2008年11月13日 02:00 [Edit]
日本語は誰のものか?
日本語は、それ「だけ」のものだろうか。
「国語」としての日本語は、滅びない。そして英語は道具として使われる。 - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)日本語という「国語」は、国家統合の要であり、象徴なんです。
「ほげ語」=国語というのは、ほげ=日本では成り立つけど、他はそうであるとは言えない。
ブリテン島が沈没しても、英語は亡くならない。イベリア半島が沈没しても、スペイン語もポルトガル語もなくならない。フランスが消滅してもフランス語はケベックやアフリカで細々とではあるが生き残るだろう。ドイツ語ですら、ドイツがなくなってもオーストリーとスイスが残っている。中華人民共和国と中華民国(台湾のことね。念のため補足)がなくなっても、華僑たちが中国語を語り継ぐだろう。ディアスポラしたユダヤ人たちは、ヘブライ語を復活させてしまった。
では、日本語の場合はどうだろうか。
日本が沈没しても、生き残ることができるだろうか。
現状では不可能に近いほど困難なのではないだろうか。
非国民と言われるのを承知で言うと、私にとってより大事な日本は、「国」ではなく「語」の方なのだ。
未成年の頃、日本国は私にとって「やすらげる家」ではなかった。日本国の提供する義務教育は私をさんざん虐めてきたし、家庭内は内戦状態だった。日本語とは、教師が「廊下に立ってろ」というための言葉であり、父親が「ばかやろう」というための言葉であった。
そんな私は、まず英語に逃げ、そして英語圏に逃げた。私にとって英語とは「亡命先」だったのである。無理解と、暴力からの。
そんな私がなぜ日本に戻って来たかはここでは話さない。が、その「亡命先」の言葉を持ったからこそ今私は日本でやっていけているというのはなんという皮肉だろうか。
しかし幸いなことに、日本に幻滅していた私も、日本語には幻滅しきることはなかった。
「文学」(literature)が、あったからだ。
私にとって「文学」とは、漱石や鴎外ではなく、星であり小松であり筒井だった。一言で言うと「SF」であるが、Science Fiction という「英文学」なしには生じなかったはずの文学でありながら、私が耽読する頃にはそれはもうSci-Fiではなく「SF」となぜかアルファベット二文字で表記される「日本文学」になっていた。
この体験は、私に二つのことを教えてくれた。
一つ。「文学」は孤独ではないこと。
日本文学も英文学も、文学どおしに相互連絡がたしかにあるという意味である。
二つ。「訳さざる文」というのは、確かに存在するのだということ。
相互連絡はあっても、ある言語の全てを別の言語に「移行」することは不可能だという意味である。
「訳されざる文」が存在することを知るのに、ブンガクは必ずしも必要ない。ここでは
Life is a bitch so fuck it.
そんなシャレはやめなシャレ。
という駄文を紹介しておくにとどめる。この程度の文ですらもう「訳せない」のだ。訳したとたん、別物になってしまうのだ。
私は「文学」を極めて拡大して解釈している。その定義はこうだ。
「それを十分味わうのに、翻訳ではなくその言語の習得を必要とするもの全て」
「翻訳(translate)」ではなく「移植」(port)という言葉を使えば、さらに簡潔に書ける。
「移植不能な読み物」(non-portable thing to read)
私の言う「文学」は、むしろ英語のliteratureに近いという言い方もできるかも知れない。「文学」より"literature"の方が、もう少し幅が広い概念だ。文学を堪能できても「文盲」とは言わないが、 literature にアクセス出来ないことは、確かに illiterate という。
実はこの点において、「自然言語」と「コンピューター言語」は決定的に異なる。コンピューター言語の場合、理論上移植不能なものは存在しない。チューリング互換な言語Aは、必ずチューリング互換な言語Bに移植可能だ。
にも関わらず、コンピューター言語は一つになるどころか、いくつも生み出されて、今後もさらに生み出されるだろう。なぜか。それが「コンピューターが実行すべき命令」ではなく、「人間が読むべきもの」となった途端、「文学的」になってしまうからだ。
これを最初に「発見」、厳密には「言語化」したのは、Larry Wallだと思われる。
もし言語が単なる表現手段(expression)に過ぎないのであれば、こうはならない。このことは逆に言語の死亡判定にも使える。もしその言語が表現手段に過ぎなくなったとしたら、その言語は死んだのだ。その意味で、まさにラテン語は死んでいる。少なくとも死んだと見なされている。だから「命名用補助言語」として学者たちが使うようになったのだ。
生きた言語は、単なる表現手段ではない。
それは、「考え方の乗り物」(vehicles of thought)なのだ。考え方そのものの乗り物でもあるのだ。その言葉で考える人がいなくなった時点で、その言葉は死んだのだ。
エスペラント語で考えている人は、いるのだろうか。もしそうでないとしたら、エスペラントは生まれてすらいないことになる。エスペラントは簡単だという。しかし、私は未だにエスペラント語で夢を見るという人にお目にかかったことがないのだ。
言葉が表現手段を超えて、考え方の乗り物となるには、クリティカル・マスが必要なのではないか。それは100人かもしれないし100万人かも知れない。それでも、考えるべきことが多ければ多いほど、そして考え方が多様になればなるほど閾値は大きくなるというのは想像に難しくない。
だとしたら。
日本語を日本国に閉じ込めておくのは、日本国民ならざる日本語人に対する不当な差別なのではないか。そして、日本語の可能性に対する不当な過小評価ではないのだろうか。
ジェロは「帰化」しないと演歌を歌ってはならぬとでも言うのだろうか。
「国語」としての日本語は、滅びない。そして英語は道具として使われる。 - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)日本語を話すから、「日本人」という共同幻想のメンバーに加わることが出来る。
これは、正しい。
だからこそ、私は日本国と日本語を「デカップル」しておきたいのだ。
誰であっても加われる共同幻想であって欲しいのだ。
Dan the Nullingual
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クレオールやピジンイングリッシュ、それにケイジャンの生活に脇見してしまい、
プログラミング言語の「方言」や、雨が降ったときの各国人の「しぐさ」に得心しそうになりながらも、
ビークルとしての言語、メッセンジャーとしてのRNAで再び意識は拡散していく。
共同幻想は主語と述語の自由な交換によって増殖、そして心地よく減衰する。
未成年の頃、日本国の中の広島県の中の尾道市の端っこあたりはわしにとって「やすらげる家」じゃあなかったんよ。日本国の中の広島県の中の尾道市の端っこあたりの提供する義務教育はわしをそれなりに虐めてきたし、家庭内はひとり自爆テロ状態じゃったしねえ。わしにとっての日本語は教師が剣山持って頭ゴーンて叩いて血がピューて出るための言葉であり、父ちゃんがお湯割り焼酎飲みながら「一生懸命頑張って、真面目に生きにゃあ逝けんのんじゃ」ゆうて、そのうち絡み酒になってふぉぉぉ〜な言葉じゃったねぇ。
生い立ちが違うんかもね。
皆が皆画一的ゆうこたぁ在りゃせんのじゃけえ、じゃあまぁ、そおゆう地方ではそおゆう言語、わしんちではわし語、ゆうことで、ええんじゃないん? 別に無理して関わらん限り邪魔しあうことは無いんじゃけえ、そんでええじゃん。
問題提起の著作は私まだ未読ですが、すこしコメントさせていただきたく。
イギリスの学校で英文学を教えている友人に聞いた話ですが、英文学という学問の分野が確立したウラには、宗教という枠組みで広大な植民地帝国をまとめきれなくなった大英帝国の悩みがあったようです。
スペイン・ポルトガルといった先行組が「カソリック教会」という精神的支柱をもって異民族を取り込んだのに対し、英国にはそれにかわるものがなかった。そこで「文学」という文化を武器にしたてあげたというわけ。
これが意図せずして「言語のオープンソース化」に結びついたのだと思います。
結果としてキップリングやコンラッドのような「植民地帝国文学」が生まれ、現代の英国文壇はインド系作家やカズオ・イシグロが席巻するようになったわけです。
そのウラには英語が多様になりすぎ「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授のようなぼやきがでてきたわけです。
日本語は明治以来の「統一」の時代がおわり、今「変容と拡大」の時代に入っているのだと思います。仕事などで日常の大きな部分を英語で過ごす私のような人間が、共通言語を有する一定のグループの人たちと情報を共有するのにより便利なコトバ、またグループの一体感がより増すようなコトバに変わっていってくれればと思います。
話題の書の表面をさらって、後は自分の身の上話や得意なプログラミングの話へすり替えていくテクニックは上手いのですが、前のエントリで触れられた「海難記」ブログの2エントリを読んでもわかる通り、かの論説は突っ込みどころ満載だと思うのですが・・・
(前のエントリでは「海難記」ブログの記述を受けて、「正直、同書の読了感はこれとそれほどかけ離れていない」とか、最初のエントリから微妙に軌道修正してるけど、全然違うだろ!)
「今世紀最重要」とかいってアフィリエイトで稼ぐ手法は映画CM並みながら商売だから仕方ないけど、ネタとして長持ちしているからといって、さすがに三連投はきついかと。
それを真に受けてAmazonで購入ボタンを押す奴がバカといえばその通りなのだろうが、弾氏の書評としているエントリの多くは書評にさえなってないんじゃないかなと。(今更だけど、今回は特に顕著なので)
元になった梅田氏のエントリは、同書がご自身の英語コンプレックスをくすぐったゆえに勢いで書いたエントリだと思うけど、自らは評せずに「紹介」しただけだから、ネタ投下役としてはすばらしいし、実際彼の思惑通り、たくさんの人が感想をエントリするわAmazonで一位になるわで、さすが経営コンサルタントと感心させてくれた。(「理解不明」とか変な日本語でボケたり、自社サービス自虐ネタも冴えている)
それを考えると弾氏はおいしいネタをかっさらって商売に持って行くハイエナみたいだな、と思ったのでした。以上感想終わり。
ブラジルに日系人ばかりの村があって、そこの共同体では全部日本語で
やりとりがなされていて、学校でもしっかり日本語が教えられているそう
です。
何かの雑誌で見たのですが、その村の図書館には、日本から持ち込んだと
思われる、弾さんが子供時代くらいの日本の童話とかが、色あせながらも
しっかり読まれているようです。
村人の顔つきも、その頃の農村にこんな顔の日本人がいたなあ、という
質実剛健さが表れているようでした。
1980年代以降の日本の文化はそんなに持ち込まれていない感じでした。
また、台湾のある少数民族の間で日常使用する言語は日本語だとか。
他の言語ほど強くはないが、日本語が生き残る可能性は残されていると
思います。まだ、特殊なケースですが。
先日台湾でインターネットカフェに入った際に、店員にPCを日本語
入力できるよう頼んだら、すぐに設定してもらって便利さを痛感しました。
店員の日本語はカタコト未満です。客も地元の中高生がメインで、
ゲーセン感覚で大ディスプレイのネットゲームに興じていました。
南国の中に中華文化と不思議な日本情緒が共存している台湾は結構
好きです。
お前らみたいな一元的な考えでは、理解できにくいシロモノさ。
俺たちは二千年かかって、この萌え文化を生み出した。
単純に見えてワビとサビが詰まってる。歴史を忘れるなよ
せめてWikipediaくらい見てから話しましょうよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エスペラント母語話者