転置してしまった場合である。20世紀の戦争を見れば、それがわかる。自分の所属する国や民族や宗教が「正しい」から、間違った奴らを成敗しようとしたわけだ、みんな。

crowdsouringが成立するようになった背景には、この「教育のコモディティ化」と「通信のコモディティ化」の双方が不可欠で、最近になってやっと双方ともクリティカルマスに達したということなのだろう。

だから、「群衆の叡智」は実のところ「叡智のコモディティ化」、すなわち「叡智の群衆化」ということなのではないだろうか。

Dan the Commoditiz(ing|ed) Man


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メディアでの意図的捏造は偽証と同程度の罪を与えてもよいと思うけどなあ【ここギコ!】at 2007年01月25日 23:45
群衆が叡智を発揮するにあたっては、問題が群衆にもわかるよう整理され、かつ回答案が提示されている必要がある。実は、この「問題を整理し回答案を提示する」部分が最も難しい部分で、群衆が担当しているのは一番楽な部分だ。 「みんなの意見が正しい」のではない。「正....
群集の叡智について【道端の鯉】at 2006年08月11日 01:00
この記事へのコメント
余談ではありますが。

ここで言っている話がおそらくInternet内での完結する話であることは
注視すべき問題だと思います。
(最近では2chネタをTV化するくらいという話はおいておいて)

私事ではありますが、うちのと〜ちゃん&か〜ちゃんはIPをおそらく
一回も使ったことの無い人種です。おそらくこれからもそうでしょう。
おそらくこういった人が3割弱はいるのでしょう。

つまり、IP内とIP外のGenerationを意識する必要があるのではないのでしょうか。
(弾さんはおそらく無意識的に意識していると思うのですが、念のため
コメントした次第です)
Posted by Tom.Hayashi at 2007年01月10日 01:02
本を読んでないので何だかよく分からないけど、

みんなの意見
   ↓
みんなの期待とか思惑、欲望

と読み替えようとしましたが、「正しい」とはどういうことなのかについて新たな疑問が湧きました。言葉遊びのドツボにはまりそうです。
(酔っぱらいの勝手な感想ですのでこのブログの趣旨に沿わない場合は御面倒でも削除して下さい。)
Posted by 日出づる国の末裔 at 2006年08月24日 03:26
>crowdsouringが成立するようになった背景には、

あと引用部分ですが
>ここに「Outsoucing」ならぬ

Posted by ビクドリ at 2006年08月15日 23:55
人生に関する事柄は、多数の者に人気のあるほうが善いというふうにはならない。
最悪のものだという証拠は群集なのである。
セネカ
Posted by 群集 at 2006年08月13日 16:57
元の文は、民衆の判断の功罪を続けてあげているし、民衆の欠陥=指導者の欠陥=人間の欠陥 というのが本筋でしょう。

別のところを含めて教育に関しては、なければ困るがそれほど信用できるものではない、と考えているように読めます。
Posted by mal at 2006年08月12日 11:58
マキアヴェッリ語録 第二部 国家篇 34
『民の声は神の声、といわれるのも、まんざら理由のないことではないのだ。
 なにしろ、世論というものは不可思議なる力を発揮して、未来の予測までしてしまうことがある。
 *また、判断力ということでも、民衆のそれは意外と正確だ。二つの対立する意見を並べて提供してやりさえすれば、世論はほとんどの場合正しいほうに味方する。*
 もちろん、世論にも欠陥はある。真に有益なことよりも、見ばえのよいもののほうに眼を奪われる場合が多いからである。
 しかし、指導者たちといえども、自分たちの欲望に駆られて、同じ欠陥に陥ることが多いではないか。しかも、指導者達の欲望ときたら、民衆のそれよりもずっと大きいと着ている。
 ゆえに、民衆とか指導者とかの区別をつけずに、両者に共通する欠陥として論ずるのが理にかなったやり方だと信ずる。−「政略論」−』
Posted by mal at 2006年08月12日 11:58
弾さん、メールアドレスの削除、ありがとうございました。
また、別エントリで「群衆」と「みんな」の違いについてこれまた非常に面白い考察を展開して下さって感謝感激です。
Posted by ほんのしおり at 2006年08月12日 01:18
ほんのしおりさん、
>大変お手数ですがメールアドレスの削除をお願いいたします。
削除しました。
なお、URLに記入があると、そちらが表示されるので、そこに適当なURLを入れるようにするといいでしょう。
Dan the Blog Master Here
Posted by at 2006年08月11日 10:52
メールアドレスが一般に公開されるとは気がつきませんでした。大変お手数ですがメールアドレスの削除をお願いいたします。
Posted by ほんのしおり at 2006年08月11日 02:47
みんな(群集?)がAだBだと言っているときに「いや、Xもあるよ」と鋭い指摘をするのが弾さんの素晴らしいところで、それが今回も発揮されていると思いました。
ただ、「みんなの意見は正しい」ということの面白さは「二者択一」や「多数決」ではなく「誰一人として正解はいなかったけれど、平均値は正解だった(or ほぼ正しかった)」というお話ではなかったかと記憶しています。
Posted by ほんのしおり at 2006年08月11日 02:45
ちとずれている気がする.

真理の追究と意思決定は本質的に違うもので,マキャベリは後者について述べているのではないかと思います.前者には専門的な訓練が必要な作業でしょうしね.

群衆の叡智の面白いところは,主に予測に基づく意思決定とか予測そのものの集合とか平均が,後におおよそ正しかったことが判明する,というあたりかと思っているのですが,違うかな.

ちゃんと本読むか.
Posted by おさる at 2006年08月10日 13:31