2009年04月11日 01:30 [Edit]

書に遊ぶ - 書評 - 多読術

筑摩書房松本様より定期便にて献本御礼。

ちくまプリマーというレーベルで、この著者で外れるわけがないという、「この題」を、「この著者」が、「このレーベル」からというのがすべてどんぴしゃにはまった快著。


本書「多読術」は、千夜千冊の中の人が、読書について語った一冊。本書は松岡正剛本人が著したのではく、松岡正剛のインタビューを編んだものである。おそらくは営業上の都合で「松岡正剛」は著者名として現れてはいるが、本書において、実は「松岡正剛」は「被著者」なのである。

それが素晴らしい。

本書は、松岡正剛という希代の編集者が、編集されたものなのである。

そう。編集者。博覧強記を通り過ぎて迫乱狂気とでも呼びたくなるほどのあまりの遊びぶりに、何者かわからなくなりそうになるが、「著者」は編集者なのである。

そう、「遊びぶり」。「仕事ぶり」、ではなくて。

「著者」にとって読書とは、なによりも遊びなのである。

だから、私が本書に感じた一番の不満は「多読術」というあまりに勤勉なタイトルなのである。「著者」にとって多読はあくまで遊読三昧の結果であって原因でも目的でもない。編集工学研究所に六万冊(あまりに心地よくて、私は紙魚になりたくなった)、自宅に二万冊というのは、たしかにそれだけ取り上げれば「多読」ではあるけれども、1944年生まれの著者が、ものごころついて以来遊び続けてきた結果としてみれば、決して多くはない。

P. 8
 世の中には酒豪とよぼあれる人がいっぱいいるように、読書家や多読家はたくさんいるものです。本豪ですね。井上ひさしさんなどは別格としても、著述家には驚くくらい本を読む人がいて、身近にもぼく以上の読書家はけっこう多い。そういう人って、ふだんはいろいろな仕事をしているけれど、やっぱり本が大好きなんです。主婦にも多い。
 ぼくのばあいはそうした読書体験を、たまたま「千夜千冊」としてウェブに書いたから、そう思われているだけでしょう。ふつうは、どういうふうに読んだかって、わからないですからね。飲みっぷりは見えるけど、本豪の読みっぷりはわからない。

そんな「著者」が、どう本と遊んできたかの抄録が、本書なのである。本書の魅力は、その自由自在な「著者」の読みっぷりにある。読書が見直されている最近の風潮は、読書で遊びまくっている私にもうれしいことではあるけれど、しかし読みっぷりが勤勉な人が多すぎてちょっと心苦しかっただけに、「著者」の読みっぷりが春風のように爽快だった。

P. 12
まず言っておきたいことは、「読書はたいへんな行為だ」とか「崇高な営みだ」だと思いすぎないことです。それよりも、まずは日々の生活でやっていることのように、カジュアルなものだと捉えたほうがいい。たとえていえば、読書は何かを切ることに似ています。読書はファッションだと言ってもいいくらいだけど、もっとわかりやすく言えば、日々の着るものに近い。

しかし「著者」が粋なのは、「遊読」という言葉を一切使っていないこと。これがあえてそうしているのだということの傍証を、以下に見ることができる。

P. 126
以上のことをわざとちょっと熟語っぽく言うとすると、たとえば次のようになりますね。「感読」「耽読」「惜読」「愛読」「敢読」「氾読」「食読」「録読」「味読」「雑読」「狭読」とか、また「乱読」「吟読」「攻読」「系読」「引読」「広読」とか、それから「精読」「閑読」「蛮読」「散読」「粗読」「筋読」「熟読」「逆読」といったふうにね。

このあえて書かない方法は、「著者」の常套手段であると同時に、「 日本という方法」に欠かせない方法でもある。私を「著者」に引き合わせて下さった方が、著者を「日本の宝」と評していたが、同感無量である。それは「著者」が「得難い人材」という意味もさることながら、著者の「読みっぷり」が日本というものの「ありっぷり」を体現しているからであり、だからこそ著者は遊読者であり、編集者なのである。

そう、編集者。

創造者では、なく。

極論してしまえば、我々は何も創造できず、ただ編集あるのみではある。我々に出来るのがすでにそこにあることの並べ替えでしかないのであれば、我々はすべて編集者ではあっても、創造者ではない。しかしここではあえて創造と編集の違いというものを考えてみよう。

創造と編集の違いは、なにか。

「原作」が残っているかどうかだと、私は思う。

裏を返すと、「創造」とはどれだけ「原作」がわからないほど細切れにしてつなぎ直すことだとも言える。脅迫状よろしく一字一字切り貼りしてはり直したものは、「編集」だとわかるけれどももはや「原作」の持っていた「質」はそこにはない。これは「編集という名の創造」の、わかりやすく無粋な例である。

「著者」の編集は、違う。それが「著者」の「編集物」だということは否定しようがないにも関わらず、「原作」は失われていない。著作物であると同時に編集物でもある。これが、「著者」の宝であり、そして日本の宝でもあるのではないか。

もし日本が世界の宝であるとしたら、その宝の価値は文化の編集者という点にあるのではないか。

そしてなぜ「著者」が、そして日本が世界の宝であるかといえば、やはりこの本に行き着く。こちらにおいて「著者」は括弧抜きの著者である。

なぜ、弱さは強さよりも深いのか?

編集の妙は、いかに素材となる弱きものを、深さを損ねず魅せるかにあるのだとしたら、編集の心は、「もののあはれ」にこそある。そしておよそ人のなすことの中で、遊びほどあはれなものはない。

「失われた十数年」と人はいう。失われたのは何だろう。希望?成長?

遊びなのかも、知れない。

しかし、それは失われたのではない。見失われただけなのだ。それを見つけ直すのはそれほど難しくない。本書と遊ぶだけでいい。私は著者と四時間も話遊ぶ機会を得た。みなさんには申し訳ないほど贅沢な時間だったけれども、しかし本書があれば、それはあなたにも出来る。そして書があれば、もう亡くなった著者とも遊べるのだ。

Enjoy!

Dan the Player


この記事へのトラックバックURL

この記事へのトラックバック
  松岡正剛 さんといえば言わずと知れた 「 千夜千冊 」 の管理人です。その松岡さんが本の味わい方について語った本が 『多読術』(ちくまプリマー新書) です。本書では読書術のことばかりではなく、松岡さんのこれまでの読書遍歴や「千夜千冊」の裏話、松...
自己編集としての読書――松岡正剛『多読術』を読む【平岡公彦のボードレール翻訳日記】at 2009年06月13日 20:45
アルファブロガー小飼弾さんの404 Blog Not Foundで、 『書に遊ぶ - 書評 - 多読術』というエントリー。 あの編集工学の松岡正剛さんの新著、『多読術』について触れています。 松岡正剛さんにとって、読書は遊びなのに、 多読術というタイトルをつ...
書に遊ぶ書評多読術―その遊び方をみるだけで、その子が人生にどう向き合っているかがわかる【横浜市-メンタル 整体,産後 整体,小児 整体-腰痛,首痛,自律神経失調が得意分野の訪問整体治療室】at 2009年04月13日 08:25
この記事へのコメント
目次がない...
Posted by 名無しさん at 2009年04月14日 17:14
わたくし、松岡校長の編集学校に在籍してことがありますが、彼が間違った知識を持っていることは、けっこうあるようです。たとえば、わたしは禅をやるのですが、彼の理解は本から得た知識の曲解であって、実際に坐りまくって身に着けた境地ではありません。

にもかかわらず、彼は「知の巨人」のひとりであり、そのメソッドは多くの人たちにとって有用ではあります。
Posted by 蓮風 at 2009年04月13日 15:33
>もう亡くなった著者とも遊べるのだ。

最後のこの一文、
「松岡氏がすでに亡くなっている」とも読めてしまいます。
文脈上、『著者』でも『「著者」』でも松岡氏を指しているように
受け取れるので、重箱の隅ですが気になりました。

ひとつ前のコメントは誤送信につき無視してください。
Posted by しばらくお待ち下さい(eno7753) at 2009年04月12日 12:58
>もう亡くなった著者とも遊べるのだ。
Posted by しばらくお待ち下さい(eno7753) at 2009年04月12日 11:59
参考までに以下をどうぞ

[misc] まえからとんでもだとはおもっていたけれど
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090125/p3

松岡正剛って胡散臭いですね。
Posted by 北斗柄 at 2009年04月11日 07:25