本書のタイトルは、これで正しい。

常々「学習」を「勉強」と呼ぶなと言っている私が、なぜこの本のタイトルは正しいと言っているのか?

その理由は、この設問の答えにある。

p.40
だから、もし子どもに「なぜ勉強しなければならないの?」と訊かれたら、親は「社会をよりよくするためだ」と自身をもって答えなければなりません。

この台詞は、勉めて強いることなしには出て来ない。もしこの台詞を勉めることも強いることもなしに出したのだとしたら、そいつは掛け値なしの馬鹿だ。

しかしこれは、勉めて強いてでも、誰かが言わなければならない言葉なのだ。

目次
  • 第1章 すべてに通じる理解力、想像力、表現力
  • 第2章 明晰に、論理的に、分析的に
  • 第3章 正しい学習法
  • 第4章 世界に通用する論理
  • 第5章 未来をよりよくするために勉強する

目次にあるとおり、本書「なぜ勉強するのか?」において、鈴木光司は勉強を三つに分けている。うち理解力と想像力に関しては、私は勉強したら負けだと本書を読了した今も思っている。この二つを勉めて強いないと発揮できないというのは、その時点でこの二つを楽しんで発揮する人とは勝負にならない。

しかし、最後の表現力に関しては、勉めて強いることが時に必要となる。それは世に対して異議申し立てをする行為なのだから。ガリレオの勉強は、ピサの斜塔で実験したり、望遠鏡を作ったことじゃない。彼はそれらを喜々としてやったのだ。それを本に著した事、それが彼の勉強なのだ。

表現。それがどれほど勉めて強いるのかということは、世の天才たちを見ても明らかだ。ガウスは非ユークリッド幾何学を発見していたのに発表しなかった。それが数学界を勉めて強いることを知っていたからだ。彼がなぜあれほど長生きできたかといえば、「勉強」はほどほどにしかしなかったからだ。

逆に、「勉強好き」の人生は儚く悲しい。ブルーノは火あぶりにされた。ヴァン・ゴッホの絵は生前ほとんど売れなかった。カントールは精神病院で一生を終えた。

現代においては、表現に対してそこまでの「勉強」は必要なくなった。近代の「天才」の寿命が伸びたのもそのためだろう。ピカソは名前も長かったが寿命も長かった。スティーヴン・ホーキングは五体不満足なのに還暦を超えた上に宇宙旅行を目指している。しかしそれを可能にした「表現の自由」の獲得そのものが「勉強」であり、今に至るまでおびただしい涙と血が流されてきて、そして今でもその確保のための「勉強」が続いている。

そう。表現というのは、本当は痛いのだ。

それでも表現せずにはいられない。表現せねばならないものがある。

これは確かに勉強せねばなるまい。時には命をかけてでも。

それだけの価値がある答えとしては、「社会をよりよくするためだ」しかないではないか。

薫日記: なぜ勉強するのか?
日本は世直しが必要だと思うが、「国家の品格」とか「美しい国」じゃなくて、鈴木光司さんの「なぜ勉強するのか?」でも読んだほうがずっとためになる。

世直しは、現代日本だけではなく古今東西いつだって必要だったし、この瞬間もなされている。世直しが不要というのは、子供たちに「君たちは生まれてきた価値が無い」と言っているに等しい。もちろんどこをどれだけ直すかは、時代や場所によって違うけれども、世は勝手に直るものではない。勉めて強いないと直らないのだ。

だから、上の「クサい」台詞を、堂々と、勉強して言ってくれたことに感謝している。私はとてもそこまで勉強できなかった。それに比べればツッコミどころの多い各論や、「父性の誕生」とかぶっているところが多い面は目をつぶる、いや読者としてその程度は「勉強」してもいい。

とはいえ、だからこそ「勉強はほどほどに」と私は申し上げたい。だから書名の「なぜ勉強するのか?」は正しいがオビの「勉強が大好きになる!」は間違いだ。勉強が大好きな者は、往訪にして自分勉強するより他者勉強するものである。本書にも、そういう押し付けがましさは確かにある。

しかし、勉強が「たった一つの冴えたやり方」だった場合には、勉強をためらってはならない。勉強とはそういうものだ。だから勉めて強いるぐらいがちょうどいい。勉強しなけりゃ不戦敗。しかし勉強好きは本番までもちませぬぞ。

Dan the Man in Progress, Whichever Direction it May Be