2008年08月07日 15:30 [Edit]
かえって思考停止したくなった - 書評 - ドキュメント死刑囚
筑摩書房松本様より献本御礼。
不謹慎ながら面白い。
が、その「面白い」と思わずにいられないことそのものが、死刑に関する最大の問題なのかという、かつてから私が抱いていた仮説を強化してくれたように思う。
本書「ドキュメント死刑囚」は、雑誌「創」の編集長による死刑論、というより死刑に関する論の欠如。
目次 - 松本様のmailより- 序章 死刑に犯罪抑止力はあるか
- 突然の執行 / 死刑にしてほしい / 言動のギャップ / 反社会性人格障害 / 加害者の背後にあるものを想像すること
- 第一章 すべては夢の中
- 突然届いた手紙 / 杞憂 / 1審の死刑判決 / 幼女殺害と犯行声明文 / 約20年ぶりのビデオ鑑賞 / 高校時代から幻聴や被害妄想 / 事件直前の祖父の死 / 分裂した鑑定結果 / 多重人格 / 両親の忌避と祖父の再生 / 本当の両親に会いたい / 鑑定医が指摘する「解離性家族」 / シンボルとしての卓袱台 / 社会規範の象徴としての父親 / 「死ね! この野郎!」との罵声 / すべて夢の中 / 幼女の遺体を解体した理由 / おじいさんに捧げる儀式 / おじいさんが姿を現す / 獄中で聞こえる幻聴 / 拘置所での投薬治療 / 最高裁で死刑確定 / 死刑確定後の接見 / 私の家族の住所をつきとめて下さい! / 口元がほころんだ / 死刑確定後の処遇の変化 / 「絞首刑は残虐なので薬殺にすべきだ」
- 第二章 孤独感と殺意
- 小児性愛と反社会性人格障害 / 手記を連載 / 小林薫と宮崎勤 / 「第二の宮崎勤になりたい」 / 父親に望む6か条 / 悲しかった「母親の死」 / 孤立感 / 父親との微妙な関係 / 小児性愛と性犯罪 / 新証言と揺れ動いた心情 / 〈真実〉と題された手紙 / 希薄な社会規範の意識 / 地獄絵図 / どちらが<真実>なのか / 死刑になりたい / 遺族の訴えに法廷中が泣いた / 父親の証言 / 母親の証言 / 「愛情の深さを知りました」 / 涙を流している自画像 / 死刑判決と謝罪文 / 死刑判決にガッツポーズ / 判決後揺れ動いた心情 / 控訴取り下げ / 控訴取り下げの理由 / 最後の別れと新たな展開 / 100人を超えた死刑確定者
- 第三章 底なしの憎悪、むき出しの殺意
- 獄中結婚 / 加害者側への自己投影 / 宅間守からの手紙 / 幼稚園ならもっと殺せた / ガソリンだ。ガソリンだ。ガソリンだ / 倒錯した差別意識 / 死刑になる方がええんや / 地面にへたりこむまで、刺したかった。刺したかった / 少しでもましな死刑囚生活を送るには / 死刑は殺される刑罰や / 宅間守の妻の手記 / 死刑執行当日の様子 / 「君に少しでもお金を残してあげることができるね」 / 憎しみは直接的・暴力的・攻撃的だった / 謝罪を求められるのは筋違いや
- 第四章 死刑への向き合い方
- 無期懲役と死刑の隔たり / 林眞須美被告の「悲しかった日」 / 「来年こそは、死刑執行のないことを願います」 / 家族全員が母親を支援 / 北九州監禁殺人事件 / 恐怖の支配下で家族殺害に加担 / 「死んだ後には、骨も残したくありません」
- 終章 凶悪犯罪に社会はどう対処すべきか
- 家族というキーワード / 善玉対悪玉 / 絶望の中で希望を見出す / ジャーナリズムの不在 / 「罪を償う」とはどういうことか
実は、本書を読了して真っ先に出た感想は、
「卑怯だな、この著者」
だった。著者は「現在の死刑制度は今のままでは駄目だ」とは言っているが、「じゃあどうすればいいか」を一切語っていないからだ。そう、一切。
その著者の態度が最も如実に現れているのが、本書の結びである。
P. 238犯罪を犯した人が「罪を償う」とはどういうことなのか。彼らをどう処遇することが本当の問題解決につながるのか。これだけ動機不明と言われる事件が頻発する現実を見るにつけ、死刑こそが有効で重い処罰などだという思い込みで現実に対処するには、ほとんど思考停止というべきなのではないか。私はそう思うのである。
出た!「思考停止」。申し訳ないが、「だからサヨクはダメなんだよ」と付け加えざるを得ない。
死刑に限らず、サヨクの皆様は、「思考停止」さえしなければ、それが免罪符になると思っていらっしゃるようだ。あたかも思考停止というのが、殺人をも上回る大罪であるかのように。
しかし現実には、「何か」が起きたら「何か」をしなければならない。「何もしない」というのも選択肢のうちにはあるが、ミギもヒダリも政府がその選択肢を選ぶことをよしとはしないだろう。
そしてその「政府」というのは、曲がりなりにも民主主義国家においては「我々」なのではないか。それがいかに「我」とは異なる思考過程の元に、「我」とは異なる行動を「彼」が取ったとしても、それが「我々がやったことである」とするのが、民主主義国家の市民というものである。
森達也は、まさにそういう立場に立って「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」と言った。彼には、自分もまた有権者として死刑に対して責任を負っているのだという痛烈な、しかし民主主義国家の市民であれば当然な、当事者意識がある。その意見は私のそれとは大いに異なるが、しかし同じ民主国家の一当事者という意識を、森とは確かに共有することが出来る。
ちなみに、この件に関する私の立場は以下の以下の通り。今でもこれを書いた当時とは変わっていない。
404 Blog Not Found:人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う - 書評 - 死刑人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。しかし人が救える人の数には限界があり、人が救いたい人は人それぞれであり、人それぞれがどんな人を優先して救いたいかという優先順位がある。そして残念ながら、死刑囚の優先順位は当事者を除けば低く、そして当事者の数は少ない。
しかし、本書において、死刑を運用する日本国政府は徹頭徹尾「奴ら」なのだ。
P. 239鳩山法相の話などを聞いて私が苛立つのは、その言葉に死刑という人間の生き死の決定に自分が関わることの重たさが感じられないからだ。
この言葉を、そっくり著者にお返しする。
もっとも、本書が「面白い」のは、あくまで死刑囚も死刑執行者たる日本国政府も「奴ら」であるからだというのも事実だ。本書に登場する死刑囚たちは、いづれも社会の注目を大いに集めた、「目が離せない奴ら」であることは疑いようもない。しかし、これらの事件が面白いことこそ実は最大の問題なのではないか。面白いがゆえに、これらの事件に必要以上の注意が払われているのではないか。たとえば遺族にとって、殺人と交通事故はどう違うのだろうか....
本書を面白いと感じる自分が度し難くなる、そんな一冊であった。
Dan the Taxpayer
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だから、人の人権を侵すものは、社会からのペナルティとして、同程度まで、自分の人権を制限される。
最大の人権侵害は殺人であろう。それゆえ、故意に、人の命を奪ったものに対して、ペナルティとしての死刑があることについては、やむを得ないことではないだろうか。
