いじめにしても何にしても、なぜ我々は「とりあえず自分に関する問題を解決する」から一足飛びに「問題そのものを根絶する」ことを希求してしまうのだろう。

煩悩是道場 - 「いじめた奴らを高く吊せ」という発想を持っていては、いじめは無くならない
いじめた子を叱ればいじめ問題は解決するのか?答えはノーだ。個別のいじめについてはもしかしたらそれで収まるかもしれない。叱られた事で「いじめをする事は悪い事だ」と学ぶ子もいるかもしれない。でも、それらは対処療法でしかない。いじめを解決する抜本的な解決策にはなっていない。

確かに、いじめられたものを集団から離すのも、いじめたものを罰するというのも、対症療法に過ぎない。

しかし、根絶療法そのものが存在する問題の方が少ないのだ。

我々が根絶した問題とて、そのほとんどは「たった一つの冴えたやり方」を適用するのではなく、対処療法を積み重ねてきた結果である。我々は天然痘を根絶したが、その手法も「根気よく種痘を普及させる」という対症療法だった。確かにそこには種痘という「個々に対する」特効薬が存在したが、それを個々に適用させるのは、まさに対症療法だった。それを普及させるには、個々の国や地域で、それぞれの国や地域に見合ったやりかたで種痘を普及させるしかなかったのだから。

いじめもこれと同じで、「人類からいじめを取り除く」のは至難の業でも、「あなたをいじめの被害者にも加害者にもしない」というのはそれほど難しいことではないのだ。

「そのやり方では○×はなくならない」という論法は、だからよりよい提案を喚起する効果よりも、それをなくす努力の放棄を促す効果の方が大きいのだ。「どうせ」というのは理性の発露ではない。思考停止ワードなのだ。

その意味において、

Life is beautiful: 「『いじめられっ子』にならないためにしてきたこと体験談」大募集
 コメント欄でも返事をしたのだが、いじめの状況には色々なものがあるので、その対処法もさまざまだと思う。そこで、できるだけ多くの人に体験談を書いていただき、それを集めていじめに悩む子供たちに少しでも役立ててもらおう、というのが今回の企画である。

というのは、対症療法の募集であって、これをどこがいじめに相当するのか私には理解できない。もちろん、療法というのはピンからキリであって、その中には効くのは分かるけど二度とごめんだ、思い出すだけで痛みがよみがえるというものだってある。だからといって、こうした療法の募集まで「過去の傷を掘り起こしやがって」と糾弾するのは、いじめそのものより悪質なのではないか。

煩悩是道場 - いじめられっ子にならないようにする方法を語る事では、いじめを無くす事が出来ない
毎週日曜に礼拝に行き、嘘をつかない、叩かれてもたたき返さないというような事を物心つく前から教え込まれてきた私は気持ちの悪い奇異な存在に映ったのだ、と現在の私は分析している。

それであなたは、そのことを神父に話したのか?それに対して神父はどう答えたのか?

それを話すだけで、処方箋がも一つできあがる。それは別の誰かを救うかもしれない。

「いや、結局神父も宗教もあてにならなかった」ということであれば、それはそれで「この療法はNG」という症例が追加される。それもまた症例を探している人にとっては救いになる。

それのどこがいじめなのだろうか?

Dan the Man without Panacea