2006年09月22日 16:00 [Edit]
国歌と社歌の違い
私はこの判決を「ゆるく」支持する。
卒業式や入学式などで、日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務付けた東京都教委の通達は違憲違法だとして、都立学校の教職員ら401人が義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は21日、原告全面勝訴の判決を言い渡した。
しかし、それは「通達や都教委の指導は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」からではない。
もしそれを理由とすると、社歌を歌わない社員を懲戒することもまた思想・良心の自由を保障した憲法に違反することになる。まあ今時社歌を歌わせる会社もないと思うが、業務命令に反した行動を取る従業員を制裁することは、たとえその従業員が思想・良心の自由に従ってそうしたのだとしても認められている。思想・良心の自由ほどには、それに従って行動する自由というのはない。
「サラリーマン」であれば、東京都の教員というのは「日本国株式会社東京部教育課」の「社員」なのだから、その業務命令に従うのは当然、と思うのではないだろうか。
にも関わらず、私がこの判決を支持するのは、やはり会社と国家には決定的な違いがあるからだ。
それは、「属する組織を選択する自由」だ。
社是にそぐわぬ従業員を罰する権利が会社にあるのと同様、自分の思想・良心の自由にそぐわぬ会社を辞する権利が従業員にはある。いや、この権利の行使には、思想・良心の必要さえない。理由を明かす必要すらない。「一身上の都合」で辞職する権利もまた、憲法第22条で保証された権利である。これは公選された人とて同様で、いくらふざけるんじゃねえと言った所で、それはごまめの歯ぎしりというものである。私自身、株主の選任されて就任した役員を、まさに「一身上の都合」で辞したことが何度もある。
このように、自分の思想・良心の自由の社会における行使というのは、組織への入会と脱会の自由という形で行使される。気に入る組織がなければ、新たに組織を作ることもまた自由である。それが今のところ、他人の思想・良心の自由をなるべく侵害せずして自分の思想・良心を行使する最良の方法のようなのである。
翻って、「国民」というものはどうであろうか?
「社員」ほど簡単に入脱できないことは明らかだ。それは不可能ではない。しかしその行使は現在においても命がけに近い。しかもそれすら「どの国の国民になるか」という選択であり、「どの国にも属さない」や、「今ある国家に気に入ったものがないので新しく作る」という選択肢は事実上存在しない。
ハコフグマン: 愛国心今は国が強くなることがイコール個人の利益にはならないのである。沈みゆく泥船の船長のすべきことは愛国心の強制ではない。まずはその泥船を何とかすることだ。
国家は洋上の船だ。気に入らないからといって簡単に下船できない。問題があれば、まさに「その場」で解決するしかない。「その場を離れる」という選択肢は、不可能ではないにしろあまりにコストが高いのだから。
一旦日本国民になったら、思想・良心の自由に従ってそれを辞めるということは出来ないのだ。その点において、国民と社員は多いに異なる。
だから、「国民」を「育てる」立場にあるものは、思想と自由に関わる事案に関しては、会社の業務命令とは同列に扱ってはならないのだ。
それを踏まえて上で、それでもやはり娑婆から見ると、今回の経緯が「手段の目的化」にしか見えない。仮に都の主張が通ったとしたら、日の丸と君が代を嫌う子どもはますます増えるだろう。およそ義務教育でおしきせられたシンボルや歌を子どもが気に入ることはない。小中学校で歌わされた唱歌をカラオケで歌っている人がどれくらいいるのか?
これがブラジルの国歌だの、日本なら「信濃の国」だの、練習しなければとても覚えられないものならまだしも、日の丸は世界で一番簡単な国旗の一つだし、君が代は世界で一番簡単な国歌の一つだ。わざわざ教室で教えるのは時間の無駄もいいところではないか。
Dan the Man on the Ship Called Nippon
追記:
裁判だけではなく裁判官にも注目しておこう。
踊る新聞屋−。: こんな判決を書いた裁判長の今後が気になるそれはさておき、あまり指摘されないので気になるのだが、難波判事、もう辞める覚悟なのだろうか? ドサ回りを覚悟したのだろうか。 [中略; 詳細はLink先にて]時事を考える: 大馬鹿 vs 小馬鹿@国旗国歌裁判
裁判官の独立なぞ、絵空事なようだ。
難波判事が人事で不利益を被らないよう、裁判所人事を注目しているぞ、とせめてアピールしておこう。
これって国旗国歌を強制する石原爺という大馬鹿者と、それを裁判にまで持ち込む教師(←もしかして日教組?)という小馬鹿どもとの争いのような気がする
大馬鹿者ものに知事の椅子を与え、小馬鹿者を放置してきた有権者は何馬鹿なのだろうか....
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国民と国家公務員は違うでしょ。。
一般国民に国旗国歌を強制してるわけじゃないんだから。。。。
まあ、「教室」からでていくと理念どころじゃなくなって
「おれの正義を聞いてもらうためにはまず金が要る」
っていう共食い人種になっちゃうからねえ。
そういう人、教師以上に醜いでしょ。
国や地方行政から補助金が出ているあらゆる学校、法人に属さず
私設で塾なり寺子屋でもひらいてそこで学問を伝えながら
自分の思想を伝えるべきだと思います。
そこまでの覚悟でやっておられる人・集団であって聞くべき主張であれば
自分も聞く耳を持とうと思うけど、
上記のような義務を放置して権利ばかり主張されては
どんなに綺麗で高邁な主義主張をされても、しらけた目で
「でも、貴方が行ってる行動は・・・なんでしょ」としか感じません。
(PAGE 3/3)
国や地方行政を金蔓にしながら日の丸反対運動してるわけですよ。
会社員でいえば会社の方針が気に食わないから従いませんというもので
それこそ解雇を覚悟しての主張だし、
自営業であれば客とはそりが合わないから仕事しませんと主張して
せっかくの仕事をフイにする覚悟での主張なとこに。
どこの国民で生まれてくることかは選べませんけど
公務員/職員になることと
会社員になること
自営業になることは
個人の能力と雇用の機会の範囲内で、選択の自由があったはずです。
給料はしっかりもらっときながら平日から児童/生徒/学生へ教育を教える
義務を放置して自分の主義主張を展開しにいってるわけなんですよ。
義務を放置して安全地帯から権利ばかり主張されても説得力を感じません。
(PAGE 2/3)
もっとカラオケで選曲したくなるような気分になれる国歌にしてくれとは思う。
そして裁判所は裁判所の仕事の範囲での判断はあってるし、
判決の内容も正しいと思う。
でも、この401人の教職員はすんごく嫌だ!
入学式や卒業式で自分の受け持ちのクラスの生徒には
起立・斉唱させない強制、または雰囲気を作って実質的にそうさせている。
政治感覚をもたない、または自分で確立して判断できない
児童/生徒/学生(生徒/学生くらいまでくればあるか?)を巻き込んでいる時点で
一部の危険な宗教の洗脳と同じだと感じる。
(PAGE 1/3)
だから、強制的に歌わせたところで、「害はない」わけです。むしろ、嫌いになる可能性のほうが高い。(儀式が好きな子供なんていない。)日教組の教師たちは、儀式に限らず毎日の朝礼時にも歌わせて、むしろ先頭にたって君が代を子供たちに「押し付け」て、君が代・日の丸嫌いを増やすほうが得策なのでは?
同様に、公務員を辞する権利が公務員にはある。と思うのですがいかがでしょう。
本件は「職務遂行中に職務を放棄したことに対する処罰 VS その職務命令が不当である」だと思います。これが職員の飲み会で君が代を歌うことを強制され、それを拒否したために処罰されたのならまったくもって不当なのですが。
と思ってますので、私は弾さんをちょっと嫌いになりました。ごめんちゃい。
ちなみに私の通っていた小中学校では、教師が自分の思想について語りそうになったとき、「これより先は私の思想が入ってしまうので説明できません」とはっきり断られていました。おそらく言いたいことがあったのでしょうが、それが右にしろ左にしろ偏った精神を教育することが間違っていると先生は知っていたのではないでしょうか。
いっちゃっていいんだろうか?
E=MC^2
って簡単な式だね。
っていうのと似ていないか。
近隣に共産主義な政府が2つ、3つとありながらも、
世界でも類を見ない平和ボケ国家として戦後を過ごしてきたわけですから。
そして自由主義が行き過ぎれば欧州の某国のように大量の移民のために
自国民ががんじがらめになりますので、、、
かといって極端なナショナリズムに染まると、いきつく先はまた
「勝ち目の無い戦争を始めること」ですしね。
親は子供が親をどう考えているか内心までコントロールすることはできません。
でも「一般的に」家族愛というものが存在し、他人のそのような関係と心情を
理解・尊重することを教える義務は親にあるのです。
もちろん「教えない」という立場をとる親もあるでしょうが、それは「子供の自由」の
尊重ではなく「学習の機会」を奪う行為なのです。
教えることを子供がどのように受け取るか、そこはコントロールすべきではないですが、
学習機会を奪うのは教育者としては最低だと思います。
切り口的には「表現の自由」ですが。
自分じゃ絶対にやりませんし、
目の前でやられたら、そいつを2、3発ぶん殴ってやるでしょうけど
敢えて書きますが、
例えば誰かが日本国の国旗を大衆の前で燃やしたりしても
思いっきり周りの人は不快な思いをするし、そんな事をした当人も
常識の無さを疑われる事間違い無しでしょう
が罪には問われるべきじゃない。
弾さんだから言えることで、普通の人にはそんな自由ないですよ。
生活に対する縛りという意味では、会社の方が国より強いし、
その意味では社歌を歌わせる方が権利の侵害度合いは
大きいんじゃないかなと。
国家権力の横暴を叫ぶ人は散見されるけど、
会社が権力を濫用する(パワハラかな)ことを指摘する人は、
その発生度合いを考えると、あまりに少ないと思う。
可能と思うのですが。
国民が簡単に国という船から下船することはかなり困難であるがために、
もし今回の件が都職員ではなく国民であれば弾さんの意見と同様の意見を持っています。
#私は公務員になったことが無いので都職員を辞することが難しいということであれば申し訳ありません。
じゃないでしょうか。
公のために働くと決めた人が、公の決めたことに反対できる権利を持たないということはないだろうけど、それを処罰するのが違法というのもちょっと違うような。
逆もしかりですけど。
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/eco/1138102915/l50
なんでですかね。
自分は、都が教員お処分までするのは、やりすぎだと
思いますが、国旗の意味や、掲揚する意味を教えてあげるのは、
教育としては意味があると思います。
たとえば、自国の国旗だけを揚げるときと、
訪問国の歓迎のときのポールの揚げ方の違いとかね。
あと、日の丸のたたみ方とか。
(おそらく、今回の判決に憤怒している人でも、
自分で日の丸を畳んだことのある人はそういるまい)
全く実用的ではないけど、
基本的にこういうこと(掲揚や斉唱)は、
忠誠とか強制とかではなくて、
相手への「敬意」とまわりへの「感謝」ってことなんだなって、
なんとなく考えたりしました。
自発的な意思を持って、都教員(公務員)になったのでは。
「社員」程にはやめる動機は強くなりにくいですが、命がけでもないですし。