2008年10月29日 16:00 [Edit]
群衆の責任、いずこ - 書評 - ウィキペディアで何が起こっていのるか
自腹購入。
これを読了したおかげで、
にちょっと割り込みたくなった。
本書「ウィキペディアで何が起こっているのか」は、ウィキペディア批判の一冊ではあるのだけど、むしろ副題の「変わり始めるソーシャルメディア信仰」にこそ主題がある一冊ゆえに、当然はてな村にも適用可能であり、実際はてなの名も何カ所かで登場する。
目次 - Amazonより
|
|
誤解を恐れず、私の印象を率直にいわせてもらえば、2ちゃんねるとウィキペディアでどちらがコンプライアンス面で優れているかなど、実はドングリの背比べに等しい。だが、2ちゃんねらーは自分たち自身で「便所の落書き」などと、2ちゃんねるのことを称している、それに対し、ウィキペディアンが標榜するのは「世界最大の百科事典」だ
しかし現実は厳しい。世界最大の百科事典の管理体制は、便所の落書き消しにも劣っている。
なぜ著者たちはこれほどウィキペディアに対して厳しいかと言えば、落書きの責任が誰にあるかを、ウィキペディアはつまびらかにしなかったからだ。まさに「ぶ米」(ブックマークコメント)を巡る問題と同じだ。
それでもまだ、はてなブックマークの場合は個々のコメントの「文責」が明らかな分だけましである。ウィキペディアの場合、IDがなくとも記事の編集が可能であり、そして一つの記事を編集するものも複数である以上、個々のウィキペディアンに文責を負わせることは難しい。
さりとて2ちゃんねるのひろゆきのように、「場所を提供した者」の責任を問うこともシステム的に不可能だ。「それは運営母体である米国のウィキメディア財団に言っとくれ」というのは、確かに「便所の落書き」に劣るどころか、便所の壁がうんこで出来ているがごときであろう。
「場」の重要性、そして「場の責任者」の不在の双方において、ウィキペディアというのは確かにソーシャルメディアの極北にある。はてな村などかわいいものである。が、両者の最大公約数を取ると、それが問題の本質となる。すなわち
「弾言」 P. 154ネットワークの自体の価値 = ネットワーク全体の価値 - Σ[個人の価値]
が、負の価値に対しても成り立つということである。1の記事についた100のネガティブコメントは、100の記事についた100のネガティブコメントよりも大きなダメージを元記事の執筆者にもたらすのだ(ということですよね>終風翁)。
もちろん、「ネット(この場合「ネットワーク」ではなく「グロス」の反対)で価値がプラスであればいいじゃないか」という意見もあり得る。が、それは「少数派の不利益を最大限回避する」という、ウィキペディアをはじめとするソーシャルメディアが志向する民主主義の理念に悖ることも意味する。
ここからは私の意見で、かつて「サンデージャポン」や「朝まで生テレビ」でも言ったことであるが、ソーシャルメディアの責任の「本籍」は、発信者でもなければ場の提供者でもなく、実は受信者である。「真に受けた方が悪く」、「だまされた方が悪い」。ソーシャルメディアはオープンソースの延長上にあり、実際ウィキペディアで採用されているライセンスはGPLを母とするGFDLである。そしてオープンソースの世界では、責任は作成者ではなく使用者が負うことになっている以上、責任は個々の受信者にありとするのが正しい。
しかしオープンソースでようやく理解が進んだこの理念は、ソーシャルメディアでは理解すらされていない。本書の著者たちも理解していなかった。そしておそらくウィキペディアンたちも理解していないだろう。本書の著者たちは、さまざまなステークホルダーにインタビューしているが、彼らの誰一人とて「読者責任」を上げたものはいなかったのだ。
もちろん、プログラムという「利用者が実行しないと何も起きない」ものと、ドキュメントという「目に入っただけで何かが読者に生じる」ものとを同じ理念で処理しようということにも無理はあるだろう。また、プログラムはパッチできても個人情報の漏洩はパッチしようがないというのも事実だ。
しかし、読者が間接的にすら代価を払っていないソーシャルメディアというシステムにおいて、TVなど「見かけ上代価がない」、しかし実際には広告や受信料という形でしっかり読者が代価を払っているシステムの常識をそのまま敷衍するのもこれまたおかしな話ではないだろうか。
嫉妬が生みだす公正な社会 - レジデント初期研修用資料北米に移り住んだアメリカ人は、アパッチ族を撃退するのに、相手に「牛」を贈与した。
まさに本書の提案がそれである。牛のオーナーになってしまえば、オーナー責任が取れるのだと。「牛糞(bullshitには「大ウソ」の意味もある)を片付けろ」とオーナーを問いつめるができるのだ、と。
しかし、それはソーシャルメディアから「ソーシャル」を取り上げることではないのか。ただの「メディア」となったウィキペディアやはてなブックマークなぞ、何が面白いのか。
「アパッチ族」という群衆を撃退するのではなく、「群衆」と共存する道は本当にないのだろうか。
本書を片手にあなたにも考えてほしい問題だ。
Dan the Social Blogger
この記事へのトラックバックURL
“貸し手責任”はそのものだし、顧客の購買行動にしても対価以上の価値を感じて手を出せば“買い手責任”がある
*「消費者庁」が気持ち悪そうなのはその辺
「わざわざ時間を割いてやったんだ」とか、労力に報いることは“礼節”の話しなので“責任”とは別次元
子の成長に喜びを感じてしまう親として、幸福感という利益を得たことの“責任”を思い出させていただきました
:-p
うそはうそであると見抜ける人でないと難しい
個々で責任を取りたくないか極限まで薄めたいから群衆化する、が基点だと思ってる人の方が遥かに多いわけだから。少なくともネットでは。
ビートたけしさんの「赤信号、皆で渡れば怖くない」に近い心理状態でしょ。それに対して文句付けたところで、「赤信号、皆で渡ったら全員轢き殺す」と言われたのと同じような受け取り方しかしないと思うよ。
んで、そんな馬鹿なことを言い出す支配者(?)は排除しろ!! 俺たちは自由だ!! 国家が国民の自由に口出しするとは何事だ!! 官憲の横暴だ!! …って論調が出て来て、まぁソッチの方が都合いいから、んじゃそれで、と成るんでしょ。
言論ヤクザとか腐れ左翼がよく使ってくる手法だよ。
そういう意味では、キャバクラとか風俗とか、そのへん空間とあんまし変わらんような気がするなぁ。
私物をゴミ箱に捨てるとか、集団で無視するとか、営業用の携帯電話壊すとか、衣装破り捨てるとか、毎日のよーに罵詈雑言浴びせて鬱になるまで追い込むとか、伝言わざと伝えないで失敗さすとか、そおゆう類の嫌がらせの一環に「ネットで悪口陰口」みたいなのがあってさ。
ネット利用者のそれなりの部分が「そおゆう界隈の人」だったりするから「そういうことスンナよ?」とも言い辛かったり、言っても効き目無かったり。効き目出したら逃げちゃったり。そんなもんかと。
ウィキペディアで何が起こったか、とは次元違うけど、まぁ、そんなもんかのー…とは思います。だからあたしゃー「馬子にも衣装・猿冠者・時代遅れ」って言っといた。どこでも有り得る、底辺の世界ってヤツでしょう。
好きな漫画のココがイイ!! とかなら罪も無いけど、それなりの教養本で、ある意味「教えてあげるよ?」的なスタンス取ってる書籍で不都合不合理の類を指摘しないのは、ちょっとどうかなー的な。
まぁ、私は読んでないし読む気も無いからどこがどう違ってどんな悪影響?があるのか知りませんしどっちでもいいんですけど。
書評仕事も大変だなって思うんで、頑張っていただきたいです。
じゃ、そこで巣食う馬鹿マスター「海獺」は「条虫」に名前変えてほしいもんだな
wiki常連がアンチにつっこんでくるんぢゃねえよ、ゆきち んこ
“本人自称だから正しいのだ”と強弁されればそれが嘘八百であっても罷り通ってしまう。
今や、“書式のある2ちゃんねる”ですね。
それから「ゆきち」さん、あんたはウィキペディア日本語版が批判されてるところには必ず出て来て弁護するんだね。組織防衛が始まったらお終いだよ。
管理者・海獺が明らかに懲罰に用いている実態について、弁明を求めたいところです。


