2007年08月08日 10:30 [Edit]

書評 - 般若心経は間違い?

またも献本御礼。

私が今まで読んだ中で、私が最も納得が言った般若心経本。


本書「般若心経は間違い?」は、「仏教原理主義者」スマナサーラ長老による、般若心経解説、というより批判。なにしろ、

404 Blog Not Found:書評 - 仏教は心の科学
少なくともスマナサーラ長老にいわせれば、「死者の書」もガセビアだ。

という人である。この人の手にかかると、日本で最もなじみの深いお経といえども容赦がない。

pp. 85-86

 それにしても、『般若心経』は、作品として矛盾だらけでガタガタで、前後がつながっていません。

[中略]

 師匠がしっかりとした真理を語るなら、弟子たちが訂正する必要はないのです。弟子に守ってもらう先生は、「先生」と呼ぶに値しません。「間違った教えを教える師匠たちは、弟子に守られているのだよ」とお釈迦様もおっしゃっています。

という具合である。

それでは、般若心経のどこが「弟子に守られている」のか。是非本書で確かめて欲しいが、そのうち二つは特に「これだ!」と感じたので、要約という行為が「般若心経」の二の舞になるのを承知で紹介してみる。

一つは、色即是空は正しくとも、空即是色は正しくないという指摘。

p. 61
「りんごは果物である」というのは正しいのですが、「したがって、果物はリンゴである」というのは間違いなのです。

これは、確かに目から鱗。色=空ではなく、色⊂空という主張。そして、それ以外の「空」なるもの、「受想行識」も、「亦復如是」とひとからげにしてはならず、一つ一つ「受即是空」「想即是空」「行即是空」「識即是空」ときちんと省略せずに「納得」させていくのが肝要だと解く。テーラワーダ仏教では、これだけではなく、「一切行は空である」を観るのに、42の立場を駆使するのだとか。

さらに重要な指摘が、空と無は違う、という指摘。般若心経では「空即是色」という「勘違い」をさらに拡大解釈して、「無眼耳鼻舌体意」から「無智亦無得」と、イデオンの最終回みたいな結論を導いているけど、これこそ勘違いもいいところなのだと。

pp. 81-82
宗教に興味を持つ人は、何かしら苦しんでいるのです。だから宗教は、苦しみに対する答えを出さないといけないのです。「そんな苦しみなんかはないんだよ」と言っても、それは答えになりません。だから私が批判しているところは、「空論を語るのはかまわないけれど、語ると、私たち一人ひとりがどうするべきか、ということが言えなくなってしまうのではないか、ということです。つまり「あなた方はやり過ぎだよ」と言いたいのです。

いかがだろうか。

般若心経に私が感じていた一番の違和感は、病をなんとかしてもらおうと病院に行ったら、体を焼却炉に放り込まれて、「これであなたの体もなくなったのだから、病もなくなった」というような感じだった。たしかにそれは「間違って」はいないけれども、ましてや「正しく」はない。しかし、私はこれほどあっさりと「違和感」を言語化できなかった。これだけでも、本書は読む価値がある。

著者による他の本と同様、本書は「それではどうするべきか」というところまで書いてある。実はこの点に関しては、まだ私は納得しているわけではない。般若心経が間違っているからといって、テーラワーダ仏教が正しいとしては、それこそ「空即是色」と同じ間違いを繰り返すことにもなる。

おそらく、これは釈迦もよしとするだろう。「偉い人がそう言っていたから」という論法は、おそらく彼が最も軽蔑する論法でもあるのだから。

とはいえ、「偉い人がそう言っていたから」「般若心経に書いてあったから」「聖書にそう記してあったから」というのは、もっとも便利な論法でもある。仏教が永遠のマイノリティであるのも、それを考えれば納得が行く。なにしろもっとも便利な論法を否定しているのだから。

とはいえ、「修行」という「手法」は、数ある「宗教」が唱えている手法の中で唯一私が受け入れかつ実行している手法でもある。どうやって修行するか、そこから何を得るかというのは、めったに合致することはないのだけれども、その過程そのものに意味があることを強く受想行識している。

生は空ではあるが無ではない。

それがわかるのは、なんと心強いことか。

Dan the Agnostic


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ITをもっとわかりやすく! ワイビート の高松です。 先輩社長に・・・ 「座禅してみたら?落ち着くよ?」 と、さそわれて座禅に行ってきました。 ・・・なかなかよかったです。落ち着きました。 (この話は後ほど!) 最後に「般若心経」というお経を読みます...
般若心経を読んでみました。【ワイビート社長??高松洋子の人生をユカイにしちゃうぞブログ】at 2008年09月27日 10:27
佛教關係なら宮元啓一が御薦め。時々變なことを云ふけれども、基本的には素直に原典を讀み解いて行き、矛盾の少い解釋を示してゐる。佛?畑の人ではなくて印度希哲學畑の人。下記に讀んだ本を挙げる。順番は以下を推奨する。吾が讀
平成19年08月09日【普請紀】at 2007年08月09日 23:40
この記事へのコメント
誰がどんなことに共感しようがそれは間違いじゃないでしょう
Posted by T at 2009年11月27日 07:09
空(くう)とは、存在するけど、「色」(しき)がついていないモノです。
ここで言う色とは非常に広い意味を持ちます。

たとえばものの見方や考え方、これも、色です。

たとえば歯ブラシがある。
これを歯ブラシとみる人は、歯ブラシである、という「色」に染まった見方をしている。
その実態はもしかすると台所を掃除するための掃除道具かもしれない。
しかし、掃除する人がこれは歯ブラシではなく掃除用具だ、という場合、
その人は掃除用具であるという「色」に染まった見方をしている。

偏見のことを色眼鏡をかけて見る、というけどこの「色」に近い。
ただし、偏見ではなくまっとうな見方とされている見方も一つの「色」です。

あるがままにあるがままを見る受け止める。これが空の考え方です。

各人が歯ブラシだ、いや掃除の道具だと見ているモノは、
じつはそのままの「そのモノ(歯ブラシにも掃除用具にもなりうるモノ)」である。

世の中は無常であり常に動いている。にもかかわらず目の前の現状に執着し、あるいは自分の、見方、考え方、感じ方などに執着するところから
煩悩が生まれ、四苦八苦が生まれる。お釈迦さんが言ってるのはそういうことです。

Posted by ひであき at 2009年11月20日 15:34
私見ですが空を素粒子のようなものと考えると色即是空、空即是色で正しいと思います。
リンゴの喩えは浅知恵過ぎるかと。
Posted by   at 2008年02月05日 21:45
経典のほとんどは
お釈迦様が言ったことではないよ
それジョーシキ!
Posted by   at 2007年08月23日 20:08
>色即是空、空即是色

そもそも釈尊はそんなこと仰ってない
仏教の名を借りた新興宗教の教典が般若心経
Posted by at 2007年08月20日 23:13
色即是空、空即是色は一対で成り立つ

その片方を否定すれば、その一方も否定する
こと

ということは、仏教の根本原理を否定すること
Posted by at 2007年08月11日 07:29
よくある間違いでも正しいものでもなく、正解ってのは無いよ…的なもんじゃないんですかね。
Posted by   at 2007年08月10日 01:48
nullとenptynessの違いです
無は絶対無であって、そこに何かが生起する余地もない
空は相対無であって、そこに何かが生起する余地がある
空は「生起の場」であって、そこに色(物質やら感覚やら)が現象するわけです
空が欠けたら色が現象できない
現象がないならば空ではない

だから空即是色、色即是空なのだと思います
Posted by 9hands Circles at 2007年08月09日 19:57
>>仏教の根本がわかっていないのではないか。


自称「わかっている」人が多いから、仏教はカオスなんですね。
Posted by a at 2007年08月09日 19:46
上座部仏教VS大乗仏教
C VS JAVA みたいなものでしょうか?

個人的には維摩が好きですね、坊さんケチョンケチョンにしちゃうところが
ミソ。
Posted by 仁 at 2007年08月09日 07:38
 色即是空、空即是色は、諸行無常を両面から説明している言葉であり、一方のみが正しく、一方は間違っているということではない。仏教の根本がわかっていないのではないか。

 この世の全ては、現象、物体、心もふくめて常に移り変わっていて、実体がない「空」であるから色即是空。

 しかし、「空」でありながらも、実際には何も無いという訳ではなく、現に現象、物体、心の全ては存在するのも事実で、だからこそ苦しみも生まれるから空即是色。
Posted by at 2007年08月09日 04:44
私は小飼弾様の見解もありだと思います。
私自身の見解を述べると、仏教の全ては問いであり、教祖が弟子に伝授するのではなく、他者への問いを発しているのではないかと感じます。
つまり、問いであって答えではないので(答えは自分が考えるもの)否定するのも良し、小飼弾様の様に違和感を感じそれを追求するのも良し、ではないでしょうか?
ただし、お釈迦様も「鵜呑み」だけはして欲しくないと思います。
本当にお釈迦様が望んでいたのは、「私を崇めろ」ではなく、カーネルソースを公開するからヴァージョンアップして欲しいということなのでしょう。
Posted by 未記入 at 2007年08月08日 13:58
その過程そのものに意味があることを強く受想行識している。→朝日に手を合わせる、あるいは必ずお経を唱えるばあちゃんを思いうかべました。

無を理解していない人→無を理解できる人(がいる)・・・ん〜ちょっとわからないけれど、答えの出しにくい問題にきちんと結論を出している点は評価できますね。

なにしろもっとも便利な論法を否定しているのだから。→そこいらあたしが仏教のよいところではないでござんしょうか?葬式でもほとんど宗教を意識しませんし、新興宗教以外の方はほとんど祭りに喜んでいく。その懐の深さは神道以上かと。
Posted by blog49 at 2007年08月08日 13:51
> 生は空ではあるが無ではない。
だったら、「心は空ではあるが無ではない」もアリではないですか?
Posted by 穴子 at 2007年08月08日 13:22
無を理解していない人が書いた文章としか思えない。
山にこもって瞑想してこい。
Posted by cyberbob:-) at 2007年08月08日 11:14