2007年06月06日 06:00 [Edit]

書評 - 生物と無生物のあいだ

感無量。

読書からこれほど痛みを伴った感動を味わったのは、"Contact"以来だ。


本書「生物と無生物のあいだ」は、分子生物学史であるのと同時に福岡伸一という分子生物学者史でもある。まぎれもない史実(ノンフィクション)なのに、最高の物語(フィクション)を読まされたような読後感。本物の科学者の、本物の経験からしか得られない感動がそこにある。

オビより
福岡伸一さんほど生物のことを熟知し、文章がうまい人は希有である。サイエンスと詩的な感性の幸福な結びつきが、生命の奇跡を照らし出す。
茂木健一郎氏

確かに、文章のうまさは一級品だ。本来であれば科学者にしか味わえぬはずの感動を読者に味わわせる、少なくとも味わった気にさせられるだけでも、福岡伸一の筆がいかにすぐれたかの証拠だ。

しかし、本書は「幸福な結びつき」という生易しいものではない。本書は「生命はなんと素敵で尊いのだろう」という、真実なのかも知れないがあまりに激しく連呼された故に陳腐化してしまったおはなしの真逆にある。本書が呈示する生命とは、実に痛々しい存在であり、その神秘を解明する科学者もまた痛々しい存在にならざるを得ない、ということである。

P.166
秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

そう。この瞬間にもあなたも私も絶え間なく壊れ続けているのである。生きるというのは賽の河原の石積みなのである。その痛みを、著者は少しも和らげずに読者にぶつけてくる。それも、読者を著者に感情移入させ、著者が味わった痛みがそのまま読者に体感されるような形で。

著者たちはGP2というタンパク質が膵臓において重要な役割を果たしているのではないかとあたりをつけ、それをコードしている遺伝子の特定とアミノ酸配列決定にしのぎを削る。

p. 237
同着だった。お互いの仕事の正しさが確認された瞬間でもあった。

ここまでは、多くの科学物語に共通したレトリックだが、著者の真骨頂はこの続きだ。

ヒト・ゲノムの全貌が明らかとなった今となっては、それはジグソーパズルのささやかなワン・ピースでしかない。

そう。あれだけ苦労して手に入れた成果も、客観的には取るに足りないことだと「書き捨てて」いるのだ。"No Second Best"というのは科学の世界における常識であり、本書にもそのことは何度も登場する。一つの輝かしい研究成果の裏で、いったいいくつもの研究がそれにより無に帰したのだろう。科学者になるというのは、研究成果を得るということのみならず、他の科学者に先んじられることに耐えるということでもあるのだ。それは科学者でなくてもおぼろげに理解しているだろうし、科学者であれば体得していることでもあるのだろうが、自分の身におきたそれを一般書に逃げも隠れもせずに書くのは誰にでも出来ることではない。

たいていこういう「失敗談」は、他者の失敗が語られるか、成功した者が成功した者の余裕を持って、起承転結の承として語られるのかのどちらかだ。しかし、著者はそのどちらでもない。自らの「不発談」を不発として冷徹に書くのだ。何という痛さ。何という勁さ。

この後の話は、さらに圧巻だ。筆者は苦労の末、このGP2遺伝子をノックアウトしたマウスを手に入れる。重要な遺伝子をノックアウトしたのだから、当然マウスには障碍が出るはずだ。そしてその障碍を観察することで、GP2が何をしているかが明らかになる。その結果は....

何も、起きなかったのだ。

p. 254
私はステージを前後左右に動かして視界をあらゆる場所へ次々と移してみた。核。ミトコンドリア。完全な球形の分泌顆粒。細胞の表情は静かで均一だった。異常はどこにも認められなかった。顕微鏡下、円形の視野に広がるGP2ノックアウトマウスの細胞はあらゆる意味で、まったく正常そのものだった。
GP2ノックアウトマウスは、GP2を持つ普通のマウスと何ら変わることはなかったのだ。苦労の末つきとめた容疑者は、シロだったのだ。

並の胆力の持ち主であれば、ここでノックアウトされるだろう。著者が本当にすごいのはここからだ。このさらなる不発にあたって、著者が何を感じ、何を考えたのか、それは是非本書を手に確認して欲しい。

動的な平衡とは、著者が指摘する生命の本質であると同時に、著者の心のありさまでもある。その痛さと強さに、私は心を打たれずにはいられなかった。科学者として生きるというのは、これほどの痛みを伴い、これほどの強さを要するのか、と。

昨日と同じような一日を再び迎えるということ。ただそれだけのことが、本書を読んだ後にはなんと感動的に感じられることか。この痛く静かで力強い感動を、独り占めせずに本に著した著者に、

ありがとう。

Yet Another State of Dynamic Equilibrium called Dan


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この記事へのコメント
この瞬間にもあなたも私も絶え間なく壊れ続けているのである。

もののあはれ?・・・壊れいく自分を楽しみたいもの。

昨日と同じような一日を再び迎えるということ。ただそれだけのことが、本書を読んだ後にはなんと感動的に感じられることか。

この部分に感銘できる人は結構多くいるんじゃないでしょうか?おいらもその一人です。おばあさんが朝太陽に合掌。

「無事に終わった昨日と、無事にあける朝に喜ぶ」

まあ、最近ですけどね。

Posted by blog49 at 2007年06月06日 08:26
いったいいくつ(も)の
Posted by あ at 2007年06月06日 18:21
意伝子
遺伝子
Posted by あ at 2007年06月06日 18:23
s/味わせる/味わわせる/
Posted by passer-by at 2007年06月06日 18:55
「あ」さん、passer-byさん、
ありがとうございました。
Dan the Typo Generator
Posted by at 2007年06月06日 23:21