2008年11月24日 23:00 [Edit]
読書論の極北 - 書評 - 読んでいない本について堂々と語る方法
筑摩書房より献本御礼。
これまた土壇場ですごい本が来た。11月の終わりというのは、「今年のベスト」の締め切りでもあるのだが、読書論に関しては間違いなく本書がベストだ。
そう、読書論、読書術ではなくて。
本書「読んでいない本について堂々と語る方法」に「見栄読書講座」を期待すると、間違いなく火傷する。本書にそれを期待するのは、「数学」と「算数」を混同するぐらい危険である。
では、本書はどんな本なのか?
最もよいのは、著者自身の要約で「斜め読み」してみることである。以下、それができるように目次を「拡張」してみた。
目次 + 要約 - mailで頂いたものを大幅追補。- 序
- I.未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって……)
- 1.ぜんぜん読んだことのない本 - 大事なのは、しかじかの本を読むことではなく(それは時間の浪費である)、すべての書物について、ムジールの作中人物がいう「全体の見晴らし」をつかんでいることであるという話。
- 2.ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本 - ヴァレリーの例が示すように、ある本について文章を書くには、その本をざっと読みさえすれば十分であり、ちゃんと読むことは場合によってはむしろよろしくないという話。
- 3.人から聞いたことがある本 - ウンベルト・エーコが示しているように、たとえ本を入手したことがなくても、他の読者が述べていることを聞いたり読んだりしていれば、本について詳しく語ることができるという話。
- 4.読んだことはあるが忘れてしまった本 - 読んだけれど忘れてしまった本や、読んだことすら忘れてしまった本は、それでもやはり読んだ本のうちに入るのかを、モンテーニュとともに考える。
- II.どんな状況でコメントするのか
- 1.大勢の人の前で - グレアム・グリーンの小説では、主人公の作家が、満場のファンの前で、自分が読んだことのない本について熱心に意見を求められるという悪夢のような状況に直面する。
- 2.教師の面前で - ティヴ族の例が示すように、ある本をまったく読んでいなくても、それについてまっとうな意見を述べることはできるという話(専門家はこうした意見に不満かもしれないが)。
- 3.作家を前にして -
- 4.愛する人の前で - ある人を、その本の愛読者だが自分は読んだことはない本の話をして誘惑するにはどうしたらいいか。ビル・マーレイと彼のウッドチャックの話は、その場合の理想的な方法は時間を止めることだと教えてくれる。
- III.心がまえ
- 1.気後れしない - デイヴィッド・ロッジの小説にもあるように、読んでいない本について語るための第一の条件は気後れしないことだという話。
- 2.自分の考えを押しつける - バルザックが示しているように、書物というものは普段に変化する対象であり、インクに浸した紐をかけてもその変化を止めることはできない。それだけに書物について自分の視点を押し付けるのは簡単だという話。
- 3.本をでっち上げる - 漱石の小説を読みながら、一匹の猫と一人の金縁眼鏡の美学者が、活動分野はちがうもののいずれも大ぼらを吹くさまを観察する。
- 4.自分自身について語る - オスカー・ワイルドとともに、一冊の本を読むのに適した時間は一〇分であると結論する。これを守らなkレバ、本との出会いはなによりも自伝を書くための口実ということを忘れかねないからである。
- 結び
- 訳者あとがき
十分に豊かな読書体験を持つ人であれば、これで本書を読んでみる理由としては十分なはずである。今すぐ注文を入れてほしい。以下は、そうでない人のための解説。
繰り返しになるが、本書は読書論であって読書術ではない。読書術、すなわち「どうやったら本をもっとよく読めるのか」に関しては、すでに多くの良著がある。ケーススタディーも少なくない。手前味噌であるがこの点に関しては「私をつくった名著 人生を変えた1冊 黄金のブックガイド」もお薦めできる。
しかし、読書論、すなわち「読書とは一体なんなのか」「何のために読書するのか」に書いてきちんと書かれた本というのは、実はそれほどない。読書術の本には居酒屋のツキダシのようにそれについてさらっと書いてあるし、読書術を習おうとするものはすでに「読書が必要」であることは当然(taken for granted)と思っていらっしゃるのかも知れないが、しかしあなたはなぜ読書が必要なのかを本当に納得していらっしゃるのか。
本書は、まる一冊かけてこの設問に答えている。あなたはハムレットを知らないはずのティヴ族が、ハムレットを「あたりまえ」のように知っているはずの人類学者より的確で鋭い論評をする場面を見て驚くかも知れないし、厳密には「我が輩は猫である」ではなく"Je suis un chat"、すなわちフランス語訳しか読んでいない著者が、あの水村美苗に勝るとも劣らぬほど斬新な視点を提示することに感嘆するかも知れない。
そんな著者にとっての読書とは、一体なんなのだろうか。以下が著者自身のまとめである。このパラグラフだけでも、もし「高校生のための文章読本」に載せてもらいたいぐらいだ。いや、「〜の批評入門」の方が的確か。
P. 211読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまでも通過点でなければならないという点である。良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者が実践するのは、書物の各々が自分自身の一部をかかえもっており、もし書物そのものに足を止めてしまわないような賢明さをもち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれることを知っているのだ。[引用注:太字は傍点の代わり]
もっと短くまとめると、
「弾言」 P. 27本を読んだら、今度は「自分」を読め
ということになる。
訳者あとがきこの本は売れるだろう。いや、売れるにちがいない。ただ気がかりなところが一つだけある。「本を読まないですませる」方法を説く本書が売れるということは、その売り上げに比例して他の本が売れなくなるということである。いや、ひょっとしたら、この本だって「読まずにすませる」輩が出てくるかも知れない。ピエール・バイヤールは結局自分で自分の首を締めていることにならないか。
いや、私が売る(笑)。で、その懸念は不要だとも言っておく。およそこの文脈において、本書ほどよく書けた「要約」を私は知らない。本書について「すませる」最短距離は、本書を読んでしまうことなのだ。弾言かつ断言できる。私よりもっと多く、もっと深く本を読んできた先輩方も首肯してくれるに違いない。
Bonne lecture!
Dan le lecteur
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もしかして、弾言のやり方の指南書ですか :)
「普段」→「不断」?
