2006年12月24日 05:00 [Edit]

道徳やしつけの根拠は自然科学にある

今や自然科学者にとって金科玉条となっているこの文言は、その一方で自然科学者の怠慢の証拠でもあると言ったら言い過ぎだろうか?

kikulog:道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない
何度も言ってることなんですが、あらためて書くことにしました
「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」

そしてその根拠は、と問うと、「自然科学は価値中立だから」ということになる。自然科学は毒にも薬にもなるのだから、そこから道徳やしつけを導くのはおかしい、というわけである。

しかし、実際のところ、我々は自然科学なしに道徳やしつけを設計することは出来ない。仮に保存則が成り立たなかったとしたら、所有権という概念を我々が得る事はなかったろうし、罪と罰という考えかたそのものが、囚人のジレンマの応用と見なすことも出来る。いくら我々が自由だといっても、それは物理法則が許す範囲での自由に過ぎない。私には移動の自由があるが、今から一秒後に月に移動する自由は宇宙が禁じている--少なくとも、物理はそう言っている。どうあがこうが、我々は宇宙という監獄の中の囚人なのだ。

自然科学というのは、いわばその獄中のルールを知ろうとする試みだ。ルールを知る事そのものが慶びであるという囚人--すなわち自然科学者も少なくはないが、そのほとんどは少しでも獄中生活の苦しみを軽くしたい、あるいは楽しくしたいと思っていて、そのために少しでも「看守」のことを知っておきたいと願っているはずだ。

自然科学が金持ちの道楽だった頃ならとにかく、その探求に多額の公金が投じられるようになった現在、自然科学者は自らの発見が社会に対して示唆するものに対してもっと敏感であるべきではないか。

もちろん、私は自然科学者が道徳やしつけを設計せよ、と言っているわけではない。しかし少なくとも道徳やしつけの設計を、自然科学の目で「査読」し、そして道徳やしつけの「設計者」たちの自然科学に対する理解を新鮮かつ的確に保っておくのも、義務とまではいわぬとも業務の一部なのではないだろうか?

たしかに、20世紀の歴史を見れば、自然科学者たちのためらいはそれこそ痛いぐらいわかる。自然科学はこれまで足し算だった「進歩」を、掛け算に変えた。正の影響も増幅されるが、負の影響もまた増幅されるのだ。化学と第一次世界大戦、量子力学と第二次世界大戦....いい意味でも悪い意味でも科学の凄さを誰もが五感で感ぜずにはいられなくなったのが、20世紀だった。

それを見れば、自然科学者たちが、別人がそれを応用することに対して免責してくれというのは当然でもあるし筋も通っている。原爆投下を決めたのはあくまでトルーマンであってアインシュタインではない。

それでは、自然科学者たちはこれらの「自然科学の負の応用」から完全に免責なのだろうか?

私は、結果責任からは免責であるべきだと思うと同時に、説明責任からは免責でないと思う。そして自然科学者たちは、現時点ではその説明責任を充分全うしていないとも感じている。

そしてなぜそうなのかといえば、「自然科学における説明」と、「一般人に対する説明」の違いに自然科学者たちがあまりに無頓着だという理由に思い当たる。自然科学においては、ある間違った仮説があれば、それを反証するだけで充分な説明となる。「それは間違っているから次行ってみよう」という暗黙の了解がすでにそこにある。

しかし「一般人に対する説明」は違うのだ。「それでは何を信じたらいいのですか?」という質問にまで答えてあげないと、答えたことにならないのだ。「水からの伝言を信じるな」というのは、だから説明責任の半分しか果たしていない。そこで「誰からの伝言なら信じてもよさそうだ」ということまで伝えてはじめて一般人は「納得」するのだ。

自然科学者は疑うのが仕事だが、一般人は信じる事で行動する。

だから、偽物を見破るだけでは充分ではない。その代わりに「使って安心」な本物を与えなければならないのだ。

kikulog:しゃべらなかったけど大事なこと
どうしたらいいかについての答はないです
ただただ悩ましい

一つ提案がある。「ここまでなら信じてもよさげリスト」というのを、科学者一同で作ってみたらいかがだろう。もちろん科学者たちではなく、いろいろな人に手伝ってもらえばいい。一昔前ならとにかく、今ではそれはそんなに難しいことではない。その時の注意点は、まだ科学的に検証されていないことでも、「だいたいこんな感じ」ということもあえて書いてしまうこと。もしそれが間違っていても、それは後で直せばいい。重要なのは、「正しい答がほんのわずかだけ入っていて、あとは間違った事の論破」ではなく、「仮説でもいいから答らしいものも余さず書く」こと。科学的には、これはきしょい。しかし科学者の言う事に人々がもっと耳を傾けるには、そうした姿勢も必要なのではないのだろうか。

結局科学者もそうでない人々も、同じ宇宙の同じ臭い飯を食う仲間なのだから。

Dan the Layman


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404 Blog Not Found:道徳やしつけの根拠は自然科学にある
404 Blog Not Found:道徳やしつけの根拠は自然科学にある【】at 2012年01月25日 11:10
道徳やしつけの根拠は自然科学にある id:sivad:2061226 ここを読んで思ったことを書きたい.一応,最近書いてきたテーマだしまとめのようなもになると思う.議論をしようにも時すでに遅しだし,時間がない(勉強をしているのです).僕の意見表明になるだろう.(胸を借りるつ
[pseudo][science][nosuke42]そんなに救いを求めるな,とすら【のすけんち】at 2007年01月03日 16:29
道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない 道徳やしつけの根拠は自然科学にある ある意味、どちらも正しいけれど、どちらも正しくないといえます。 科学は、人間がある価値観に基づいて行動する際の「道しるべ」となり得ます。 すなわち、「どこに行くのか」「目的
科学は道徳やしつけのための「地図」である【赤の女王とお茶を】at 2006年12月26日 11:05
弾@監禁中です 404 Blog Not Found:道徳やしつけの根拠は自然科学にある - 初学者Kさんのコメント うーん、これだけ反響があった以上、もう一段説明を加えないと、弾さん自身が >説明責任を充分全うしていない ような気がする。 それも想定の範囲内ということで説明....
どうせ信用するならエセでない科学を【404 Blog Not Found】at 2006年12月25日 20:29
 檜山正幸のキマイラ飼育記の科学はあなたを救ってくれないで紹介された道徳やしつけの根拠は自然科学にあるは、なかなか衝撃的ですね。トンデモに割となれているつもりですが、それにしても強烈です。 ちなみに、
セカイ系と酷似する構造を持つトンデモ病理!?【Ride The Time! オータム マガジン】at 2006年12月25日 15:19
この著者は知ったかぶりしてるんでしょうか?それとも議論を起こすためにワザと釣ってる? kikulog:道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない 何度も言ってることなんですが、あらためて書くことにしました 「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」
[科学][宗教]404 Blog Not Found:道徳やしつけの根拠は自然科学にある【ドレッシングのような】at 2006年12月25日 10:12
菊池誠さんがしばしば強調している「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」に対して、「道徳やしつけの根拠は自然科学にある」と弾さん: 今や自然科学者にとって金科玉条となっている[注:菊池さんの]この文言は、その一方で自然科学者の怠慢の証拠でもある
[雑記/備忘]科学はあなたを救ってくれない【檜山正幸のキマイラ飼育記】at 2006年12月25日 09:31
団さんのBlogから 自然科学者は疑うのが仕事だが、一般人は信じる事で行動する。 404 Blog Not Found:道徳やしつけの根拠は自然科学にある 我々エンジニアの仕事は、何を信じたらいいか整理し、さらにそれを具体的に実現するしくみを構築することだ。って書いてみると当たり
エンジニアの仕事【「枯葉散る白いテラスの午後三時」】at 2006年12月25日 00:10
イブな一日,皆様いかがお過ごしでしょうか 見栄っぱりなコトを書いてしまいそうなので,イブの日の書き込みはやめとこうと思ったのですが,興味深いエントリーを見つけたので,そこにトラックバックがてら... まっ要するに,イブの日にブログ巡りしてるってことですが...
サイエンスの今日的状況【Intersecting Voice Cafe】at 2006年12月24日 21:50
 小飼弾さんの意見には一理ある。道徳やしつけの根拠は自然科学にある(404 Blot Not Found)しかし、実際のところ、我々は自然科学なしに道徳やしつけを設計することは出来ない。仮に保存則が成り立たなかったとしたら、所有権という概念を我々が得 る事はなかっ....
道徳やしつけの根拠を自然科学に頼ってはいけない【アルファ日誌】at 2006年12月24日 12:10
正直、小飼弾さんのエントリに言及するにあたって、相当腰が引けています。 対等に論陣を張れるほどの能力がある気もしないし。とか書くと予防線臭いなぁ。 そしてその根拠は、と問うと、「自然科学は価値中立だから」ということになる。自然科学は毒にも薬にもなるのだか...
道徳やしつけの根拠は自然科学「にも」ある【Chromeplated Rat】at 2006年12月24日 11:11
この記事へのコメント
あんまり指摘している人がいないので今更だけど指摘させていただくと、ブログ主さんは「である」と「べきである」が異なる問題だと言うことを、理解されておられなかったんでしょう。

自然法則は私たちの生き方に様々な制限を加えるから、道徳の上限も同時に決まるけど、「自然法則の枠内でどのように人間が生きるべきか」を自然法則から導き出すことはできない。それをできると言ってしまえば間違いになる。
「1万円しか持っていない」という事実は「1万円以上の物は買えない」という制限を課しているが、「1万円以下の物をどのように買うべきか」を教えてはくれないのと一緒です。

どうもエントリの後半は論旨が変わっているようで、あまり深く考えておられなかったんだろうとは思いますが。
Posted by Hutakobu at 2008年01月18日 19:44
例によってトラックバックうまくいきませんでした。コメントで失礼します。

弾さんへの愛憎いりまじったエントリです。
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20070311/p2
Posted by osakaeco at 2007年03月11日 22:29
>今や自然科学者にとって金科玉条となっているこの文言は
s/この/次の/
Posted by bluesy-k at 2006年12月30日 12:02
私もこれは言い過ぎと思います。

「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」
「道徳やしつけの根拠は自然科学にある」

という二つの表現の比較が成り立っていないと思います。
「しかし、実際のところ、〜」の段落を読む限り、「道徳やしつけ」という言葉が同じものを意味しているとはとても思えません。インパクトの強い表現を狙うあまり、話がすれ違ってしまっていませんか。
Posted by sue at 2006年12月27日 03:05
例えば、Excelの動きを一般人に機械語のレベルから解説することが無意味なように、突き詰めて考えれば自然科学が道徳やしつけの根拠になるという事実は、一般人にとって無意味な主張なんじゃないだろうか。
Posted by くらげ at 2006年12月26日 12:35
うーん、これだけ反響があった以上、もう一段説明を加えないと、弾さん自身が
>説明責任を充分全うしていない
ような気がする。
Posted by 初学者K at 2006年12月25日 13:06
混同って言うか

(自然法則を切り取る)自然科学なしに(最終的に自然法則に頭打ちされる)道徳やしつけを設計することはできない。

区別できてると思うが?
Posted by ? at 2006年12月25日 12:11
東スポみたいな見出しの付け方ですね。
自然科学の生まれていなかった時代にはしつけは存在しえなかった、自然科学の素養がない人間はまともなしつけをなし得ない、そう言いたいのかと突っ込みたくなるようなタイトル。
釣りにしてもやりすぎじゃないでしょうか。「必要条件だとは書いていない」という逃げもありますが、そこが「誤解期待」の東スポ流。

そして、自然科学というのは我々を取り巻く世界を人間が切り取る際の枠組みであって、世界そのものじゃないですよね。根拠になるのは自然科学そのものなんでしょうか、世界の方なんでしょうか。
>しかし、実際のところ、我々は自然科学なしに道徳やしつけを設計することは出来ない。
の段落、その点を混同させているいるように思えます。次の段落では自然法則と自然科学を区別していらっしゃるようですが。
Posted by luxon at 2006年12月25日 10:27
すいません。最初の方だけ読んでコメントしてしまいました。
弾さんの書かれていることを誤解していたようです。上のコメントは無視して下さいm(._.)m。
Posted by bob at 2006年12月25日 07:56
大学で教職に就いている自然科学者の端くれとして一言言わせて貰いますと弾さんの考え方には危うい面が含まれています。
勿論自然科学から合理的に導かれる道徳などもありますが、そうでない道徳もあります。下手に自然科学的な裏付けを必要条件にすると優生学などを正当化することに繋がります。他の方もコメントに書かれているように自然科学と道徳は分けて考えないとダブルスタンダードに陥り逆に道徳の力を失わせることになります。
あと囚人のジレンマは自然科学では扱いません。
Posted by bob at 2006年12月25日 07:53
>言い過ぎだろうか?
言い過ぎでしょう。

>罪と罰という考えかたそのものが、囚人のジレンマの応用と見なすことも出来る。

順序が逆です(だから見なせるのは当たり前)。また、この文章全体が、囚人のレトリックに囚われてしまっています。
騙しのテクニックにも使えるという点では、レトリックも科学も同じです。この文章に感服する人がある一方で、私のようにこのレトリックのために首をかしげながら読む人間もいるのです。

>一昔前ならとにかく、今ではそれはそんなに難しいことではない。
プログラマさんの発言とは思えません。難しくなかったらあのビルゲイツ氏が動いていない方がおかしいのですが……。

通りすがり氏
>調べたり、考えればわかることをやらなくてもよくなる仕組みの整備
調べたり考えたりすることはニンテンドーDSでやれと。というのが笑えない時代になりますな。それはある意味ではABC兵器以上に危険なのですが。
Posted by 半覚斎 at 2006年12月25日 02:31
>「ここまでなら信じてもよさげリスト」というのを、科学者一同で作ってみたらいかがだろう。
ほとんどの日本人なら、小中高と10年以上の歳月をかけて、それを学んできているはず。これ以上、科学者に何をさせろと。
Posted by Inoshin at 2006年12月25日 02:15
ここでの記述さえ信頼していれば、という鉄板としてはWikipediaは微妙なような……

それはともかく、自然科学的に騙されない程度の正しい理解をする事がその人が負担しなければならないコストだとしたら、全人生をかけても間に合わないような人もいる事でしょう。社会科学的には、それさえ見れば真偽が判断できる信頼性のあるリストがあるなら、それらの人にとっては幸せの効用は高くなると考えるもんではなかろうか。

調べたり、考えればわかることをやらなくてもよくなる仕組みの整備は、科学的思考する人にとって感情的に不快なものかもしれませんが、社会をより効率的に運用して行こうという世の中の傾向の元では、かなり逆風の主張だとは言えるかと
Posted by 通りすがり at 2006年12月24日 23:12
自然科学が「どうすればよいのか」(倫理学の問い)に答えないのが怠慢なら、計算機科学が「どうすればよいのか」に答えないのも怠慢ということになると思います。コンピュータを用いた人々にコンピュータ屋や計算屋は「どうすればよいのか」に答える努力が足りないから、コンピュータを用いた「悪行」が生じるとも言えます。道徳やしつけは「どうすればよいのか」に関することであり、別の問題です。自然科学者だけが責任を負う問いではありません。
Posted by katsumushi at 2006年12月24日 23:07
「自分は科学を知らないから、科学を知ってる人に『ここまでなら信じてもいいよ』と教えて欲しいなぁ。」って考える人は、簡単に釣れそうな気がします。

問題は自然科学を知らないのに(知らないが故)、自然科学であるといわれたことを鵜呑みにしてしまう受身な点にあるわけで。
Posted by うー at 2006年12月24日 22:46
通りすがりのものです。

それをやるのは科学者ではなくてサイエンスライターの仕事ではないでしょうか。NewtonとかScientific Americanとかそういう一般向け本や子供の科学、大人の科学といった雑誌。フツーの科学者にそんな説明能力求めたって、何をどう説明したらいいのか判っている科学者はほんの一握りではないかと(そしてそういう人は時々経営者に化けてたりする)。
Posted by それは科学者の仕事ではない at 2006年12月24日 20:56
よく分からないけど、弾さんの意図は「最初に声を上げた人間に責任をおっ被せて潰す」ことにあるんですか?
Posted by pooh at 2006年12月24日 20:27
 生きるのも自然、死ぬのも自然。人工などという概念を持ち出したところでなにをいうかぼけぞうめ、といわせてもらおう。

 あらゆる「自然」を事象に見つけ出して過去に学んで未来に生かし人類の生存発展に生かす、それがしつけというものではないのかぃ?
Posted by こまつ at 2006年12月24日 19:16
> 道徳やしつけの根拠は自然科学にある

牢屋の比喩見て思ったんですけど、
「根拠」じゃなくて「前提条件」ですよね。
Posted by bywordeth at 2006年12月24日 18:47
「ここまでなら信じてもよさげリスト」は科学じゃなくて工学の仕事じゃないかな。工業製品なんて正にそのものだと思うけど。結果的に間違いとなるこもやたら多いけど。
Posted by 通りすがり at 2006年12月24日 16:07
>通りすがりさん
文化と言う言葉は少し大げさでしたが、「調べたり、考えればわかることをやらなくてもよくなる仕組みを持つと、社会に知識や教養に価値を感じる人が少なくなるだろう」と言いたかっただけです。

トンデモに対しての警鐘に反応するリテラシーすらない人が、そのようなリストをチェックするリテラシーがあるようには思えません。
科学的な情報についての初心者でもわかる噛み砕いた情報は、現在ではどの分野のものでもあります。それこそまずはWikipediaがあるし。そういうものを自分で調べもせず、安心だけが欲しいなどと言う人は、結局、わかりやすく見えるトンデモな話に付け込まれるのではないでしょうか?
Posted by Nasty at 2006年12月24日 16:03
研究者個人から見ると自分にとって当たり前のことを文章にしても研究業績にならず、むしろリストを公表したことに対する結果責任が生じるので、現状ではデメリットの方が大きいと思います。数年前にナレッジマネジメントシステムを導入しても社員が全然書き込みをしないために失敗に終わったことなどの、集団のメリットと個人のメリットが一致しない問題として面白いと思いますが。
Posted by courant at 2006年12月24日 14:49
「わからないし、勉強する気もない、正しいことだけ教えろ」と、いいたいわけですね。
Posted by あ at 2006年12月24日 13:47
>Nasty

おっしゃられる文化とやらは、目の前の科学的理解の壁の前に、騙されたり、トンデモ療法で体を壊して死ぬ人間を放置しないと保てないほど脆弱なものなんですかね?
もちろんリストを逆に悪用する輩も出るだろうからイタチごっこになるかもしれないけど、消費者生活センター並みの存在の位置づけの、科学的論証の信頼性を科学リテラシーの低い人が利用できるようなリストの存在を否定するってのは、低リテラシー弱者嫌悪にしかみえないんですが、あんまりそういうのはいい文化には見えませんね
Posted by 通りすがり at 2006年12月24日 13:45
>Tomcat

>それって、自然科学がもっとも否定する「思考停止」ですよねぇ


菊池氏の否定しようとしている話を、効率的に実行する手段を論じているだけだということを読解できてないのでは?人間すべてを、科学的理解ベースで会話が成立する事を期待するなんて「思考停止」ですよねぇ
このリスト案と、科学的思考力を一般に高める話は、因果関係で結んではいけないでしょ

Posted by 通りすがり at 2006年12月24日 13:45
>それでは、自然科学者たちはこれらの「自然科学の負の応用」から完全に免責なのだろうか?
免責なのではないでしょうか。あくまで研究者としては。つまり自然科学者というのを属性と捉えれば自然科学者である人自体は自然科学者でもあり社会について考えていくべき存在でもある。そして社会について考えていくべき存在としての部分でもって倫理については議論すべきなのです。いろいろ安易に混同しすぎだと思います。
Posted by bluesy-k at 2006年12月24日 13:42
思考停止のタイミングを失うとニートになるよw
Posted by 名無しさん at 2006年12月24日 13:35
自然科学と社会科学とをごちゃ混ぜで考えると、収集がつかなくなりますよ。
Posted by neat at 2006年12月24日 12:44
逆にリストを権威化して自分のトンデモ理論を売り込む輩が出そうですね。
科学者の誠実さはあらかじめ答えを用意しておくことではなくて、問いに対してどこまでも辛抱強く説明を続けることにあると思います。
問わずに安心だけを得ようとする人に対して、安易な回答を用意することは、文化を堕落させることにつながらないでしょうか?
Posted by Nasty at 2006年12月24日 11:41
「それでは何を信じたらいいのですか?」
という一般人の問いに対して、単純明確に
「○○○○を信じなさい。」
と答えるのはニセ科学、という話だったのでは?
Posted by nrt at 2006年12月24日 10:50
>「ここまでなら信じてもよさげリスト」

それって、自然科学がもっとも否定する「思考停止」ですよねぇ
(きしょいという言葉も書かれていますけど)
Posted by Tomcat at 2006年12月24日 09:39
>「ここまでなら信じてもよさげリスト」というのを、科学者一同で作ってみたらいかがだろう

っwikipedia
Posted by ななし at 2006年12月24日 05:58