この設問を考察する前に、まず将棋とブログの違いを明白にしておきたい。

人脳ブロガー vs 電脳ブロガー*ホームページを作る人のネタ帳
今回の記事で思ったのは、いかにスパムブログを作るか?ではなく、いかに人間らしい『発想で』記事を書けるようにするか?について考えてみたい。

将棋とブログの一番の違いは何か?

それは、難易度ではない。

ルールが存在するか否か、である。

将棋には、「王を詰んだものが勝ち」という厳密なルールが存在する。厳密とはどういうことかというと、プログラムで勝敗が判定できるということだ。厳密なルールが存在するので、そこから「先手ないし後手に必勝法が存在する」ことも証明できる。

ところが、ブログにはそれがない。というより、ルールは読み手の数だけ存在し、その上個々の読み手のルールも日日変わっている。ここで私は「ホームページを作る人のネタ帳」の中の人、Yamadaさんが「アフロ」と読んでいる電脳ブロガーを、λ calculusに敬意を表して「ラムダブロガー」と呼ぶことにするが、ラムダブロガーの親は、まず彼女に勝利条件を教える必要がある。

もちろん、ここで「厳密な定義」を与えることは不可能ではない。「アクセス数最大」だとか「はてブ数最大」だとか。前者の方は、まさに今のsplog(スパムブログ)がやっていることで、こういう「勝利」を「ブログの勝利」として(sploggersを除いて)我々が認めないことは明らかだ。

それでは、「読むにたえうる」ラムダブロガーは不可能か、というと、私は可能だと今では考えている。それはなぜかというと、我々はブロガーに対する要求として、将棋のように「一般的かつ厳密な勝利条件」を定義することは不可能でも、「あの記事をどう思った」という「個々の『試合』の結果」を伝えることは可能だからだ。

我々は、「何が面白い」かを定義できなくても、「どれが面白い」かは表明することが出来る。

これを入力として使えば、ラムダブロガーを「学習」させることは充分可能なのではないか。

ラムダブロガーに必要なもの、それは「愛」と「返事」である。

返事の方はとにかく、「愛なんてプログラムできねー」と思っている方、それは甘い。愛に関しては、すでに故・松本元が「科学的に定義可能かつ一般人にも納得が行く」愛の定義を提示している。

愛は脳を活性化する p. 82
「愛」とはこうした関係欲求における価値表現である。つまり、愛とは人との関わりを求め、人の存在をそのまま受け入れるための価値の尺度ということになる。そしてわれわれは、愛をもつためには、自分自身が愛をうけた受けた経験をもってそれを学習し、脳内にそうした回路を形成していかなければならない。

これに則ってラムダブロガーのために評価関数を作り、彼女に経験を積ませ--愛を育ませということは、すでに可能だと思われる。実際松本先生はそれを実践しようとなさっていたようであるが、惜しくもその半ばで亡くなられた。

それでは、竜王になれる電脳棋士と、アルファブロガーになれるラムダブロガーのどちらが先に誕生するだろうか。

それはやはり前者だと思う。前者の方が簡単だからではない。前者の方は、すでにそういう存在を欲するという段階まで来ている。すなわち「親となりうる」人の数が充分いるのに対し、後者の方にはまだ「親となりたい」人の数が充足していない。とりあえず既存の、ウェットウェアのブロガーで足りているのだ。

現在のsplogがラムダブロガーになれない理由は二つある。経験がないこと、そして学習能力がないことである。splogにトラックバックしたりコメントする人がいるだろうか?よしんばそれらがあったとしても、現在のsplogにはそれを上げる能力はない。仮にあったとしても、削除されるのがオチだ。

しかし、今のsplogにその二つがないからといって、それはラムダブロガーの実装可能性を否定するものでは全くない。ただ、今はその親になりたいという人はそれほど多くない。それでも「ニジゲン」の台頭を見れば、それがクリティカルマスに達する日はそれほど遠くないようにも思う。ラムダブロガー脳を持ったエロゲーは、死人が出るほど売れるだろう。

ウェットウェアに出来ることがハードウェアとソフトウェアのコンボに出来ないとする理由は、何もない。そして、私はラムダブロガーがいつかは誕生することを確信している。

出来れば、生きているうちに彼女の誕生を見てみたいものだ。

Dan the Prey of Lambda Bloggers to Be Born