2006年12月27日 05:00 [Edit]
お互いの領分
いらっしゃませ。
404 Blog Not Found:ニセ科学はリンクエラーを起こさない - きくちさんのコメント科学と宗教はお互いの領分を守るかぎり、共存できるはずではないですか?
その「お互いの領分」というのがはっきりしないから、こんなことを書いているわけです。
この「お互いの領分」というのを宗教、政治、そして科学といったもろもろの「勢力」が勝手に主張しては、互いの領域侵犯を責め立て合っているというのが現在の状況です。日本ではそれは目立ちませんが、今後この「領域紛争」はますます拡大していくものと思われます。
しかし「お互いの領分」というのは、そもそもはじめからきれいに切り分けられるものなのでしょうか?もし切り分けるはずであれば、なぜ大学は未だに「『人生をどう生きるか』について教えてくれない」はずの人々に Ph. D - 哲学博士の称号を与え続けているのでしょうか?
まだ科学がディレッタントたちのものであった時代なら、「お互いの領域」を分けるのは簡単なことでした。書斎の中が科学、外はその他もろもろでよかったわけですから。しかし今や科学はそれ自身が社会における一つの巨大勢力であり、公私にわたって巨額の投資がなされる世界となっています。
そうである以上、必ずその限りある資源を巡る領域紛争は避けられません。「お互い」のことを気にせずにいるには、世界は狭すぎるというわけです。科学が出れば、どこかが引っ込むのはもはややむえないわけです。
実際、この「領域紛争」は科学者どおしの間ですら起きています。たとえばSSCの建設を巡っては、物理学者たちとそれ以外の科学者たちとの熾烈な確執がありました。結局物理学者たちは「負けて」、それまでにかけた20億ドルはパアになりました。もしこれが日本で起きたら、一体どんな騒ぎになっていたのでしょうか。
「お互いの領分を守ろう」というのは一見慎ましく見えますが、むしろ領分というものを持ち出すことによりそれが諍いの種となっているように私には思えてならないのです。
今ひとつの「領分」の問題は、領分は見返りから無縁ではいられないことです。なぜ科学に莫大な投資がなされるようになったかといえば、残念ながら皆が知識の探求に理解を示したからではありません。それに対する見返りが他より大きかったからです。これは科学に対する「投資家」たちだけではなく、科学者にとってもです。身も蓋もない言い方をすると、科学は俗化した見返りにその領分を拡大したということです。
そういった状況化で、「科学は『人生をどう生きるか』について教えてはくれません」という信念だけを言い続けたらどうなるでしょうか?当然「それを教えてやる」というという勢力が跋扈することになるでしょう。「人生をどう生きるか」を教えないなら教えないで、「それでは私の人生にとって一体何の役にたつのだ」という質問を「投資家」たる市井の人々は問わずにいられません。結局SSCの議論もそれで押し切られた形になっています。ヒッグス粒子を見つけても市井の生活は代わらないけど、その分ゲノムに投資すれば薬が出来るというわけです。
とはいえ、領分モデルというのは20世紀は非常に有効でした。divide and conquer(分割して征服)というのは20世紀のありとあらゆる場面で用いられ成功したパラダイムでした。しかし征服すべき地がなくなると、今度はそれが仇となります。共食いがはじまるのです。divide and conquerまではとにかく、divide and ruleまでうまく行っているようにはあまり見えません。
率直に申し上げて、私にとってSSCの顛末はかなりショックでした。「科学よ、おまえもか」といったところです。しかし考えてみれば、科学もまた投資によって運営されるようになっている以上当然のなりゆきといえば当然のなりゆきでした。
いっそ領分をなくす、というよりこれらを共有地化できれば理想だと思うのですが、もしそれが出来ないのであれば、せめて科学の領分をもう少し伸ばした方がいいのではないかというのが私の気持ちです。しかしのばすためには、大声で「科学は『人生をどう生きるか』について教えてはくれません」と言うのは、競合相手に水から、じゃない自らの弱点をさらけ出すことでもあります。「あなたの人生をこんなに豊かにしてくれます」、ないしさらに俗っぽく「あなたの財布をこんなに豊かにしてくれます」と言い続ける必要がどうしても出てくるでしょう。少なくとも現在のプロの研究者は、きくちさんも含め皆雇用主に対してそれをやることを強いられています。さもなくば尼寺へ行くのではなくアマになるか。釈迦に説法ではありますが。
It has nothing to do directly with defending our country except to make it worth defending.
[わが国の国防には無関係です。この国を守るに値する国にするということを除けば]
-- Robert R. Wilson
この台詞だけで科学の領分を確保できるほど我々が豊かならよかったのですが....
Dan the Taxpayer Who Has Nothing to Do with Science -- Except to Make It Worth Defending
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ちょっと気になることは、学校で道徳の授業に水伝が使われている例は
結構ありそうなわけですが、理科の授業でも使われたりもしているんで
しょうか?そういうことがなければ、今のとこ、学校の授業では水伝が
科学の領分にまでは入り込んではいない、ということではないでしょう
か。
というか、道徳の授業ってのがそもそも一体、何なんでしょうね?全く
死んだあと幸せになろうとするのが宗教。
Ph.Dという称号だからといって哲学の専門家とは限らないことは自明だと思います。歴史的事情は重要ですよ。
ちなみに菊池の学位はPh.Dではありません(^^
>「創世記は例え話」とするのはよく言えば科学に領分を譲ったから、悪く言えば科学に領分を侵されたからですよね
どちらでもかまいません。かつては闘いがあり、現在は「穏健な解決」がなされているということです。そして、同じキリスト教でも「穏健な解決」を拒否している原理主義者とは今でも闘いが続いているわけです。
領分に関する争いがなかったなどという話ではありません。だからこそ、今更ガリレイやブルーノを持ち出す弾さんに疑問を呈しているわけ
科学を汚されている、とでも言うような。
普通のキリスト教にしたって普通に信じれば創造論を採ることになります。
それを「創世記は例え話」とするのはよく言えば科学に領分を譲ったから、悪く言えば科学に領分を侵されたからですよね。
○○博士は○○に関して優れた研究をした人に対して送られる称号であって○○を教えてくれる人に与えられるものではないです。
弾さんの主張は「水伝を糾弾する科学者は、それ以上に創価学会を糾弾すべし」でしたから、この質問をスルーされるのはフェアではありません。
しかし、いきなり話が「科学者同士の領分」に移られては、困りますね。弾さんが、「科学と宗教」の話をいきなり持ち出されたので、僕は「科学と宗教の領分」について僕の意見を書きました。その返事が「科学者同士も領分争いをする」というのは、子供の喧嘩みたいです。そりゃ、科学の分野同士は「研究費」を争います。そんな話ではないことくらい、文脈から明らかですよね。
でも、ここで弾さんがおっしゃっているのは、敵軍が要塞化した孤島を空軍の一部隊だけで占領しろ、とおっしゃっているようなことのように感じます。通常は上陸部隊も動員するだろうし、空爆で殲滅作戦を行うにしても(どんなに戦闘力が高くても)一部隊だけで戦場に赴かせるのは、控えめにいって不合理です。
そうして、われわれが雇用しているのは空軍だけではないはずです。