2006年08月19日 03:15 [Edit]
ググらざる知肉
Yosemiteで過ごしたまるまる2日間、IP Unreacheableだった。
写真はそのLower Yosemite Fallsの滝壺から撮ったものだが、滝がよく見える橋のたもとまでは車いすで行ける。
ところが、滝壺までは、ちょっとした沢登りだ。
そこを家族四人で登っていった。で四歳の次女を妻と私が必ず上下で見守るようにして上り下りしたのだが、靴さえ脱がせれば危なげなく登っていく。七歳の長女に至ってはまさにましらのごとくという感じで、先に行きすぎないよう注意するのが大変だった。結局滑って転んだのは私だけだった。
人間というのは大したもので、こういった運動を誰にも教えられる事なくできるようになる。ロボカップでロボットが人間に勝てるようになっても、そのロボットは沢登りできるのだろうか?
POLAR BEAR BLOG: 「答えがググれる世界」の教育僕はこの部分を読んで、違和感を感じました。確かにこの例では、目的であった「3番目の完全数を導く方法を考えること」は達成されていません。しかしこの児童は「3番目の完全数を導くこと」は達成しています。しかも最も効率的な方法で -- これって悲しむべきことでしょうか。
悲しむべきなのはググって答えを出す事ではなく、ググらなくても答えを出すポテンシャルがその子にはあるのに、それを引き出していないことだ、と思う。
沢登りにはかなり大勢の人が参加していたが、それでも橋のたもとで滝を見上げていただけの人の方が多かった。そうしていたのは老人ばかりではない。おそらく彼らは自分たちがあの沢を登る能力があることを知らないのだろう。それが証拠に、まるで熱すぎる風呂に入るのをためらうがごとく、ちょっと入っては引き返す人々も多かったのだ。
「3番目の完全数をググる」というのは、橋のたもとまでセグウェイで行って、滝壺まで行った気になるのと同じことではないのか。いやいや、上の写真を見ただけで、そういう気になることではないのだろうか。
私としては、娘達にはこういった「ググりようのない経験」をなるべく積ませておきたい。ググり方ならいつだって習う事ができるのだから。
こういった「ググりようのない経験」は、ググった経験をより深く感じるためにも必要なのではないか。沢登りをしたことがある人が滝の写真を見たのと、そうでない人が見たのとでは、その写真から感じ取れるものはまるで違うのだから。
前述の通り、沢登りが一番うまかったのはダントツで7歳の長女だった。数学にもこういう時期は確かにある。どんな問題に取り組んでも、それが沢登りのように壮快に感じられる時期というのは確かにあるのだ。その時期にGoogleに晒されるのは幸なのか不幸なのか。
一つ言えるのは、Googleを作る事ができる子というのは、沢登りするべきときに沢登りをしてきた子だけ、だということ。ググる側にまわるより、ググられる側にまわる方がいいのではないか?
Dan the Heuristic Being
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>沢登りするべきときに沢登りをしてきた子だけ、だということ。
小飼さんは中学を逃げ出したそうですが
ご自身にとっては上るべき沢ではなかったのかな?
まあ、学校に通うことと沢を登ることは違う類のものでしょう。
まったく頭を使わなくても中学校なんて卒業できてしまうし。
まさにセグウェイでたもとまでいっただけ、
というレベルですね。
ペーパーでALL100とったから中学や高校に行ったことに
なる、ってのは制度上はともかく文化的にはちがうでしょう。
頭を使わなくてもペーパーでALL100が取れるからという意味ではなく、
卒業するだけなら頭を使う必要すらないという意味で書いたのです。
極論を言えば、授業中にメイクだけしてても時期が来れば卒業はできるわけで、
徒に制度に従うことと沢を登ることは違うだろうということを言いたかっただけです。
学校を出たいだけなら、たもとに行くことはおろか、セグウェイに乗る意志すら必要ないと思います。
言葉足らずでしたが。
私のころは教室は戦場。毎日サバイバルでしたよ。
通い続けるということ自体かなりの意志が必要でしたが。
最近は学校に行かなくても卒業できるのだそうですね。
いい時代になったのか学校が更にひどくなったのか。
どっちなんでしょうね。