2008年03月09日 19:45 [Edit]

人の命が平等でも、人の注意は平等になりえない

これ、私も時折考える問題なのでメモ代わりに。

人の命は平等じゃないんだもの。 - 猿゛虎゛日記
8人死亡を伝えるな、とはもちろんいいません。しかし、もっと「どうでもいい」ニュースも入っているので、やはり理不尽さは感じます。

仮に人の命が平等だとして、誰もが誰もを平等に扱わねばならぬとしたら一体何が起きるだろうか。

人の一生を80年とすると、秒に直すと2,524,556,160秒(一年=365.2425日で換算)。25億秒だ。これに対して、世界の人口は現在およそ66億人。ある人が別の誰かを「扱う」時間は、平均で0.38秒しかないということになる。産まれてから死ぬまで、一瞬も寝ないとしてもこの数字なのだ。

何かを見て手足のどこかを動かすのに最低0.2秒ほどかかるのでこれを「一瞬」とすると、0.38秒というのは生理学的にはだいたい「二瞬」ということになる。先ほどの数字を、「一生」から「成人が目覚めている時間」として、それが一生の半分だとすると、誰かが誰かを「扱う」のに使える時間は、平均すれば「一瞬」しかないことになる。

だから、先ほどの「一体何が起きるだろうか」の答えは、「誰も成人することすら出来ない」となる。全人類を平等に扱う親が、子に充分な時間を割くのは不可能だろう。人を平等に扱うには、まずもって人が多すぎるのだ。だから人は自分にとってより身近な人により多くの時間を割くしかないし、実際にそうしている。人は大事な人とそうでない人を不平等に扱っているからこそ生きていられるとも言える。

このこと自体は、「人の命が平等でない」ことを全く意味しない。ただ「平等に扱えない」というだけだ。これは人の命を夜空の星に例えて説明するのがいいだろう。仮に全ての星の大きさが太陽と同じだとする。それでは夜空の星は全て太陽と同じ明るさで見えるかといえばそうはならない。近い星は明るく、遠い星は暗く見えるだろう。そして、あまりに暗い星は見えず、あまりに明るい星はあなたを丸焼きにする。

多くの遠くの星を見るのか、それとも少ない近くの星を見るのか。どちらを選ぶにしろ、「一生を通して目にすることが出来る星からの光の量」はそれほど個人差がないのではないか。私は、それを「生涯注意量」、Lifelong Attentionと呼んでいる。

「注意を払う」と言う。英語でも pay attention と言う。社会というのは、つまるところ誰にどれだけ注意を払うかということで出来上がってように感じる。そしてそこには同じ死であっても、より注意を引きやすい死とそうでない死が確かにある。そして「この死が重要だ」と叫ぶ人の数はあまりに多く、しかも時代を追うごとに増えている。

これがまだ知り合いが100人ぐらいしかなく、それ以外の人の声を聞きようがなかった時代は、「どの死を優先して扱うか」という疑問は質問にすらならなかっただろう。せいぜいその疑問に悩むのは、「普通の人」には手に入らないほどの注意を集めている為政者などに限られていたはずだ。しかし、今ではそれを避けて生きることは実に難しい。

理不尽、すなわち「理が尽きない」というよりは、情が尽きてしまうのだ。

TVやネットを通して目にし耳にする「知り得なかったはずの他者の死」に対し、我々はどれだけの注意をどのように払ったらよいのか。例えば中東の爆弾テロと、ペットの病気とどちらがより重要な問題なのだろう。あるいは、この24時間以内に亡くなったはずの約3,000人の日本人の命は? 毎年100万人以上の日本人が死ぬが、その死のほとんどは遠い国の「ニュースになる死」ほどの注意を集める事はないだろう。

私にはわからない。私にわかるのは、何かに注意を払うと別の何かに払う分がなくなる、ということだけだ。

誰と生きるべきか、死ぬべきか、それが問題であり続ける。

Dan the Somebody to Some, Nobody to the Rest


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この記事へのコメント
>寿命さん
そもそも感情に対して「おかしい」と言われてもピンボケだよね
Posted by 初学者K at 2008年03月11日 16:08
 「医療・人命救助の優先順位」と、「報道するかどうかの優先順位」は、別の問題で、分けて考えるべき。リンク先の記事は、それをごっちゃにしている。記事の内容は、明らかに報道の有無に関するものなのに、Monsterのそのシーンを引用するのはなんか変。
Posted by 寿命 at 2008年03月10日 05:15
 農婦だった母は、いなかの大学病院で手術後に集中治療室のベッドから転落したことが原因となり、亡くなった。 そのころは、医療過誤訴訟の機運もなく、泣き寝入りした。
 約20年後、都会の大病院に昏睡状態で入院した弟は、シーツ交換時におそらく気道を確保してもらえず、酸欠に起因して後日亡くなった。 真実は、病院側の手の内にあり、見えてこなかった。 義妹は、入院時に「大学教授だから大切に扱うように」言うべきだったと嘆き続けている。 脳内にあった論文の内容は、ほとんど出力されずに消えた。
 平凡な会社員の私が落胆の中で感じていた違和感は、「人の命は平等じゃないんだもの」だろうか、「人の命が平等でも、人の注意は平等になりえない」だろうか。
 病院の仕事は、患者に注意を払うことではなかったか。また、公務員や政治家の仕事は、仲間ではなく、国民に注意を払うことではないのか。1億余りの国民は、遠い存在なのか。
Posted by Alexander the small pessimist at 2008年03月10日 02:49
 以前、ダイアナ妃とマザーテレサが同時期に死んだとき、より「立派な」マザーテレサより、ダイアナ妃の死の方を大騒ぎするなんておかしい、ということをしたり顔で言う人が居て、「アホか」とせせら笑ったことを思い出しました。
 人が人の死を悲しむのは、死んだ人が「立派な人」だからではなく、「親しみを感じている、好きな人」だからに決まってるジャン。客観的に立派な人の死をより強く悲しまなければならないなんて、ナンセンスもいいとこ。というか、そういう事言う人って、単にダイアナが嫌いだからケチつけてるだけでしょ。
 あなたの母親が死ぬ(死んだ)時、きっと、他のだれが死ぬ(死んだ)ときよりも悲しいと思うんだけど、あなたの母親は、客観的に見て、そんなに「立派な」ひとなの?
Posted by 寿命 at 2008年03月09日 20:43