2006年09月25日 19:00 [Edit]

議論に愛想をつかす前に

議論のありように関して書かれた本は少なくない。しかしその多くは例題として「議論のための議論」に終始している。

本書、「だまされない〈議論力〉」のすばらしいところは、実際に議論に足る議題について議論することを通して、議論とは何かを学び、議論力を培うところにある。


そこに登場する議題は、歯ごたえのあるものばかりだ。歯ごたえがありすぎて、私なぞは例題として難易度が高すぎて不適切ではないかと思ってしまうほどだ。

  • 少数の犠牲により残りの大多数の福祉が向上するのが確実な場面において、その犠牲はなされるべきなのか
  • 日本の子どもたちをとりまく環境は本当に危険になっているのか?
  • 相対主義は本当にやさしいか?
  • 複数の絵を比較検討し、それに基づいて議論することは可能か?
  • 「ドイツでは」「あちら側では」といった、対比による議論進行にはどんな問題があるか?

以上は本書で行われている議論の一部であるが、その一つ一つが、ともすれば「逃げたく」なってしまうような議論ばかりだ。「それが私と何の関係があるの?」「そもそも愚問ではないのか?」「解釈の余地が広すぎて何とでもいえる」....しかし、それは論者をだますことなのであり、そういった難しい議題においても議論は成り立つというのが著者の吉岡氏の主張である。

確かに、本書で用いられた例題は、「正解がない」ものばかりだ。しかし我々がなぜ議論するのかといえば、正解を出すためではないのだ。最後に氏はこう述べる。

pp.227-228
 言語は、まず生存のための道具である.流動する現実を分析し、整理する。それに対して明確な意見・立場を形成することで、自己を形成する。sらに、意見の違う他者を説得し、来るべき世界の方向を共有化する。何となく気分的にまとめるための手段ではないのだ。そのために、問題と解決、根拠という議論の構造は発達したのだし、それが世界で言う「言語リテラシー」、すなわち「国語力」なのである。
 しかも、この技法は、英語でもフランス語でも日本語でも、共通の技法だ。自国文化への参入障壁として「国語」を定義するなどという偏狭な教育より、この技法を教える方がずっと国家と国民のためになろう。日本語と言えば「漢字」「敬語」「情感」などと繰り返すようなステレオタイプは、そろそろやめにしたい。

ここまで直球勝負の「議論」本は稀なのではないか。そしてここまで直球を投げてこられてたのも、著者が議論のプロだからこそだろう。氏はVocabowというWebを主催して、オンオフ双方のラインで「議論」を教えている。

それだけに、最後の一節には異議を唱えておきたい。

そのための道具立ては、この本の中で十分に提供してきたと、私は信じている。

議論力は、読書だけで培うことはできない。

実践を通してでしか育たないのだ。本書を読んだ「だけ」で、議論力が向上したという主張が仮にあったとしたら、それは読書だけで自転車に乗れるようになったというのと同列のウソである。氏のありようと、本書のありよう自体が、本書では充分ではないことを図らずも証明している。

もちろん、その事は吉岡氏自身承知してはずだ。本書の例題に充分な歯ごたえが必要な理由がそこにある。本書は、「解答不能」な議題でも「議論可能」であることを示すのが最大の目的なのだ。あまりに簡単な問題では読者も「本気」にならないだろう。

今なら、bloggerになるというのは議論力を鍛える最高の方法だということは自信を持って言える。最高の道具を使わない手はないだろう。しかし、その際にも1から10まで見よう見まねで自己流を貫くのと、時にコーチにフォームをチェックしてもらうのでは、成長に格段の差が出るだろう。本書は、そんな議論好きにはたのもしいコーチともなる。本blogの読者なら必ず気に入るはずだ。

Dan the Debator


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