2007年08月06日 01:30 [Edit]
書評 - 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?
献本御礼。
この夏、一番怖いノンフィクション。肝試しが好きな方は、是非。
ただし、どう怖いのかは解説が必要かも知れない。なにしろ著者自身もその怖さに気がついていないふしがあるからだ。
本書〈脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?〉は、ロボット研究者という工学者である著者が、著者の研究の過程でたどりついた結論、受動意識仮説に関して広い観点から考察、検証した一冊。
それでは、受動意識仮説とは、何か。
我々のほとんどは、何かをする時に、まず「何かをしよう」と意識し、それを行動に移すのだと考えている。これが、能動意識仮説。ところが、最近その逆と考えた方がつじつまがあうという研究成果が多く出されてきた。まず行動があり、意識はその後で「実はそうしたかったのだ」と思い込むというものだ。これが受動意識仮説である。
この受動意識仮説を支持する研究成果に関しては、本書の参考図書の一つでもある「進化しすぎた脳」もあわせて呼んでいただくとして、とりあえずここでは受動意識仮説が正しいものと仮定しよう。
すると、どうなるのか。
「私」は、不要となるのである。
「我思う故に我あり」ではなく、「我あり故に我思う」のであれば、「思う我」は不要というよりも「ある我」があれば自然発生するというわけだ。
「私」が存在しなくても、あたかも「私」がその中に存在するように見えるロボット、チューリングテストにパスしてしまうようなロボットは作れそうではないかというのが、本書の主題の一つである。著者の他の本はまだ未読なのだが、タイトルから察するに、他の本も同様の主張がなされているのだと推察する。
しかし、本書ではさらに一歩踏み込んだ主張をもなされている。
自由意志は存在するか、という設問に対する著者の仮説である。
著者は、なんと自由意志は存在しない、という立場に立っている。
これは怖い。実に怖い。なにしろ、怖がっている主体であるはずの「私」は存在しないというだけでも怖いのに、その怖さを避ける自由すら存在しない、と言っているに等しいのだから。
しかし、この仮説は、自由について考え抜いた人なら、早かれ遅かれ一度はたどり着く結論だとも私は思う。事実私自身、以前こう書いている。
404 Blog Not Found:自由の反対は?我々は、明日の株価を予測できない一方で、百年後の日食をほぼ正確に予測できる。仮にある時点での宇宙の状態全てと、完璧な物理法則が手元にあったら、明日がどうなるのかはすべて予測が出来るのではないか?これを「ラプラスの悪魔」と呼ぶが、これに対しては少なくとも数学的には不完全性定理が、そして物理的には不確定性原理が、人がラプラスの悪魔になれないことの証明となっている。完璧な物理法則はとにかく、そのベースとなるべき完璧な数学定理を作る事はできないし、宇宙の状態を完璧に観測する事もできない。個人的には、この二つこそ20世紀最高の発見だと思う。
しかし、これらも決定論への完全な反証にはなっているようでなっていないのである。現時点でわかっている事は、「仮に宇宙が決定論的であったとしても、その決定を『盗み見る』ことはできない」ということであって、「はじめから決定していない」ことにはならないのだ。「明日どうなるのかはすでに決まっている。しかしそれを知る事は、明日が来るまで決してわからない」というのは二重に空しい。これでは明日の事を考えるのはアホもいいところではないか。自由というのは演技に過ぎないのだろうか。
これと全く同様の主張を、本書は第一章で済ませてしまう。本書は工学者の筆によるものらしく、はじめにバーンと結論を書いた上で丁寧に各論を紹介し、それを検証していくというスタイルを取っているので、ネタバレ的にこう書いても許されよう。
私がこの仮説を思いついたとき、まだ私は18歳かそこらだったと思う。以後この考えはちょくちょく頭をよぎる。しかし私自身はこれを「数ある仮説の一つ」として、それ以上考察することを心のどこかで封じてきた。それが意味するものを考えると、際限なく怖い考えになってしまうからだ。
しかし、著者にはこの考えがまだ怖くないようだ。私--とりあえず私が存在すると仮定して--が思うに、それはまだ著者がこの仮説を「広く」検証しても、その意味するところを「深く」考えていないからである。たとえば、こんな感じ。
p. 59それは単なる現代科学の考え方ではないか、とおっしゃる方がおられる。そのとおりである。現代科学の考え方のうち、古典力学の枠内で複雑系の考え方を考慮し、それに意識の無意識に対する受動性を重畳すれば、決定論と自由意志の関係をそれなりに説明でき、私はそれで十分だと考えている、ということである。
そうなのだ。著者は「心」も「自分」も脳というドーナツの穴にすぎない、と言っておきながら、実にカジュアルに「私」という一人称や、「考える」という自動詞を使っているのだ。もし本当にそれらが空(くう)であるというのであれば、こうも簡単にこれらの言葉を使えるだろうか。工学者的にはこういう形での「自分棚上げ」はOKなのかも知れないが、私はこの問題から目をそらすことが出来ず、それゆえ「受動態仮説」までは認めても、「自由意志の不在」は棚上げし、公理的に「私は存在する」ことにしている。
なにしろ、「私」の存在は、現時点においては「神」の存在以上に人類社会の根幹を成しているのだ。法律はその好例で、そこは自由意志の存在をあまりに当然のこととして仮定している。しかし決定論を認めてしまえば、実は法律は不要、というより「物理」という理がすべて「あるがまま」にしてくれるのだから、「倫理」は余計ということになる。そこには「死」はあっても「殺」はない。その人は殺されたのではなく 死ぬべき定めにあったというのであれば、刑法など不要ではないか。
三秒考えただけでも、これだけ怖い考えになるのだ。その意味において、決定論は軽々しく扱う話題ではなく、それ故に考えるのであればまさ夏休みにふさわしい話題とも言える。
私自身は、著者が正しい可能性もあるという立場だ。しかし、「私」という補助線なしに世の中を再構築できるほど完備した理論体系もまた持ち合わせていない。今はとりあえず「私はある」とアプリオリに仮定しておいた方が楽だからそうしている。しかし、「私」というのは、今や「神」以上に強い「信仰」でもある。本書がこうもカジュアルに出版されたのも、日本が「異教徒」に対して寛大な国であることの傍証かも知れない。
私は著者のように「脳天気」にはとてもなれないが、しかし「不可知決定論」の方はとにかく、「受動意識仮説」に関しては、もはやスルーできないところまで研究が進んでいる。それを知るためだけでも本書を読む価値はある。と私は思う:)
Dan the Slave of Destiny -- According to the Author
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もっと驚くかもしれませんよ。
「…「「「今自分は「○○だなぁ」って考えてるんだよな」って考えてるんだよな」って考えてるんだよな」…」
、という思考のループに陥る時があった。
人は何らかに対し常に考えたり意識したりしているわけで、
何か思考している自分を自覚した時点で、"自覚した"という意識に対してまた自分は気づく事ができ、それが次々に続く。
この、対面した2枚の姿見の間に立ったような感覚は不思議ですね。
目の前の光景ってなんなんだって思う『これ』は何だ?
「私が存在する」というのは妄想概念から始まっていて、よく観察すると「私」など存在しないという考え方があります。
檀さんもご存知のスマナサーラ氏のテーラワーダもその一つですよね。
「私がいる」というのは妄想だから、私がいないことに気がつくことは、怖いことじゃないのだというのです。ただ単に事実に気がついただけと。
「私を捨てる」のは怖いかもしれませんが「いないことに気がつく」のであれば怖くないのかもしれません。
「私がいない」というのを宗教学者が言う分には、スルーしちゃいそうですけど、養老先生や、科学者が言い出すと、ちょっとびっくりしますよね。
人間はそれで幸福の半分を失ったのではないかという仮説。
動物はその存在を疑うことはないですから。
ちょっと苦手です。
数学または計算で厳密に計算できない世界がたくさんあるのだから、
(πは式で表せるのであるとしてもいろんな無理数とかシミュレーションとか)
そこにヒントがあると考えてもいいと思う。
物理構造(たんぱく質などによる複合的構造)から生成される世界は
本質的にコンピュータを超えてると思う。
他にも考えようはあると思うけど・・・。
コンピュータに思考を制限されすぎでは?
チャイティン(基礎論の専門家でIBMの研究者)の日本語の翻訳の本の
どれかでも、「CPUは不完全性定理を超えている(関係ないだったかな)」
と言うような記述があったと思います。
いい例えですね。
ただ、ドーナツでなくて15パズルの穴ってほうがより適当かも。
15パズルは穴がなければピースを動かせない。
ピースを動かしてパズルを完成させる、と見るか。
穴が動き回って環境(パズル)に影響を与える、と見るか。
穴でも良いじゃない。穴から生まれてくるのが人間だもの。
厳密に定義できないのでは、自由意志が在ると言い切れないのは当然だと私は思います。
ただぶっちゃけ、決定論的立場でも法律が存在することは擁護できます。
>刑法など不要ではないか。
についてです。自由意志がないと認めたとしても、社会の治安の観点から再犯防止のため収監する、というのはアリ。
Amazonの
内容紹介より。
>「私」とか「自由意志」は幻想にすぎない…
>…なんて言われたら驚きますよね?
いつのころからかマスコミの連中がメディアで
しょっちゅう言ってるからちっとも驚きませんね。
またかよ、ってかんじ。
結局他人の自由はみとめたくない(自分も制限されてるから)
っていう動機だとおもうのよね。この手の話って。
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
コピペでーす。
じゃあオレも思い出し。
「人間は流れる川の渦である」ウィナー
>「異教徒」に対して寛大な国であることの傍証かも知れない。
と言われるけど、「我」が存在しないというのは
仏教の根本原理のはずですけど。
「怖いから考えるのを止め」られるなら、これはもう十分に「自由」だと思いますが。
「私」という語があるのは、その言葉が担うしかない事態が確かにあるからでしょう。
ただし、脳の中を探しても、あるのは「脳」だと思いますが。
根源から演繹的に見るか、現象から帰納的に見るかで世界はまるで異なる。
俗世に生きる我々はすべて現象(経験)からの「みなし」で生きている。
何でも自分で考え、選んでいると。
しかし、煩悩の奴隷である限り自由ではないというのが唯識の仏法。
最初の1行以外あまり本題に関係ない話だと思いますが。
>S.O.
この本の「我」が存在しないという部分が仏教の根本原理なのは偶然でしょ。それを根拠に「この国は異教徒に寛大ではない」とでもおっしゃりたいのですか?弾さんは普通にキリスト教国と比べてこういった本に非難があまり来ないのは日本の寛大さだと言っているような気がしますが。進化論論争のように。
まぁおっしゃりたいことも分かりますが、基本的には揚げ足取りですよね。
私が言いたかったことはこのエントリーに書かれている本書の内容が
「異教」ではないと言う事です。
>「心」も「自分」も脳というドーナツの穴(=空)にすぎない
というのも極めて仏教的です。
まあ古代ギリシャの哲学者が考えてたことが近代の実証的自然科学と
合い通じる点があるという程度の事ですが。
それとも弾さんはキリスト教徒なのですか?
私は同じく「自由意志はない」っていう立場です。
思考や行動の根源には化学反応がある、では、その化学反応はなんで起こるのか?
と考えてそれをたどっていったら、それは外界からの刺激(あるいはその蓄積)か偶然的な要素しかなく、
しかもそれは意識の届かない領域においての現象。
そして、その化学反応が伝わって発現した自分の行動を追認識することで、「今私は自由に行動した」と認識しているだけなのではないでしょうか。
例えば、被験者に右手か左手を自由に上げてもらう実験で、脳に磁場をかけると、そのあげ方に偏りが生じるそうです。
それなのに、被験者は「自由に選択した」と確かに思っていたとか。
↓
いわば、「自由(すなわち、最もベストに)に行動すること」
それ自体が「決定論的に行動していること」と同義なのかもしれません。
その意味で、もし自由意志というのをシンプルに「自分の思い通りに行動できる」と曖昧に定義するならそれは存在するといってもまあ間違いではないですが、
まるでこの世の法則を超越したような存在として脳を捉える考え方にははっきりNOといえると私は考えています
本entry中で「刑法など不要ではないか」と締めている行ですが、刑法ができることも「決定されている」という決定論はダメですか?
それに、これが無い(不要)となると、死刑によって「死ぬべき定めにあった」人々はどうなりますか?
磁力は金力で打ち消せるかもよ。
短編集の表題作が、これっぽいテーマでした。 オヌヌメ
、
自由意志はないんでしょうね。
自分の体(物理体)があっての意識だし、自分の体をはなれて
意識はないでしょうし。
意識だけが独立してあると考える方々には怖いのかもしれません。
そんなに、怖いかな。
OSだとしたら、デスクトップのガジェット程度の
もんじゃないかな。
そうなると、そのコンピュータに指示を下している
操作者は誰か、と言うことになるわけですが。
たぶん、それは自分自身じゃないんだと思います。
根本的な命令やルールを与えてるのは遺伝子だし、
個々の行動に必要な実際の信号を出しているのは
周囲の環境とか他の人間じゃないかな。
結局は、個体同士が相互に指示を出し合いながら、
並列処理してるようなもんだと思いますよ。
そうなると、環境(自然環境と文明)だけが真に
外部的な要素で、遺伝子によってあらかじめ意図
されていない多様性ということか。
夏休みっぽい話題だなあ。
自由意思を信じる方が建設的であるのは事実である。
人間はかならず言葉のイメージの影響を受ける。
言葉の意味だけを純粋に考えることは、絶対に不可能である。
運命論の持つイメージは、すなわち正当化である。
感情は論理的な時制を無視する。
努力する気になれないのを運命であると無意識のうちに感じてしまう。
不確定性原理によって、未来の運命は知りえないにもかかわらず。
「空」があるから「有」が存在できるわけです。
DNAの塩基のたんぱく質合成は「空」である型から生まれます。
「空」は存在しない、意味がないと認識するから怖くなるのでしょう。
反物質は存在するか?というテーマにもつながりそうですね。
「有」が無ければ「空」も存在しません。
「私はいない」→「有ではない」→「空が成立する為には有も必要」
