2007年04月23日 16:45 [Edit]
書評 - 仏教は心の科学
宝島社の柳氏に、この場を借りて献本御礼。
それにしても何というタイミングだろう。
極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ日本の仏教者はダライ・ラマの教説を否定するだろうか。そしてその否定のしかたは、「それは仏教ではない」という否定になるのだろうか。もしそうなら、では、ダライ・ラマの仏教を否定する日本人の仏教とは何に依拠しているのだろうか。
本書はこういう疑問を抱く人のために書かれたのだから。
本書「仏教は心の科学」は、スマナサーラ長老の法話集。と書くと、最近とみに増えてきた「Yet Another 仏教本」という印象を受けるかも知れないが、「元祖仏教」、いやブッダの言葉は実に
404 Blog Not Found:ブッダ―大人になる道実に単純で明快で痛快
なのである。
目次 - 仏教は心の科学より以下の下りなんて、「それってどこのGeek?」ではないだろうか。
p.99天界は快楽を食べて生きる次元
みなさんは天界に生まれ変わったら、遊んだり、音楽を演奏したり、踊ったり歌ったり、性的な行為を思う存分やったり、お腹いっぱい食べたり、そういうイメージで「楽しそうだな。天界に行きたいな」と思っているのではありませんか。
でも本当は天界では、そういうことをしないと死んでしまうのです。彼らは楽しんでいるわけではなくて、必死で生きているのです。遊ばなくては死ぬのです。音楽の波動で生きている神々は、ちゃんと定期的に、決まった時間にその音楽の波動を食べないと死んでしまうのです。我々は楽しくなるために演奏を聞いたりしますが、天界の場合は、生死の問題です。死ぬか生きるかの大問題なのです。それでも皆さんは天界に生きたいですか?
本書を読了後にfinalventさんのentryを読んで思ったのは、
ブッダの教えはLisp
なのではないか、ということ。動的、というのはまさに諸行無常だし、S式は色即是空だ。
そう思えば、
404 Blog Not Found:ブッダ―大人になる道そしてもう一つの謎は、仏教は本国では滅んでしまったことだ。
もわかる。「ふつうの人」には単純すぎて明解すぎたのだ。我々は単純と明解を口で言うほどには好んでいない。もしそうなら、なぜ我々はバザールに留まらず伽藍を築いてきたのか。
実のところ、日本の「仏教」と「ブッダの教え」の違いは、JavaScriptとJavaほどにも違う。同じのは名前ぐらいだといって構わない。そもそも死んで成仏できるなら、ブッダなんか不要ではないか。このことだけでも、日本の仏教はブッダの教えにあらずというのは明らかだ。ニセモノと言わぬまでもベツモノである。
しかし、そうなるのも当たり前といえば当たり前である。そもそも日本に我々が仏教に対して抱いている印象というのは天竺から中華を経て到着し、そこからさらに15世紀もの時を経たものだ。だいたい日本の宗派の開祖で、天竺まで行ったものなどいないではないか。すでに中華において道教と儒教の味付けがさんざんななされたもののうち、さらに日本になじみそうなものを持ち帰ったってさらに日本で味を直したものが日本の「仏教」なのだから、ブッダの教えと違うのはむしろ当然なのである。仏教自身もまた諸行無常の例外にあらずといえば言い過ぎだろうか。
「ブッダの教え」とは異なる「仏教」は、日本の仏教だけではない。チベット仏教も例外ではない。少なくともスマナサーラ長老にいわせれば、「死者の書」もガセビアだ。そして、皮肉にもそのことがチベット仏教を生き残らせてきた理由の一つでもある。
極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところダライ・ラマ あなたのみつけた悪い性質や悪徳が、さらにもっと大きな害をもたらす恐れがあるときは、それを抹殺してもいいのです。しかし、ここが重要な点なんですが、それには、大きな害を避けたいという慈悲心が動機になっていなければならないということです。悪徳を消すには暴力に訴えるしかないと悟った場合は、その悪徳をもっている人間の命を奪ってもよいのですが、その人間にたいして慈悲心をもって、その任務を受けることが条件になります。
ダライ・ラマを宗教指導者と思うから困惑するのだ。彼はそれ以前に政治指導者なのである。そして彼の現在の立場からすれば、合州国の言動におもねるのはやむえない。少なくとも、彼にはスマナサーラ長老のように、George W.を「腰抜け」と論破する自由は存在しない。チベット仏教がもし本当に「ブッダの教え」だったらとっくに滅びていたはずだ。実際にそのようにしてグゲ王朝は滅びた。「グゲ王朝」を聞いた事がない人は、こちらを参照のこと。
「ブッダの教え」は、「つるむ」、すなわち組織をまとめるには本当に向かない。生国においてそれが滅んだのはむしろ当然のなりゆきにすら思える。生のブッダの教えは、組織人にはヤバすぎるのである。王子様に出家されたら王国が持つわけがない。だから、どんな「組織宗教」でも、「出家」は「入寺」に置き換えられている。出家が根本にある限り、ブッダの教えは組織とは相容れない。
にも関わらず、なぜブッダの教えそのものはなかなか滅びないかといえば、元来のブッダの教えは「つるまなくても」継承できるからだ。ブッダの教えとは、あくまでそれぞれの出家者が、それぞれの責任においてつかむもの。伽藍がなければ回らないのであれば、すでにそれはブッダの教えではない。仏教の名を借りた別の何かなのである。
しかしブッダの教えの寛大なところは、こうした「ブッダインスパイヤ教」を邪教として糾弾しなかったこと。「それはブッダが言った事と違うけど、お好きにどうぞ」という感じなのである。おかげで仏教にはカソリック=正教が存在しなかった。ブッダの教えからすれば、正しさというのは自ら悟るものであって、えらい人に教えてもらうものではないからだ。そう。ブッダの教えに「宗」は不要なのである。不要である以上、それは宗教とは呼べないだろう。Agnosticな私にも、本書が割と素直に飲み込めるのはそのためだろう。
とはいえ、私は輪廻転生の概念だけはまだ飲み込めない。私にしてみると、この輪廻転生というのは諸行無常と矛盾するとしか思えないのだ。いや、諸行無常だから輪廻転生するとスマナサーラ長老はおっしゃるのだけど、輪廻転生というとあたかも自分の中の変わらない何かがそのままの形、すなわち無常でない形で現れるように思えるのだ。ゲノムとかデータとか言ったものには確かにそういう性質があるし、相対論はニュートン力学の転生という言い方もできるのだけれども、一つはっきりさせておきたいのは、「自分が自分であることを認識しているもの」、すなわち自我が転生するのかということ。私はこれはないと思っている。私が死ねば私の肉体は輪廻する。これはわかる。私の考えの一部もデータとして転生する。これもわかる。しかし「弾が弾だと認識している」、今これを書いている自分は、この人生限りだと私と考えている。「ブッダの教え」は輪廻転生するけど、ゴータマはもう世界のどこにもいないのと同じように。
しかし、実のところ、輪廻転生、というより死後の世界があるかどうかは、ブッダの教え的には、「アパンナカ」、すなわち問題ではない。ブッダの教えという教科書にあっては、せいぜい「コラム」扱いだろう。スマナサーラ長老が説くブッダの教えの主旋律は、以下にある。
P.286仏教は科学的な教えです。「科学的」とは、どんな人間にも当てはまり、なおかつそれを自分でも確かめられる、証拠があって証拠に基づいた話が出来る。そういうことです。
そう。「自分で確かめられる」。あなたも是非本書でそれを確かめて欲しい。
Dan the Agnostic
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どうやら、ちゃんと体験済みのようだ。
体験していないことは考えられないのだよ。
○さんざんになされた or さんざんなされた
×持ち帰ったって
○持ち帰って
×な私にも
○無信心な私にも (でしょうか?)
こう思うことが大事ではないでしょうか。
仏教ってそういうもののような気がします。
あらゆる問題を,強引に自分の内側に取り込んで消化するような衝動が,仏教の根幹のように思えてならないのです。
これを解決するのが「唯識」という概念です。
元々ブッダは「諸法無我」を唱えてますし。
識の作用によって、自我が生まれ、肉体が滅びると自我も消える。
しかし、阿頼耶識は自己以外の過去の全てを種子として溜め込んでいるので、
これが輪廻転生として捉えられるのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
ユングが言うところの集合的無意識に近いです。
理屈こきには向いてないかもしれませんね。仏教は。かつ科学的ってもんをひっぱってくるのはどうかと思います。対立する概念ではないものの、なじもうとしないものですから。
京極夏彦氏はこのへんの議論が好きみたいですよ。
「日本の仏教」とは、いつものレトリックというか、そう言った時点で「元来の仏教でない何か」という言葉を作っているに過ぎない。
玄奘三蔵が天竺から持ち帰った唯識の教えを、興福寺や薬師寺で連綿と伝承しているのもまた、「日本の仏教」ですよ。
名のあるお寺ならもちろんのこと、田舎の小さなお寺でも、たいがいのお坊さんはその教えに直接間接に触れてよく学んでらっしゃいます。
読書や机上の考察もいいけど、お寺という非日常の空間や時間に身を置いて、お坊さんのお話を聞いたりするのもきっと新鮮ですよ。
はてなブックマークでこの記事を知り、その内容に共感して、コメントします。世の中では、原始仏教は変に難しいとか、いかがわしい物ではないかとか、誤解されていると思います。
「「ふつうの人」には単純すぎて明解すぎたのだ。我々は単純と明解を口で言うほどには好んでいない。」
「「ブッダの教え」は、「つるむ」、すなわち組織をまとめるには本当に向かない。」
という解釈には頷けます。しかし、普通はもっと、何か、大きな期待をし、その結果、間違った方向へと、歪んだ解釈をしてしまうのでは、ないのでしょうか。
貴方の様な頭の良くて、影響力の有る方が、こうした素直な解釈に依る、間違いの少ない仏教を紹介されれば、段々と誤解も解けて、良いと思います。ぜひ、仏教について書き続けて下さい。応援して居ります。


