2009年04月25日 23:30 [Edit]

理にかなった情 - 書評 - 情緒から論理へ

教科書に使いたい良本。だけにオビの使い方がもったいない。

「「国家の品格」に異議アリ!」とはあまりに品格がなさすぎる。


本書は、「情緒の夫」としての論理の大切さを、情を損なわずに説いた一冊。著者による「なぜ勉強するのか?」の言葉を借りれば、理解力と想像力と表現力に三つを兼ね備えた良著である。

はじめに
第一章 論理が日本をよくする
対立概念で世界を見る
母性に振り切れた針を戻す
なぜ勉強するのか?
学校教育は子どもの能力を高めるか
第二章 論理的とはどういうことか
大局観を持つ
データにのっとって議論する
言葉で伝える
筋道を立て、勇気をもって表現する
企業と資本主義の論理
国民的議論を避けてはいけない
論理はどこからきたか
第三章 なぜ論理が大切なのか
藤原正彦氏に異論を唱える
世界に共通する論理を求める
第四章 情緒的すぎる国
秋葉原無差別殺傷事件はなぜ起きたか
教員免許更新より免許廃止を
高速道路バイク二人乗りは本当に「危険」なのか
ライフジャケットで命は守られるか
優しいサービスがムダを生む
根拠なき懐古主義に陥ってはいけない
第五章 情緒的民族の失敗
日本人は戦争に長けていたか
日露戦争が生んだ過信
太平洋戦争に至る非論理
目的の不徹底と根拠なき楽観〈ミッドウェイ海戦〉
己へのうぬぼれ、敵への過小評価〈ガダルカナル作戦〉
無謀がまかり通る不合理〈インパール作戦〉
アウシュビッツを上回る効率的大量殺人
「外道」だった作戦〈特攻〉
想像力のなさが生んだ判断ミス〈終戦工作〉
現代にまで続く教育のゆがみ
人は過去から何を学ぶべきか
おわりに

その中で、確かに「国家の品格」批判も登場する。これ、今まで目にした批判の中では最も良いもので、論理的でありながら情の乗った、批判かくあるべしというものではあるが、しかし本書の狙いが一段とスケールが大きい以上、あのオビは本書を卑小化してしまうのではなかろうか。

論理は情緒と対立するものではあるが、しかしトレードオフの関係にあるのでは決してない。むしろ私は情の強い人ほど論を発達させるという持論すら持っている。優れた論理の使い手は、単に理路整然としているのではなく、情を乗せるのが実にうまい。著者が日本のみならず世界に通じる作品を生み出してきたのも、「理にかなった情」あってのことだというのが本書を一読すれば明らかとなる。

「理にかなった情」ということで思い出されるのが、「シンドラーのリスト」だ。シンドラーの行動そのものは、情に突き動かされたものであることは見間違いようがない。「ユダヤ人を助けた方が得」という、理の帰結ではああはならない。しかし実際にユダヤ人を救うにあたって、シンドラーはあくまで論理的なのだ。

「この小さな手が、45mm砲弾の薬莢を磨くのに必要なのです」。リストの長さを少女一命分延ばしたのは、情ではなく理の力だったのだ。

本書が訴えている論理とは、そういう論理だ。

情緒なき論理は犯罪であり、論理なき情緒は寝言である。

Dan the Logically Emotional


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この記事へのコメント
彼女は個人の問題ではなく社会構造としてのゆがみを指摘しているのに対し、小飼弾さんは感情で反応しているだけのような気がする。「高偏差値大学の卒業生というのが、その時点では「人が作ったゲームの高得点者」に過ぎないということがある。」という社会構造がおかしいと彼女は言っているのである。日本の教育システムがなぜ作られたゲームで高得点を取ることに価値を置きそれに大半の国民を没頭させるのか、という社会構造の問題である。それは彼女の弾氏への反論を見れば明らかだろう。その趣旨を正確に理解できていない。感情で反論している。大半の読者には受けがいいんだろうけど。実務でバリバリやってきた人が陥りがちな「自身の経験」至上主義。
「頭がどれだけ優秀か、というのは、どれだけのことを自分ごととして頭がとらえられるか、ということ。裏を返せば、それをどれだけ社会ごとという名の他人ごととして頭がとらえるかが、バカの度合いということ。」これは社会問題を議論する以外の状況において非常に大事であると私も思うとあえて言っておくが、社会問題を論じる際、結果自己責任論を押し付けてしまう要因、源泉になっているのだろうと私は思う。皮肉なことに。
たとえば「反貧困」湯浅誠では貧困が自己責任論に回帰されてしまうのは、貧困を生みだす要因を正すことにつながらない、という趣旨のことを述べている。この本でも自己責任論を押し付ける代表格としていつも登場するのは実務家の人たちであった。皮肉なことに自分はどんなにつらい時も奮い立たせてやってきた、という想いがその基礎的条件すら有してなかった人にもできるはずだと自己責任論を押し付けてしまうのである。
Posted by 2008年7月30日の記事への提言 at 2009年04月26日 04:32
藤原正彦の「国家の品格」は、ちょっとやそっと駄目な本ではなくて、「水からの伝言」に匹敵するくらい徹底的に駄目な本だ。そのことは、知的な意味での中間層(読み書きは出来るけど自前の脳味噌を持っているとは言い難い層)に対して僕らインテリがきちんとお伝えしなければならない事柄だと思う。さすればこの帯は大変良い試みだ。
Posted by Kei at 2009年04月26日 08:53
弾さん おひさしぶりです。

「情緒なき論理は犯罪であり、論理なき情緒は寝言である。
との点、激しく同意してしまって、嬉しくなって、ついコメントいたしました。(^^

昨年、福祉について書籍を書きあげる計画はあったのですが、凝り性のせいで、一週間で8万文字書き上げた瞬間、重度の鍵症炎に落ちってしまいました。年には勝てなくなりました。(^^;

今回、有料メルマガを創刊することになりました。

私よりも多くのアクセスと読者の支持を得ている弾さんのほうが、有料メルマガ発行にはふさわしいと思っています。

ところで、ご挨拶もかねて、小一時間ほど弾さまに実際にお会いしたくなりました。(PC音痴のところのある私は、弾さんのメールアドレスをよく分かりません。)

上記、連絡先のめるアドに連絡いただけたら、とても幸いです。
なにとぞよろしくお願い申し上げます。
Posted by 藤井 まり子 at 2009年04月26日 11:41
ほとんどの人はその人なりの論理でものをいってると思いますけど。理論無き論理は寝言である、と言ったほうがいいと思いますね。

Posted by 寝言 at 2009年04月26日 12:24
論語では、
学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し
という表現だったと思う。
Posted by Kei at 2009年04月26日 14:44
2008年7月30日の記事への提言

彼女は個人の問題ではなく社会構造としてのゆがみを指摘しているのに対し、小飼弾さんは感情で反応しているだけのような気がする。「高偏差値大学の卒業生というのが、その時点では「人が作ったゲームの高得点者」に過ぎないということがある。」という社会構造がおかしいと彼女は言っているのである。日本の教育システムがなぜ作られたゲームで高得点を取ることに価値を置きそれに大半の国民を没頭させるのか、という社会構造の問題である。それは彼女の弾氏への反論を見れば明らかだろう。その趣旨を正確に理解できていない。感情で反論している。大半の読者には受けがいいんだろうけど。実務でバリバリやってきた人が陥りがちな「自身の経験」至上主義。
「頭がどれだけ優秀か、というのは、どれだけのことを自分ごととして頭がとらえられるか、ということ。裏を返せば、それをどれだけ社会ごとという名の他人ごととして頭がとらえるかが、バカの度合いということ。」これは社会問題を議論する以外の状況において非常に大事であると私も思うとあえて言っておくが、社会問題を論じる際、結果自己責任論を押し付けてしまう要因、源泉になっているのだろうと私は思う。皮肉なことに。
たとえば「反貧困」湯浅誠では貧困が自己責任論に回帰されてしまうのは、貧困を生みだす要因を正すことにつながらない、という趣旨のことを述べている。この本でも自己責任論を押し付ける代表格としていつも登場するのは実務家の人たちであった。皮肉なことに自分はどんなにつらい時も奮い立たせてやってきた、という想いがその基礎的条件すら有してなかった人にもできるはずだと自己責任論を押し付けてしまうのである。

Posted by 2008年7月30日の記事への提言 at 2009年04月26日 16:43
× 理解力と想像力と表現力に三つを兼ね備えた
○ 理解力と想像力と表現力の三つを兼ね備えた

ではないですか?
Posted by 通りすがり at 2009年04月27日 10:19
>優れた論理の使い手は、単に理路整然としているのではなく、情を乗せるのが実にうまい。

特にサヨク系のリーダーはそんな感じですね。
Posted by 俗人 at 2009年04月27日 13:00
ほんとにそう。
左翼の得意技だね。
Posted by もにゅ at 2009年04月27日 21:53
まるで右翼が頭が悪くて性格も悪いみたいじゃないかプンスカプン
Posted by あたらずとも at 2009年04月28日 19:11
爆問学問京大編がユーチューブで見れます。
Posted by 重要通知 at 2009年05月18日 03:52