2008年01月18日 05:00 [Edit]
人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う - 書評 - 死刑
本書「死刑」は、死刑囚によって殺された被害者の遺族でもなく、死刑囚を逮捕した警察官でもなく、死刑囚を起訴した検察でもなく、その死刑囚を弁護した弁護士でもなく、その死刑囚に死刑判決を下した裁判官でもなく、その死刑囚を看取った看守でもなく、もちろん死刑囚でもない、死刑に際しては一部外者である著者が、3年間かけて死刑の当事者たちを訪れ、その言葉を集め、悩んで考えた「ロードムービー」。
目次死刑の部外者として、ここまで死刑に肉薄した本は今までなかっただろう。そしてこの国が民主主義を標榜している以上、我々は死刑の部外者ではあっても死刑と無関係というわけには行かない。ましてや裁判員制度がはじまれば、それを通じて死刑に対して当事者となる確率も高くなるだろう。まずは我々に代わって死刑を「見て」くれた著者に感謝したい。
本書には、何度も「本質ではない」という言葉が登場する。それは決まって死刑というものの一側面を描写した「スナップショット」の後に登場する。
P. 206この設問に対する回答、つまり明確な論理を、僕はまだ獲得できていない。だからもう少し惑いたい。考え続けたい。
私だったら、そこで本書を結んでいたと思う。なぜなら現時点における私の結論がそれだからだ。いや、少し違うか。その違いに関してはこの後すぐに書くが、本書においては著者はさらに先へと進んだ上、著者なりの回答を提示している。それが何であるかは、本書の副題でもある「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」が暗示しているが、私としてはそれ以上の「ネタバレ」を書くのは遠慮させていただく。読者自身の目できちんとその過程を追ってほしいからだ。本書の扱うテーマは「忙しい人のための」とか「五分間でわかる」とかという形で要約してしまうには重すぎる。著者が3年かけて追ったテーマだ。本書そのもの以上の要約は「超要約」というべきだろう。
ここでは代わりに、「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」ということに関して、私なりの意見を述べておくことにする。
「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」。このテーマを考えるに当たって、不謹慎な言い方かもしれないが、死刑というのは思考実験のための最高のネタである。なぜそれが最高かといえば、死刑は極論であるからだ。思考実験というのは、極論を扱ってこそ最高の結果を出せる。特殊相対論は「もし時分が光速で移動したら世界はどう見えるだろうか」という思考実験の結果生まれ、一般相対論は「外が見えない部屋で加速度を感じたら、それは重力と区別が付くのだろうか」という思考実験の結果生まれた。そしてその思考実験の結果は、極論でない現実にも適用できるし実際適用されている。
しかし、こと「応用」の段階において、この場合、人を実際に救う段階において、私としては死刑にはあまり大きな優先順位を付けることは出来ないのだ。なぜならば、「人が救える人の数には限界がある」からだ。そうである以上、このテーマには経済学的な見地がいやでもつきまとう。「どうすれば、最も多くの人を救えるのか」。
その点において、存続、廃止を問わず死刑を「改良する」というのは、あまりに投資効果が低い。まず、死刑で死ぬものの絶対数が少ない。
死刑 - Wikipedia日本では、2006年において4人が、2007年8月23日に3人が執行された。
そして死刑囚そのものの数も少ない。
死刑囚 - Wikipedia2007年12月初旬時点での、日本における死刑確定囚は101名(うち女5名)であり、確定後の拘置期間は2005年9月時点(この時点での確定者は68名)で、平均して8年3ヶ月である。
死刑を廃止して「救える」人の数は、わずかこれだけ。これがどれほど少ない数かといえば、狂牛病で有名になったクロイツフェルト・ヤコブ病の患者より少ないのだ。実際に救える人の数は少ないという点において、死刑というのは難病に似ているとも言える。珍しいからと言って放置するわけにも行かないが、かといって優先順位を上げるのも難しいのだ。
人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。しかし人が救える人の数には限界があり、人が救いたい人は人それぞれであり、人それぞれがどんな人を優先して救いたいかという優先順位がある。そして残念ながら、死刑囚の優先順位は当事者を除けば低く、そして当事者の数は少ない。
それよりも優先順位が高いのは、当事者数という点においてはなんといっても人工中絶であり、仮に「胎児は人であらず」ないし「胎児が人かどうかは母が決めてよい」ということにしてこの問題をあえてスルーするとしても、この国においてその次に来るの自殺である。どちらも重いテーマであるが、だからこそ次に著者に追って欲しいのはこの二つのうちどちらかだ。
とはいえ、死刑について考えることは、死刑という手段が極であるがゆえに、他の死についても応用が効く。人を殺せる人として、人に殺されることが出来る人として、死刑について考えるのは、当事者でなくても有用であり、そして非当事者として死刑を考えた本としては、私が今まで読んだ本の中で本書は最良の一冊である。あなたも是非本書を通して極刑を見てほしい。
Dan the Mortal
See Also:- 404 Blog Not Found:元刑務官が明かす死刑の全て
- 404 Blog Not Found:書評 - この国が忘れていた正義
- 404 Blog Not Found:刑の前に考えておくべきこと
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死刑そのものが孕む問題の一つとして
「制度として人が人を殺せるか」という問いにある気がします。
<救う/救われる>という観点から
「死刑という問題が他の問題と比べてどうなんだ」という論法は、
為政者的立場からは重要かつ必要なものですが、
比較や数の話(グラフに表せるような)にしてしまうと、
たいていのマイノリティの問題が、
ショボク見える(投資効果が低い、等)ように感じます。
死刑そのものを考えるために、他の問題と比較考証するのは有効でしょう。
しかし、数値化し優先順位をつけ「難病」と例えるのは、
他の問題と同等に扱い、大まかな情報を処理することには有効でも、
「死刑」そのものに視線のピントがあてて考える(または思考実験する)ことに有効かどうかは疑問。
「もし時分が光速で…」→「もし自分が光速で…」
死刑そのものが孕む問題の一つとして
「制度として人が人を殺せるか」という問いにある気がします。
<救う/救われる>という観点から
「死刑という問題が他の問題と比べてどうなんだ」という論法は、
為政者的立場からは重要かつ必要なものですが、
比較や数の話(グラフに表せるような)にしてしまうと、
たいていのマイノリティの問題が、
ショボク見える(投資効果が低い、等)ように感じます。
死刑そのものを考えるために、他の問題と比較考証するのは有効でしょう。
しかし、数値化し優先順位をつけ「難病」と例えるのは、
他の問題と同等に扱い、大まかな情報を処理することには有効でも、
「死刑」そのものに視線のピントがあてて考える(または思考実験する)ことに有効かどうかは疑問。
「もし時分が光速で…」→「もし自分が光速で…」
