2007年02月02日 14:00 [Edit]

煉獄に幸福の家を建てるには

朝アクセスしたらbewaadさんとこがStatus 500で落ちていたのだけど復旧したようで一安心。

bewaad institute@kasumigaseki(2007-02-02)
もちろん「食べていける」というのが農業革命以前の水準‐というのが大げさであれば、産業革命以前の水準‐でよければ、今すぐにでも働かなくても食べていけることでしょうけれど、それはヒトにとって「食べていける」と呼ぶには値しないのです。

cover
幸福ということ

エネルギー社会工学の視点から
新宮秀夫

bewaardさんのentriesはマズローとかマルクスとかマったくえらい人への言及が遠慮なく出てくるので、これらの人の著作を熟読しなきゃ話についていけない錯覚にとらわれるのだけど、このあたりのことがよくまとまった本として、この「幸福ということ」を上げておく。刊行が1998年とちょっと古いのだけど、まだ新刊で買えるのは嬉しいところ(永野のりこネ申がほとんどマーケットプレイスでしか買えないのに!)。

目次
  • 序章 なぜ、「幸福」を問うのか
  • 第1章 人間の本性と幸福の関係
  • 第2章 幸福について人々の考えてきたこと
  • 第3章 幸福の四階建て論
  • 第4章 社会のしくみ、自然のしくみと幸福
  • 終章 我々は何処へ行くのか
4階克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
3階苦難や悲しみを経験し、それを克服する。
2階獲得した「快」を永続させる。
1階人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす

本書に「出てくる幸福の四階建ての家」というのがわかりやすくてよい。

これは下ほど低俗で上ほど高尚だとか、上ほど難易度が高いだとかということではなく、幸福にはこれだけの要素がありますよという風に捉えるべきだが、それでも階数がこの順番になっているのは、「幸福への基礎」にどれだけ近いかという意味合いぐらいはある。そして社会というのはあくまでその基礎までしか提供できないものだというのは理解しておく必要があるかと思う。あくまでこの家を設計して施工し、家訓を設計して施行するのはあなたであり私であるべきだ。

とはいえ、この住宅分譲地の品質を決めるのは、確かに社会だ。どんなにいい家を建てたところでそれが軟弱地盤の上なら家ごと傾く。我々の幸福にとって社会にはその程度の意味はある。「自己責任」という言葉になぜしらじらしさを感ぜずにはいられないかといえば、その言葉からはこの視点が抜けているからなのだろう。

前口上が長くなった。

404 Blog Not Found:働かなくても生きて行ける煉獄
我々は「働かなくても生きていける社会」で生きていけるほど慎ましくなれるのだろうか?残りの99人は「ごくつぶし」であることを従容するのだろうか?そして選ばれた1人は社会を食わせ続けることに飽きずにいられるのだろうか?

私はこれをどうするかが、今後の社会設計において最重要課題になると考えている。そして実のところ、この点に関しては楽観的ですらある。なぜなら、これに関しては解決策を見つけているからだ。

世界で10人に1人しか働けないなら、世界を10個作ってしまえばいいのだ。

勘違いして欲しくないのは、私はそれぞれの世界に分かれて住めといっているわけではないということ。それでは世界ごと無くなってしまった場合お手上げである。要は複数の世界に庵を構え、ある世界ではごくつぶしとして振る舞い、ある世界では王として振る舞えばいい。

大事なのは、世界間の往来の自由と、複数世界への所属の自由。一つの世界を極める極める生き方も、好きなだけ世界を放浪する生き方もともに認められるべきで、そしてそれを認めることが「世界による世界」全体を「豊かに」することだと感じている。

私が「経済発展」という言葉に薄ら寒さを感じているのは、そこに「世界を大きくする」という視点があっても「世界を増やす」という視点が欠けているからだ。たしかにどの世界を維持するにも費用がかかる以上、経済発展は「世界の中に設定できる世界」を増やすことになるので本来は歓迎のはずなのである。しかし今のところ、経済発展というのはむしろ「世界」間の裁定取引をすることで、「効率的な世界」による「非効率な世界」の吸収合併という形で進んでいるかのように見える。これでは経済発展も本末転倒なのではないか。

とはいえ、世界が一つでは足りないということは、世界が一つになってみないとわからないのかも知れない。そしてそうなったとき、世界が再び多様化するのかどうか心配でないかといえば少し心配だ。しかしこの点でも私は楽観的だ。なぜなら生物という成功例がすでにあるからだ。

404 Blog Not Found:多様性2.0

無生物の世界ではありえないこのことは、生物界ではありふれたことになっている。ラン藻が酸素という毒を振りまいても、嫌気性細菌は滅亡しなかった。昆虫が地上に進出しても、陸上植物が食い尽くされることはなかった。そして人類が滅亡しても、そこには多様な生物が溢れた世界が残るだろう。

実に驚くべきことだ。その驚きは、生物のアーキテクチャーの画一性が20世紀に発見されてますます大きくなった。DNAの世界は、TCP/IPの世界より画一的なのだから。

そう。生物の世界というのは、一端フラット化した後の世界なのだ。人間社会がそうなるのはいつのことだろうか....

Dan the Citizen of the Worlds


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この記事へのコメント
さいさん、
>s/施行/施工/
さいさんの再施行に基づいてentryを再施工しました:)
Dan the Typo Generator
Posted by at 2007年02月02日 19:03
s/施行/施工/

元エントリが500で読めないけど、一人当たりが得られる『本能的な「快」』の量として
「産業革命以前に得られていた程度」と「現在の人々が期待する程度」の格差がある
んじゃないの、という話ではないんですかね。

Posted by さい at 2007年02月02日 15:23