2008年03月04日 02:15 [Edit]
それでも私は屠り続ける +書評+ いのちの食べかた
以下のentryを読んで思い出したのが本書。
「選択の自由」が排除する人々 - 過ぎ去ろうとしない過去もちろん、安楽死と解雇は違う。子飼弾[原文ママ]は、雇用の流動性とベーシック・インカムの必要性を説く。同様の未来像がhttp://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080302/1204438491で示されている。あなたが解雇されたとしても、あなたが競争に参加する意欲があり、自分の能力を磨いて「生産性の高い」人間になる限り、また仕事に復帰できる。そのような社会が望ましいと。
ここまではとにかくとして、
では、競争に参加する意欲の無い、あるいは意欲があっても「生産性が低い」人間はどうなるか?確かにベーシック・インカムがあれば最低限の生活は送ることができるかもしれない。しかし、彼ら/我々は社会にとって不用であり、足を引っ張るお荷物として処遇される。
誰もそんなこと言っちゃいないのだが。
本書、「いのちの食べかた」のメッセージは、一つに要約できる。
人は、殺生なしに生きては行けない。
それを、頭ではなく体でわからせようというのだ。しかし著者に使えるのは言葉だけ。なかなか難儀な作業だが、著者はそれにかなり成功している。
目次 - Amazonのものを追補- 第1章 もしもお肉がなかったら?
- きみんちの晩ごはん
- 僕たちの知らないこと
- 牛とのおつき合いのはじまり
- お肉を食べないわけ
- すき焼きと豚肉の登場!
- 第2章 お肉はどこからやってくる?
- 牛と豚がやってくる
- おいしいお肉はだれのため?
- 二つの大問題
- お肉ができあがるまで
- 職人さんの名人芸
- 「人間」という生きもの
- いのちを食べるということ
- 第3章 僕たちの矛盾、僕たちの未来
- お肉禁止令
- 僕らはとても忘れっぽい
- 大人は、万能じゃない
- 「穢れ」って、なに?
- 「不浄」って、なに?
- 僕たちの「弱さ」の歴史
- 村ごと大引っ越し!?
- 小さな優越感
- 君はすべてを秘密にできるかい?
- メディアの過ち
- 無限大の傷つけ装置
- だまされることの責任
- 僕らの麻痺
- 忘れられない記憶
- 僕たちが生きているということ
- あとがき
本書がすごいのは、「殺生なしに生きては行けない」で止まらないところだ。そこで止めても本書は「よりみちパン!セ」の基準は満たしているのだが、そこで留まらないのが著者の欠点でもあり美点でもあり存在意義でもある。「死刑」もそういう本だった。
本書は、「人は殺生なしに生きる事はできないが、殺す者と食べる者が一致している必要はなく、事実そうなっている」ことを指摘し、その結果どうなったかを暴露する。
殺す者と食べる者が別になってから、何が起きたのか?
殺さずに食べる者が、彼らのために生き物を殺して食べ物にする者たちを蔑むようになったのだ。
食べる者たちは絶対的に殺す者を必要としているのに、殺す者が食べる者から得るのは、感謝でもなくましてや賞讃でもなく、侮蔑だったのだ。
なんでそうなったのか。私も知らないし、本書にも書いていない。
いや、強いて言えば、食べる者たちが殺す者を知らないからだ、というのが著者の主張だと感じた。なぜ私が知らなかったかといえば、彼らが知らないことを知らなかったからだということなのかも知れない。
私は、ニワトリやウサギなら屠ったことがある。小動物ですら、生きものを肉にするのは容易でないということは手で知っている。屠場も見学したことがある。そこでは人一人ではただ殺す事もままならぬ大動物たちが(豚でも100kgを超すのだ)、実に手際良く気絶させられ、血を抜かれ、そして肉になっていった。言うまでもないことだが、各工程は今でも手作業だ。そこでは人の手に握られた刃物が、生きた肉を切っている。
マッチョというのであれば、彼らこそ真のマッチョであった。そこで私が見たものはプロフェッショナルの躍動する美であり、感じたのはそこに加わるには自分があまりにウィンプ=非力であることから来る羨望だった。
ここまで血腥(なまぐさ)くなくとも、およそ仕事の現場にはそういう生臭い美があるものだ。それは何かの命を間接的にしても傷つけ殺しているものだ。たとえ人を殺していなくとも、獣は殺しているかも知れないし、獣を殺していなくとも草木を殺しているものだ。そもそもこの本にしても、木の死体で出来ているのだし、それを私の手元まで運んで来たのは、屍の成れの果てである石油を燃やして進むトラックである。
で、以下を見てみる。タイトルだけでおなかいっぱい。
さぞこの人の手はきれいなんだろうなあ、というのが私の率直な感想。手が汚れていたら、「魂と命を弄ぶもの」とか「自らの邪悪」とか言えないもんね。
少なくとも、私は言えない。私のために殺生してくれた人に「命を弄んだ」だとか「邪悪」だとか、とは。
技術者は、このことを知っている。いや、それを知らぬものはまだ技術者として一人前ではない。
「あしたの発想学」 p. 227口の悪い友人が「岡野、お前のところは、ほかの会社がなくなるものばっかりつくっているじゃねえか」って言うから、「あたしのせいじゃねえ」と言い返すけど、心の中では"これを作るとあそこがなくなる。かわいそうに"って思うよ。
うちが何かを作ると工場が増えて、五十人も百人も雇用できるようになるなら、日本の将来はバラ色だけど、現実はそうじゃない。その反対だもの。こんなふうに先行きが見えると、本当に嫌になってしまうね。
ソフトウェアの世界は、その意味では最悪である。一人が書いて公開してしまえばそれでおしまいなんだから。ましてやそれをただで公開しているオープンソースプログラマーなんて、鬼畜もいいところだろう。
それでも、私は自分が鬼畜であることを知っている。他の鬼畜が得た肉を分けてもらっていることも知っている。私がとりあえず出来ることは、自分が得た肉をふるまうだけだ。
もしかして、日本が成り上がり者に今なお冷淡な国である理由は、穢多非人の伝統が受け継がれているからなのだろうか。本書を読み返して、そんなことを感じ直した。
Dan the Sinner
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dankogai氏の骨太の文体に比べて彼らの文体の腰の弱さがめだつのは、吐く息のその言葉の端々から中途半端な嘲笑の臭いがただよってくるからかもしれない。
ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろ
dankogai氏は闘っている。
さようなら
弾さんみたいな立場も大変だなあw
読む価値がないと判断されたのかもしれませんが、
私はロリコンファルさんの方から来て、
ここは読む価値ないな、と改めて考えましたよ。
空を殴り、他人の言葉に耳を傾けず、
唾を吐きながら闘ってるふりをしてるだけです。
このような理由で他人を蔑む感覚が全くわからない。私が宗教的な「穢れ」の感覚を持ち合わせていないからだろうか。
というか「穢れ」の思想自体既に過去のもので現在の人はそれほど屠殺業に差別意識は持ってないんじゃないかと思います。どうなんでしょう?
(屠殺って一発で変換出来ないんですね。)
は思えない、つうか弾さんのほうが、まだなんとか落としどころを見つけよう
として、暗中模索試行錯誤している分だけ善良に思える。
私たちが永遠かつ無限に全ての人々と分かち合うことを、息をするのと同
じレベルではできない以上、「過去」の中の人と弾さんとの違いはせいぜい
が趣味の違いくらいの程度のものであって、大同小異だろう。
弱いモノは笑われて当然??
強い弱いは相対的なモノなのに?
machoがおそらくはやらないであろう仕事を
wimpが肩代わりしていることもあるのに?
(もちろんその逆もあります)
お互い様という視点が欠けてるのはなぜなんでしょうかね
世の中machoだけで構成できると思ってるのでしょうか?
軍隊で、最前線に兵士を一人送るには
後方勤務の人々がその何倍もいる訳です。
安全な後方で、靴を縫っている人は
精神的にも肉体的にもwimpかも知れない。
でも、すべての人がmachoなら、
靴を縫う人はいなくなりませんか?
トラックバックもコメントも含めて。(私もエントリーしたがそれもかみあっていない)
それは議論のベースが全然異るから。
居酒屋で共産党支持者の集りに自民党支持者が紛れて、妙な盛り上りになってしまっているのに似ている。
「ダンコーガイ」の勝手なイメージ相手に議論してないか?
議論は自分の立ち位置と関係になし、感情的にならずにやらないと。
でも、いちいち相手のレシーブを拾いまくるダンコーガイの威勢のよさは見てて気持ちいいな。スルーしないんだもん。
あなたいいこと言った!
コメント欄は共有の議論の場。
感情的なコメントがしたいだけなら、はてブでどうぞ。
このブログのコメント欄のあり方を考えるためにこの記事参考にどぞ
http://d.hatena.ne.jp/toled/20071116/1195221093
「サヨクは、ネット右翼にわかってもらおうなんちゃ思ってない。ぶっちゃけ、君たちを打倒したいんだ。」というなかなかスリリングな話。
"ダンコーガイ"を批判できるのはイエスキリストだけ!!
と煽ってみるか。
年収の90%ぐらいはアフリカの貧しい人たちへの寄付や募金に
費やしているんだろうな。
というか、清水義範もどこかで書いてたけど、「まじめな議論をするときは、比喩なんか使わずに、ちゃんと、その事柄そのものの話をしようよ!」
森達也さんも、こんな文脈で自著がつかわれて、ビックリしてるのでは?
たしかに、格差を認めることと、生産力の低い人を邪魔者扱いすることは別のこと。最近色々な場所で格差問題に敏感になりすぎていると感じる。
リンクの記事で彼が批判しているものは、小飼さんが挙げている例とは全く別物じゃないですか?
誰か解説してー
他者にトラックバックは送れるのに、
自分のところには、トラックバック送れないんですね。
私の解釈は03月04日 20:55の名無しさんと同じですが、小飼さんはそんな侮蔑に怯む人ではなさそうな感じですし、私としてはむしろ、そういう侮蔑を向ける人が「自分の正義を信じて疑わない」ことの方が怖いです。
repon氏を批判した小飼弾さんは、
きちんとreponさんに自分の宣言どおり、
年俸相当分のお金を払うんですよね?
http://d.hatena.ne.jp/repon/20080304#1204598324
まさか、「賭けてもいいとは言ったが、実際に賭けるとは言ってない」とか、
「日本では賭博は違法であり云々」みたいに逃げるような
みっともないことはしないと思いますが・・・。
人様のブログに対して「お前の年収分を賭けてもいいが」
とまで言い切って批判してるんだから、
「自己責任」を果たしていただきたいものですね。
獣は獣だから処理していいのであって、人を同じように処理していいはずがないからだ。
そういう繋げ方をするつもりではなく、あくまで職業上の行為に対する謂れなき(一連の弾氏への批判に謂れがないかはともかく)差別の例示を意図していたんだろうけど、プロの物書きなんだしもうちょっと気を回して欲しい気はした。わざわざこんな喩えを選ばなくても。
ロリコンファルさんの言ってるコトもわかりますが、ちょっと理想主義的過ぎかなとは思います。じゃ、資本主義以外でどんなシステムがいいのか?その辺がわからない。。まぁ、それは置いておいて、引用するにはあまり妥当な文章ではないと思います。
「いのちの食べ方」は僕も読みました。
中学生向けに書かれてるんですが、大人が読んでも色々と感じるところがある良著だと思います。
この本を読んだ上で書いたこのブログの趣旨もわかります。僕も技術者ですし、人が切られるとわかってても、生産性を上げるためにシステムを向上させようと思いますもの。切られた人は別の何かを始めるチャンスだと思うし、仮にそのチャンス自体が与えられないというのは、また別の問題だと思いますし。。
成り上がりに冷たいのは、穢多非人の伝統というか、変な平等意識があるせいかな。。ここのコメントを見ててそう感じましたね。。
ロリコンファイルさんは理想論振りかざしてるだけのように感じます。
まるで某自然保護団体のようにかんじます。変なところに噛み付いて、反論されいくいような理想論を振りかざし、必要以上に攻撃する様などみていると。
弾さんは経験則からものを言っているし、ブログなのでそれも成り立つ。たまに統計的に答えが証明できるのかとか突っ込みはいるけど、そんな事は関係ない。
今回のentryは、私も名無しさん(2008年03月04日 20:55)と同意見。
(こんなにうまくまとめられずコメントできずにいました。)
そんなこと、あなたが気にすることでもないと思いますけど。
あなたがreponさんなら別ですが。
ただ「自己責任」と言いたいだけですか。
ストレス発散なら他所でやってほしいもんです。
やむを得ずに悪を為す(他人を切り捨てて自分だけ生き残る)場面も、極限的にはありうるけれども、そのような極限的な状況を回避するためにどれだけの手を打ったのかということが、指導的な立場の人間には求められるのではないか。
いわんや、どちらかが生き残るためではなくて、自分の収益を高めるために他人を切り捨てることが正当化されるのであれば(これは、必ずしも弾さんの主張とは一致しないかもしれないが)、人間の尊厳の価値が物質的な富の価値よりも低いという点で、奴隷制度や帝国植民地制度と何が違うのだろうか?
やむを得ずに悪を為される(他人から切り捨てられ自分だけ落ちこぼれる)状況・時代が極限的にはありうるけれども、そのような極限的な状況を回避するためにどれだけの手を打ったのかということが、部下的な立場の人間には求められるのではないか。
こんなのお互い様じゃないですか。
なお、どっちが人間として好きかといえば圧倒的にdanさんです。
甘えてんじゃねー。
今回の話は非常に興味深く注目すべき話ですよ。
「小飼弾」という人の言葉を信頼すべきかそうでないかそのものですし、
「自己責任・自己選択などの論理を展開するマッチョやリバタリアンは、彼ら自身の自己責任を果たすか」という話です。
ある有名なアルファブロガーがいまして、それはもう原理主義的リバタリアンなんですけれども、
・その人は「いったん社会に出た著作物の複製を禁止すべきではない」「著作権を廃止して、すべて契約ベースで決めれば、隣接権も必要ない」と主張していた
・しかし「それでは私が貴方の既刊の書籍をテキスト化してWEB公開してもよろしいのでしょうか?」と質問されたら、言い訳をして逃げ回り、矛盾を突っ込んだ人のコメントを削除し、アクセス禁止にした
という、絵に描いたような言行不一致っぷりを晒していました。
小飼さんはどうされるんでしょうね。
reponさんに「正直すまんかった」と負けを認めてはてなポイントを振り込むのか、
「証拠をみせてみろ!ああ?」と徹底抗戦するのか、それとも無かったことにして逃げるのか。
負けを認めるか、または徹底抗戦するならともかく、「無視してなかったことにする」を選ぶなら、弾さんは「自己責任論を展開する人は、彼ら自身の自己責任を果たない」という重要な一例になりますね。
もちろん、広い意味で「嘘つきの卑怯者」と罵られることそれ自体が「自己責任を果たしている結果」ともいえますが。
あのブログでは、技術屋の論理で安易な現状追認なんてしてません。
罪深い人間の猥雑な本性を見据えた上で、さらに理想論を展開しようとする強さがあります。
「ほら俺の手は汚れている。おまえの手も汚れているはずだが?」で理想論を嗤うっていうのは
今や単なるマジョリティの論理です。
市場主義、死刑存置、効率至上主義、あまりに視野が狭い……。
YouTubeで見られますので、もしお暇でしたらご覧ください。
森達也『1999年のよだかの星』動物実験ドキュメント 1/6
http://jp.youtube.com/watch?v=oVphOBH3iQg
『いのちの食べかた』と同様に、とても考えさせられる内容です。
ってのがロリコンファルの主張なんではないかな。
マッチョはなにかと他人には「自己責任」「自己選択」を喧伝するのに、
自分の行為や自分の発言においては「自分の意志が最終的なよりどころである」という事を決して認めない。
「資本主義の神」「自由市場主義の神」によりどころを摩り替えるヤツラばかり。
・自己責任自己選択言うなら、「自分の行為は自分が意思を持って行った行為だ」という最低限の自己責任を果たしたらどうだ。
彼の論理は恐らくこうだと思う。彼の意見はなかなか鋭いよ。
つうか、責任の範囲の言動しか取らないとゆーよーな官僚じみた生き方って、時には無責任で言行の一致しないことがあるとゆーそれと比べてそんなに素晴らしいのかな?
そういう例を出したいのなら、もっと抽象的に「10人の命を救うために1人を殺すことは是認されるべきか」というような形にまとめればいい。
ここで、11人を救うのが最善だが、やむを得ない場合は10人を取って1人を殺せ、という回答がありうる。
しかし、その論理を無制限に適用すると、例えば10人の重症患者を救うために1人の健康な人間を殺してバラして臓器を取ることは是認されるのか、というような問いも立てられる。なるほど、10人を救うために、健康な1人を殺してはならないという責任は放棄したわけだ。道義的な完全性を放棄することで10人救えたからいいだろう、というわけだ。
「10人の負債を軽くするために、くじ引きで
そんな時間も空間も経済も技術も存在しない社会なんてあるワケないでしょうが。
論じてるような
立ち位置の違いだからロリコンファイルさんも
人を雇う立場になればまた考えも変わるかもしれないし
ありきで論じてるような
立ち位置の違いだからロリコンファイルさんも
人を雇う立場になればまた考えも変わるかもしれないし
そうでないかもしれない
技術も経済も存在しない練習問題ごときへの負いめのなかで官僚的小市民的徳目を後生大事にしとけよ。
そんなものに価値があるとはまったく思えんが、世にはウ○コ好きもいるってことだしな。
なんでわざわざ自分より貧乏な奴をいじめてのし上がらなきゃならんのよ。
「それなりに楽しい生活」の妨げになるやも知れん人を説得して退いてもらうことっていじめなん?
つうか、そこまで自分のことを疚しく思っているのなら、「それなりに楽しい生活」なんか送れるワケなかろうが。無論、プチブルライフなんぞ以ての外。
やましく思ってるからこんなエントリ書くんじゃね?
このくらいの「つるし上げ」はライフハック(笑)と思ってたら、
あんまり叩かれたもんだからようやく自覚したんだろ。
説得力が無いって事はわかった
深い傷にならないところで切るのというのが双方にとって利益でしょうに。
まあ、なぜにソニーがああなり、東芝もああなる寸前でしか方針転換できなかったか、ダン氏への反発を見て少し分かった気はする。
ダメになるのは経営者の所為ばかりではなかったってことなんだな。
「30分自己批判させて精神的にイビってうまいこと自主退社に追い込めばいいんだから、労働法がどうであれ日本で従業員のクビ切るのなんて簡単だぜ?」とか書いたら、そりゃ世間的な常識から考えりゃ批判されて当然だっての。
経営者の都合なんて労働者が考えてやる義理はないけど、労働者の都合を考えてやる義理は経営者にはあるんだよ。社会的にな。
その非対称性を無視して「どっちもどっち」とか言うな。持てるものの責任っつーもんを考えろって。
元々、日本では社員のクビを簡単に切れない、という意見への反論として挙げた例なんだから、あれは「簡単に切れる」という例なんだよ。
で、法的な問題を回避してクビを切る方法が、自主退社という形式に落とし込む、で、自主退社に同意させる方法が、形式質問による自己批判を迫る、ということだろう。
読んだ人がそれをどう評価するか、弾氏が自分のやったことをどう考えているのかは分からんが、あの文章は上でまとめたとおりに解されても仕方がないものだと俺は考えるね。真意がどうであったかどうかはともかく、文面上そう書いてしまっているよ、彼は。
まあ、会社っつうものを機能集団ではなく共同体と考えている典型的な発想だが、また東條を引き合いに出せば、彼は自分の部下の面倒見はすこぶるよろしかったんだそうな。
経営者の中には、従業員のためにと思って企業犯罪に手を染めたのも少なからずいたことを考えれば、「持てるものの責任」っつうモンにも限度があるってこってさあな。
それを踏まえれば、バッサリやるかまったりやるかはまったくの趣味の問題でしかないでしょうて。
「〜が必要だ」と主張している相手に向かって、十分条件の反例を挙げてどうするんだか。
意図的にやってるってのでも悪質だが、恐らく「素で」やってるんだろうなぁ。
めるものであるならば、会社はいずれドツボに嵌るだろうってだけのハナシなんだが。
つうか、会社も、著作物と同様に弾氏の《所有物》だと見なせるワケだから、その使用収益
について弾氏に決定権が認められるのは当然の事なんじゃないの?粘着していたネタか
らすれば。
