2008年11月10日 19:00 [Edit]
エリートは日本(語)を救うか?
ちがうよ、梅田さん。
Twitter / Mochio Umeda: はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコ ...はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。
彼らはバカなのではない。
無礼なのだ。
「日本語が亡びるとき」、飛ぶように売れている。
おかげで、昨日の売り上げは一日当たりとしては空前のものであった。残念ながら数を言うことは出来ないが、私の紹介記事に対するはてなブックマーク数よりも多いのは確かだ。
同書のメッセージ、そして著者と私が共有する危機感を、すべての人が理解するのははなはだ困難だろう。バブル崩壊前にバブル崩壊を語っても誰も耳を傾けないことにも似て。
404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるときこの点において、私は著者と危機感をともにする。
それでも、想定以上の人が私の「書評ならざる」紹介記事から何かを感じ取り、自分の目でそれを確認する決定をしたことに、私は大変満足している。
しかし、私は著者と危機感を共有していても、価値観をも共有しているわけではない。
著者は言う。
第七章日本語が「亡びる」運命を避けるために何をすべきか。
何か少しでもできることはあるのか。
凡庸きまわりないが、学校教育というものがある。
そして、その目的を達するにおいて、原理的に考えれば、三つの方針がある。あくまで、原理的に考えればのことではあるが。
Iは、<国語>を英語にしてしまうこと。
IIは、国民の全員がバイリンガルになることを目指すこと。
IIIは、国民の一部がバイリンガルになることを目指すこと。
著者は、IおよびIIが不可能に近い困難であることを指摘した上で、次のように結論する。
IIIを選ばなくては、いつか、日本語は「亡びる」。
まとめると、バイリンガルエリートが日本語を護る盾となり、残りの日本人は日本語を「きちんと」学ぶことで日本語を育み続ける、というのが著者の構想である。
しかし、私にはそれがIIを上回る困難に感じられてならないのだ。
なぜか。
日本には、エリートという伝統そのものがないからだ。
エリートとなりうる人々は、かつても存在したしこれからも存在しつづけるだろう。
しかし、国費であれ私費であれ、エリートとしての能力(capacity)を得た人が、エリートとなったのであろうか。
この国の歴史を振り返る限り、否、と答えるしかない。
エリートとは、強く賢い人々のことではない。
エリートとは、自らより愚かで弱い人々のために命を賭することを、自他ともに認めた人々のことである。
自らと同程度に賢い人々のために殉じた人は、少なくない。戦没者は全てこの中に入るだろう。
自らより愚かな人々のために尽くした人ですら、存在しなくはない。
しかし、それが自他ともに認められたともなると、日本が開国して以来、一人も思い浮かべることができないのだ。
この国において、エリートとしての能力とエリートとしての品格(quality)を持ったことなどかつてあったのだろうか。
反証なら、いくらでも思いつく。その中でも真っ先に思いつくのは、森林太朗である。乃木希典の将帥としての能力不足は今ではよく知られるところだが、その乃木よりも多くの将兵を損なったのが閣下である。閣下は自説に固執して将兵を損なったに留まらず、そのことを一生認めようとはしなかった。
エリートと能力も品格も欠いていたその人のペンネームが、森鷗外である。この人が文豪であることの条件を満たさぬという人は、およそ日本語の使い手には存在しないだろう。
文豪はいても、エリートはいない。
それこそが、この国の形ではないだろうか。
それでは、なぜこの国にはエリートというものが存在しなかった、いや出来なかったかを考えてみる。そして出てきた結論は、この国には文豪を敬う伝統はあっても、エリートを敬う伝統はないということにたどり着く。能力も品格もエリートとしての条件を満たしていた杉原千畝をこの国がどう遇してきたかというのは、そのごく一例に過ぎない。
「反知性主義」という言葉がある。私はこの言葉を充分理解しているとは言えないが、「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」などの書物を通して、そして自らがあの国で過ごしてきた日々を思い起こすことで、おぼろげにそれが一体なんなのかを想像することが出来る。その一方、かの国はエリートに事欠くことはないのだ。
日本は、まさにその反対に感じる。森林太朗を忘れ森鴎外を忘れないこの国には、反知性主義もないがエリートも存在しがたいのだ。
そして、なぜエリートを敬う伝統が生じなかったか。
エリートとなりうる人々に、人々が無礼をもって答えてきたからではないのか。
人々の無知蒙昧に、エリートは耐えねばならない。これはエリートとしての、義務である。
しかし、エリートたりうる人々が、エリートにならねばならぬ義務もまた存在しないのである。
エリートとなるのは義務ではなく、しかしいったんエリートとなれば義務ばかり追う。
そんな損な役割の彼らの唯一の報酬は、敬意である。
そして、この国は文豪には敬意を払っても、エリートには敬意を払うことなく今に至っている。
護るべき伝統を護るために、ありもしない伝統をゼロから作り上げる。
それに比べたら、国民皆バイリンガルの方がよほど簡単な事業に思えてならないのである。
Dan the Layman
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以前に↓を読んで逆に全世界がひとつの言語に統一されたほうがいいと
思いましたね。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_301171.html
(略)
私にとっては、究極の理想は、「一人一言語」である。全世界40億人が、
みな一人一人自分の言語体系を持ち、かつそれが万人に理解できるのが
理想である。
言語というのはあらゆる抑圧がなくなった後にも残る最後の抑圧だと
思う。だいたい語学が苦手だ。英単語を覚えるのが苦痛でしかたなく、
何度も何度もひいた単語をまたひいてしまったときには、屈辱感で胃が
ねじれる思いをする。「こんなこと俺は同意していない! 勝手に決めるな!」と辞書に向かって悪態をつく。数学の定理も物理の法則も私に
納得を求めるのに、単語こそは有無を言わせぬ。全く許せない。
おそらく、法律も経済もみな万民の合意で成り立つようになったと
しても、言語だけは最後までこんな独裁を続けるのだろう。
(略)
あと、typo 見つけました。
s/森林太朗/森林太郎/g;
s/森林閣下/森閣下/g;
「もりばやしたろう」ではなくて「もりりんたろう」ではありませんか。
ここでは現代の話をするとして、
今のアメリカでは大衆がエリートを尊敬する度合いが日本より強いんですか?
スーパーエリートの受験術の概要教えてほしいです!
脚気は、病原菌が原因だといった男だぞ。
よっぽど、虚像が好きなんだな、パラノイヤ諸君は。
>彼らはバカなのではない。
>無礼なのだ。
微妙な言い回しじゃけえセーフでええけど、礼を要求するようになったら、そいつは礼に値せんで? 厳密に言うたら遠回しでもダメじゃけど、そんなん言うたら話にならんけえ、厳密なことは言わんだけなんじゃけどね。
いっこ前のエントリーで「俗人さん」がシャラップ黙れの効能について一理あることを言うとったけど、一理はあっても二理は無いんじゃけえ、そこを踏み越えちゃあ逝けんと思うんじゃけどね。
あと、こりゃまぁ梅田望夫さんの書籍の品質とかそういうのとは全く関係無いんじゃけど、ナンボええ本でも、読むのが誰かによって意味変わってくるけぇね。言うちゃあ悪いが、「お前チンピラじゃろ?」ゆぅて見做されかねんような輩に限って大前研一とか読むんよ。言うちゃあ悪いが、梅田さんもそのラインなんよ。本人どこまで得心しとんか知らんけど。
盛り上がっとるんはお前らだけじゃろうが? とか、
お前らに盛り上がられたらワシらが往生するんじゃがのう? とか、
言われるんよ。残念じゃけど。世の中そういうもんじゃけえ。
良い言説?ゆうのんは、周りに群がるんが必ずしも良い人とは限らん面があるけえ、俗に云う「馬鹿」じゃろうが「無礼」じゃろうが、そおゆうモンの言い分を幾らかでも汲めんことには、行く末話に成らんのんで?
ええこと言うもんの周りにええどええど言うもんばっかり集まって馬鹿と無礼は逝けんのう言い出したら、そいつらが次に何やらかすか言い出すかゆうたら、詐欺か強盗しか無いんよ。詐欺か強盗は、そうと分かっとるもんがやるなら抑えも利くけどが、ええ思うてやりよるもんは抑えを利かさんけえ、よっぽど性質が悪いんじゃわ。
ええ学校出て普通に賢いヤツでも、詐欺のような商売に手を染めたりするじゃろうが。
弾翁は偉いんじゃけえ、そういう人間に成っちゃあ逝けんで?
乃木の行った戦術は当時常識だった。
人並みの生活を平均的な生活と思っている国故に、両極端な無知とエリートが存在しづらいのは最もなのかもしれませんね。
なんか誇大妄想が進行してきた??
やばい人にしか見えんよ…
アフィリエイト狙いでわざと書いてるんならいいけど…
馬鹿同士が群がってるから、
誰も、礼儀を注意しないだけだよ。
いずれにしろ、馬鹿だ。
ま、いわば、コバエレベル。
それなりに気を遣ったテキストが読みたかった。
誤字はあるし、森鴎外や乃木将軍を語ったあたり
文章が急ぎすぎで日本語として駄目。
この文章力で、エリートについて語られても…。
これは水村氏の本にも言える。
ゴリゴリした、読みにくい抽象的なテキストで
危機に陥ってるのがこういう日本語なら仕方ないな、という感じ。
それにしても、インターネットって面白いね。
個人的な鬱憤を他人さんのブログにわざわざ書き散らす輩もいれば
かなり的を射た考察を展開する人もいる。
いずれにせよ、お互いに「礼」はわきまえたいね。
思われ
歴史はくりかえす・・・
いたのではと思う。
武士道はあっても騎士道はないし、Noblesse Oblige なんて言葉もないし。
「ブレーンを活用する」というのがあんまりなかったんでは。
>国民皆バイリンガルの方がよほど簡単
同意。体感だが、昔より英語できる日本人は増えてるし、外国への
コンプレックスは、高度成長期前後は凄かったんじゃないかな。
人によってブレがありそうですが...
日本の人は、鍛えられ選び抜かれたエリートより、
無傷な経歴の秀才が好きだから...
生まれが良ければいっそう好きなのかもですね。
そんなわけで、エリート候補者は日本で尊敬されないのでしょう。
そんな氏が日本語の滅亡とかおっしゃってますが「日本語なめんな」と人文の深淵に棲む人々にさんざん言われて終了〜、と言うオチになると思います。
私も然り。
「馬鹿っていうほうが馬鹿」とはよく言ったものですね。
私にとってのエリートは大村益次郎。明らかに秀才〜天才で判断力もピカイチで、私益を超越した行動もできたけど民衆にとってはわかりにくく、ただのヤブ医者みたいに思われてたとか。
エリートってそんなとこあると思う。劉備玄徳は民衆から尊敬されやすかったかもしれないけど、諸葛孔明はそんな感じではないでしょう?その辺、私と弾さまとのエリート感の違いでしょう。
まだわからないのかねぇ・・・この禅って人はさ
404 Blog Not Foundを読むのをやめた - 池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/93da1c13d0f2ad70922e3f7ce8e3d641
通っていると思われる子同士の会話は英語と日本語がミックス。
発音は両方ともバッチリだし、切り替わりも素早い。
(2) 公立小学校に通っている知り合いのある子は、
親や親と同国出身の知り合いの子達とはスペイン語で会話。
学校や塾では日本語。発音は両方ともバッチリ。
世間に露出しているバイリンガル・タレントを引き合いに
出すまでもなく、『ブレードランナー』とも違う世界が
方針なぞなくとも現実の日本に勝手に存在しているのです。
へぇ〜
はてブとか、あんなのただの垂れ流しの戯れ言なんだから、そんな筆頭に掲げるほどのこともないよ。
旧制高等学校について調べてください


