2007年06月21日 14:45 [Edit]

受け取ることの重要性

宋さん、おつかれさまでした。

失うことの重要性 (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン)
「傍目八目」は今月でもって終了させていただきます。

心理学者の研究によると、同じ程度の損得に対しては、得る時の快感よりも、失う時の不快感の方がはるかに高いそうです。つまり、我々の本能は失うことに対して、過剰に反応するのです。

心理学者に調べて欲しいことが、実はもう一つあります。

得られるべきものが得られないことと、与えたものが受け取られないことと、どちらが不快なのか、ということです。

研究が大変なのはわかります。損得「感情」は、単体の被験者でも観察できますが、こちらの方は社会を観察する必要があるからです。だからこそ、知りたい。

素人の私が憶測するに、前者の「得られない」よりも、後者の「受け取られない」方が不快は深いのだと思います。

カイン - Wikipedia
ある日2人は各自の収穫物をヤハウェに捧げる。しかしヤハウェはアベルの供物を喜び、カインの供物は無視した。

そしてカインはアベルを殺し、ヤハウェはカインを追放するのは信者でなくともご存じのとおり。アベルは命を失い、カインはヤハウェの恩寵を失い、そしてヤハウェはカインもアベルも失う。この件で(教訓はさておき)何かを得たものは、誰もいません。

ヤハウェは期待どおりのものを得られず不快となり、その結果受け取りを拒否されたカインが、ヤハウェではなくアベルを逆恨み、というより「斜め下恨み」した結果の悲劇です。

この悲劇の「面白い」ところは、カインの恨みの対象が、受け取りを拒否したヤハウェではなく、受け取ってもらえたアベルであることです。そして旧約聖書の世界に限らず、こうした斜め下恨みの構図は、現実世界でも数多く見られます。同じだけ成果を上げたはずの同僚の評価があなたのそれよりも高かった場合、あなたが恨むのは会社でしょうか、それとも同僚でしょうか。

日本ではよくバブル崩壊後の10年は、「失われた10年」だと言います。確かにそうかもしれませんが、しかし、それは必要だったと思います。多くの人々が同意しないかもしれませんが、この10年間で日本の社会は透明性を高め、環境に目覚め、国際化が進み、経済指標では表現できない社会の高度化を成し遂げたのです。

にも関わらず、居場所に不安を持つ人が減るどころかむしろ増えているように見受けられる、それも日本だけではなく世界中で増えているように見受けられるのはなぜなのでしょうか。

そのヒントが、上の寓話に隠されているように思います。「ヤハウェ」の気持ちは、カインとアベルの時代とは比べ物にならないほど移り気です。今日は穀物が喜ばれても、明日は羊が喜ばれるかも知れない。カインが不満であるだけではなく、アベルも不安なのです。それ以前に、これだけモノがあふれていれば、受け取る方のありがたみだってどうしても減ってしまいます。何をあげようとしても、すでに別の誰かがもっといいものをあげていて、あなたの供物は「もういらない」と言われるような気がする。あなた自身を含めて。

失ったものは自らの力でとりもどせます。しかし受け取ってもらえないものは、どうすれば受け取ってもらえるようになるのでしょうか。今日の羊飼いは明日の農夫となるしかないのでしょうか。羊飼にしかなれないものは、農夫を恨んで生きるしかないのでしょうか。

「神の見えざる手」は、誰もが羊飼いから農夫に、そして農夫から羊飼いになれるということを前提に動いているようです。しかしそれは本当なのでしょうか。

それが、知りたい。

Dan the Perpetual Loser


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(via 404 Blog Not Found:受け取ることの重要性) 日本ではよくバブル崩壊後の10年は、「失われた10年」だと言います。確かにそうかもしれませんが、しかし、それは必要だったと思います。多くの人々が同意しないかもしれませんが、この10年間で日本の社会は透明性を...
拠ってたつものがないことの不安(Re: 404 Blog Not Found:受け取ることの重要性)【atsushifxの七転八倒】at 2007年06月21日 23:00
この記事へのコメント
与えたものが受け取られないというのは結局得られるべきものが得られないことと同じなのではないでしょうか?

得られるはずのものが得られなかった不快感と失われるはずのものが失われなかった快感ではどちらでしょうね。一時的には後者の気がしますが、長期的には前者ではないかと思います。

得られた快感は持続しないが失った恨みはなかなか忘れない、そう思います。
Posted by aoi at 2007年06月26日 19:50
得られるべきものが得られないことと、与えたものが受け取られないことと、どちらが不快なのか→後者の方が深いのでしょう。しかし、与えることができない人も多いという感じがして深いが狭いというイメージを持ちます。
「神の見えざる手」はマラドーナのように得られるべきものが得られ、みなに与えることができる人のみに働くとかなんとか・・・。

行動経済学が明らかにしようとしているのはそこいらなんでしょうが・・・心理学は・・・文学・・・共感できるもののみ有効とか。

我々の本能は失うことに対して、過剰に反応するのです。 健康なんかはこの最たる例なんでしょうか?
Posted by blog49 at 2007年06月21日 17:17