見るに見かねたので。

幸福の第一原則

人の幸福を奪うことは出来るが、
奪い取ることは出来ない。
You can destroy their happiness.
You can never steal it.

本来これで充分なはずだけど、不幸好きなお前らのために解説してやる。

人様の幸福にケチをつけるのはたやすい。「おまえ、この程度のことで幸福なの?」「お前は嬉しくても相手はどうよ?」「どうみても妄想ですありがとうございました」

それを押し進めて、人様の幸せの背景をブチ壊すのも簡単だ。富も名声も配偶者も、奪おうと思えばいくらでも奪える。「ミリオネア?ビリオネアじゃないんですか」「有名?ご当地で?」「『俺の嫁』?その程度ですか?」....

だけどさ。おまえら、そうやって奪った分自分のものに出来るの?幸せな人が不幸になった分、おまえら幸せになるの?

人の幸せを一度呪うと、君には三つの訴状が届くことになる。一つ目は、呪った相手から。二つ目は、それを見かねた人々から。そして最後は自分自身から。一人称、二人称、三人称の全てを君は敵に回すことになる。

はっきり言おう。そうやって人を呪って呪った以上の呪いを集めているおまえは、生きる資格を自ら捨てたゴミだと。おまえには死が相応しい。自決しろ。殺せ。そんなおまえの内なる疫病神を。

内なる疫病神

とはいえ、どうやらこの疫病神は誰にも生まれつき備わっているようではある。

格差と希望 by 大竹文雄 p. 17 (書評は後で)
最後通牒ゲームとは、つぎのようなものだ。AさんとBさんの二人がいて、一万円を分けるとする。このとき、Aさんが分け方を提案するが、Bさんがその提案を拒否すれば一万円そのものがなくなり、Bさんが提案を受け入れれば、Aさんの提案どおりに配分される。何も受け取らないよりは受け取った方がいいので、一円以上の提案をすればBさんは受け取るはずだ。
しかし、経済実験の結果では20%以下の配分という提案は拒否されることが知られている。

要するに、アイツがオレより五倍以上幸せになるぐらいなら、アイツもオレも不幸のままの方がいいというわけだ。

しかし現実のゲームは、最後通牒ではないし、選択するのはBだけではない。AはBの利益をも考慮しないと利益を失う立場にある。結局双方の利益が最も大きくなるのは、この場合は折半ということになる。

しかし、現実とこのゲームの間には、もう一つさらに重要な不確定要素が加わる。BはAがどれだけ受け取っているのか知らない場合がほとんどなのだ。Bが一万円受け取って喜んでいたら、Aは実は一億円受け取っていたなんて話だってざらにある。

それでも、受け取っておくべきなのだ。あなたがBの立場なら。もちろんAの「足元を見る」、具体的にはAが受け取った額がいくらなのかを知ることができれば交渉の余地が出来るし、そうするのが現実のゲームの戦略になる。Bの戦略は、「おれの分け前が足りないと、お前の分け前もなくなるぞ」ときちんと知らしめること。

しかし、重要なのはB、すなわち君が受け取ることであって、A、すなわち他人が受け取り損ねることではないのだ。そしてさらに重要なのは、この話が成立するのはあくまでも譲渡可能なモノに対してであって、譲渡不能なものはそもそも見積もることすら無意味だということだ。

幸せなんて、譲渡不能なモノの宇宙代表じゃないか。

幸福は義務

まず、譲渡可能なものと不可能なものにきっちり分けよう。譲渡可能なものなら、いくらでもケチをつけていい。それが改善に繋がるんだから。金銭もそうだし、技術なんてその最たるものだ。

しかし、譲渡不可能なものにいくらケチをつけても、君はそれを手に入れることは出来ないんだよ。いいかげん気がつけよおまえら。

直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japan
「ある対象の良いところを探す能力」というのは、人生を生きていくうえでとても大切なことだ。「ある対象の悪いところを探す能力」を持った人が、日本社会では幅を利かせすぎている。それで知らず知らずのうちに、影響を受けた若い人たちの思考回路がネガティブになる。自己評価が低くなる。「好きなことをして生きていける」なんて思っちゃいけないんだとか自己規制している。それがいけない。自己評価が低いのがいちばんいけない。

一言で言うと、こうなる。

アランの幸福論
幸福であることは他人に対する義務である

おそらく、日本ではこれが「他者を不幸にしないことは他者に対する義務である」と解釈され、そこまでで押しとどめておけばまだ間違いではないのに、「他者に幸福を見せないことが他者に対する義務である」となったあたりから間違いになって、「他者に幸福を見せる者を糾弾するのが作法」に化けてしまっているのではないか。

ひどい誤解である。が、その誤解に繋がる別解が、「他者を不幸にしないことは他者に対する義務である」ではないか。日本において、これが「自らが幸福である」ことより美徳とされるのはほぼ間違いがないところだろう。

これは、正しておくべきだろう。「自らが幸福になる」も「他者を不幸にしない」も双方とも間違いではない。が、どちらの優先順位が高いかといえば、前者なのだ。後者ではないのだ。

人の不幸を心配している暇があったら、
まず自分が幸せになれ
Pursuit your happiness before their worries.

Dan the Pursuer of Happiness