2009年06月14日 01:30 [Edit]

日本の寺がなぜ駄目なのかがわかった - 書評 - 出家の覚悟

先日行われた長老との対談の際に出版社から頂いたもの。

著作出しまくりの長老であるが、僧との対談は珍しい。

おかげでわかった。

なぜ「釈迦の言葉」には惹かれても、お経なり念仏を聞きに寺へ行く気が全く起きないのかが。


本書「出家の覚悟」は、猫殺しで有名(?)な日本の住職と、「仏教は心の科学」と言ってはばからないスリランカの比丘とによる対談。

目次 - サンガ(samgha) 出家の覚悟〜日本を救う仏教からのアプローチ〜より。
出家するということ
日本仏教の現在
悟るということ、知るということ
根底から揺らぐ現代日本社会
生と死、命の問題をめぐって
自己と他者
仏教の果たしうる役割

日本の寺で行われているのは、「仏教」という名の一宗教ではあるが、「釈迦の教え」の実践ではない。今ならそういい切れる。

そう言い切るための証拠はいくらでもある。が、本書に提示されている証拠は、日本には「入寺」はあっても「出家」がないということだ。共著者の南は、まさに出家を期待して永平寺へ入門する。しかしそこは僧=サンガではなかった。

P. 39
 日本では僧院に入って、サンガの中でまじめに志が続けば、きちんとお坊さんの道をまっとうできる、というようなシステムがありません。
 日本の仏教集団は、いわば住職集団なのです。つまり、僧侶として立つには、一カ所の住職にならないとできないような仕組みになってしまっている。

平たく言えば、日本において僧というのは、「生き方」ではなく「職業」なのだ。まさに僧職系というわけだ。そして寺というシステムは、人々の救済ではなく、寺というシステムそのものの維持を第一目的にしている。少なくとも外からはそう見えるし、「中の人」である南もそれを率直に認めている。

輪廻の輪から抜けるというのが「悟る」ということなのに、寺のシステムそのものが輪廻していて悟れるわけがないではないか。

寺というシステムだけでも「釈迦の教え」に反しているのに、さらに追い打ちをかけるように、日本においては僧侶が妻帯してもよいことになっている。妻帯。そう。家をつくっちゃってOKなのである。出家しているはずなのに。

僧職系男子だけど | 坊主めくり
本来徒弟制の世界を世襲にした事で
伝統仏教系教団は(半僧半俗などの宗旨を除く)
回復不能なダメージを受けてるのに
なぜ、さらに続けようとするのか…

その「続けよう」というのがまさに「苦」というのが「釈迦の教え」であったはずなのだが。

しかし、妻帯OKの「現代日本仏教」は論外としても、それでも大乗仏教の言っていることは、聞けば聞くほどわからなくなる。禅に至っては問答のための問答という感じで、あれのどこに救いがあるのかわからない。しかし、ブッダの生の言葉--に最も近いと思われるテーラワーダ(というラベル付けも本当はよろしくないと長老はおっしゃるが、便宜上)の主張は、全然難しくないのだ。

誤解しないで欲しい。それは「のみこむのに」という意味であって、「やるのに」という意味ではない。誰もが悟れるはずなのに、悟った人が滅多にいない最大の理由はそれだと思われる。それでも、釈迦自身の問答は、実に分かりやすく、議論のための議論、論理のための論理といった無駄がない。

なのに、なぜ寺だの仏像だのという装置や、簡単なことを難しくしただけにしか思えない経典だのがわんさかあるのか。そしてそちらをありがたがる人の方が、釈迦の「生説法」より人気があるのか。

そのあたりを、長老に直にたずねてみた。

返ってきた言葉は、実にシンプルなものだった。

対談にて
ああ、あれはヒンドゥーなんです。

目どころか全身から鱗が落ちましたね、どさっと。

確かにそれなら五六億七千万年後に弥勒菩薩が....なんて話が出てくるわけです。わかります。

しかし、それを「邪教だ」と声高に非難しないのもブッダ的。あくまで「自分の間違いは自ら見つけよ」というのがブッダウェイ。釈迦は自ら真理を見つける喜びを相手から奪ったりしないのだ。それがどれほどのものかは、「的中する生き方」の第4章に出てくる、バラモンのソーナダンダと釈迦との問答に見事に現れている。釈迦はブッダである前に、最高の教師でもあった。生徒から答えを奪うのは、殺生に勝るとも劣らない破戒だったのだろう。

皮肉にも、それが「釈迦の教え」が一度は本国インドで滅びてしまった理由の一つでもあるのではないか。「釈迦の教えが」「正しいこと」をもっと声高に叫ぶ、「やったらやり返す」「普通の」宗教であったならば、ああはならなかったのではないか。

ある意味、大乗仏教というのは「非仏化」することによって「生き残る力」を増したのかもしれない。

しかし、「釈迦の教え」というのは、「生き残る」(survive)ためではなく「生きる」(live)ためにあるのではないのか。

僧職系のみなさんは、私には忙しすぎるように見える。

生きるのではなく、生き残ることに。

Dan the Man

恐山あれこれ日記: 黄身と白身
「長老は、召し上がらないのですか?」
「ええ、私は食べません。それは私の食べるものとは違うのです」

私との会談の時には飲み物が出ただけですが、長老もきちんと召し上がってました。こういうのも何ですが、普通に飲み、普通に話し、普通にもトイレにも行かれる、普通の人間でいらっしゃいました。よい意味で神々しいところがなかった。だからこそ普通の人間である私にも通じる話しが出来るのではないかと感じました。釈迦もそんな存在だったのではないかという思いは日々強くなるばかりです。


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小飼弾さんとスマナサーラ長老の対談に同席しました。 星氏と共に、以前からこの二人を会わせられないかと思っていたのですが、思いの外すぐ実現しました。しかも、予想以上のスウィング。 始終、弾さんとっても楽しそう。長老もご機嫌。笑いの絶えない4時間強(!)でした...
弾vs長老【新田ヒカル公式blog 225先物「投資の真理」】at 2009年06月14日 19:48
小飼弾氏の書評ブログ「404 Blog Not Found」にスマナサーラ長老と南直哉師(曹洞宗)の対談集『出家の覚悟』の書評が掲載された。 出家の覚悟―日本を救う仏教からのアプローチ 作者: 南直哉, アルボムッレスマナサーラ, Alubomulle Sumanasara 出版社/メーカー: サンガ 発
[本の話題]404 Blog Not Foundに『出家の覚悟』書評掲載【ひじる日々 東京寺男日記 ehipassiko!】at 2009年06月14日 19:23
この記事へのコメント
↑このコメント削除しなくていいんですか、このブログの管理人様。

あとで、大騒ぎの火元になる可能性もありますよ。

まあ、念力で呪殺する分には、まず、警察は立件不可能だろうから、どうということもないのかもね。べつにこのブログの管理人様が共犯者幇助者として刑事被告人になることもありえないしね。
Posted by enneagram at 2009年10月06日 12:50
すずりでも、文鎮でも筆でも墨でも、その気になれば容易に凶器になります。

文房具は、普通は字をかくためにあるのですが、すずりや文鎮で脳天を強打して人を殺したり、筆で目をつついて相手を失明させることもできます。朱墨を昔のように銅や水銀で製造すれば、朱墨で人を失明させたり、傷口を腐敗させて殺害することもできます。

単なる裏山の散歩だって、トリカブトが自生している山なら、トリカブトを摘んで、煮出しておいて、それで、毒を盛ることができます。

よのなか、どんなよいものでも凶器にならないものなどありません。

仏教も同じ。念を集中させ、気を練る手段として用いれば、般若心経や観音経や延命十句観音経だって、仇敵の呪殺のための呪文にできなくはありません。だから、だれでもかれでも仏教の経典を読み書きする能力など、昔は付与しなかったし、一般人はそういうものに近づくことも許されなかったのです。

私も、ずいぶん、訓練をつんだから、神仏の力をお借りして、仇敵の呪殺を試みるかもしれません。成果が出たら、公然と報告することにします。ただし、詳細は伝えません。まねして、呪術力を乱用するやつが方々に出現したりすると困るから。密教が密教として、内容を一般公開できないのは、こういう事情のためだろうと思います。
Posted by enneagram at 2009年10月06日 08:28
日本の寺、というくくり方はあまりに雑駁すぎます。
「日本にはオープンソースの動きは根付いていない」という発言と同種の傲慢と無知を感じます。
批判のエントリを起こす前に、己の増上慢を顧みるべきです。
Posted by 通りすがり at 2009年06月18日 19:48
間違いも3代続くと正しいことってなもんで、いまや坊主の息子が出家して家を継ぐ。なんていう世も末なことを普通に要求されたりします。
が、仏教界サイドはおかしさを十分承知しつつも積極的には是正しないです。根本的に仏教の力で世界を救おうとかみんなを救おうとかいう思想ではないですからね。なにしろ仏教滅亡・世界滅亡が最終予想なくらいですから。無理にそれを覆そうとするようなことはしません。(そのため日蓮宗などは異端視されたわけですが)
しかし、「よい教師」ってのはいい例えですね。答えを暗記させても理解できるわけじゃない。ネタバレ厳禁。そしてそうなるとこことか私のこのコメントのように教えたがりがぶち壊すってのも定番です。
Posted by poc at 2009年06月15日 20:06
全員にゼネラリストであることを求めるのは難しいんですよ。
ですのでより現実的な方法としてスペシャリスト集団として分野ごとに専門化していったわけです。
医者が分野別に分かれてるのと同じです。根源的には人体という共通の理解を目指すものですがその現れ方には違いがあるんです。
麻酔・栄養剤・強壮剤などなど役割ごとに宗派が分かれていったわけで、状況に応じて選べばよかったんですね。

もっとも、日本仏教の場合、江戸時代の檀家制度の誕生によって選択肢が固定されちゃったんですよね。
それまではその人の状況次第でどこに行くか選べばよかったのにひとつの寺に結び付けられてしまった。
押し付けられていた戸籍管理業務が政府に引き上げられた明治になると氏の解放のせいで今度は別の需要ができちゃったので元には戻れなかったんですね。
Posted by poc at 2009年06月15日 19:38
なんかもめてるな

あれは「ヒンドゥー」ですね、ってのは、おそらく真言宗に代表されるような、中国やインドの土着宗教と融合した仏教(もどき)のことでしょう
例えば、頭がよくなることで有名な「のうぼうあかしゃ〜」なんてのを考えてもわかるとおり、悟りとか解脱というよりも、現世利益の追求が真言宗系の仏教の目的です

だからといって真言を唱えるのが悪いわけではなく、いろいろ体にいい効果があるので、むしろ真言を唱えるのを勧めたいぐらいなんですが(私も実際にやって効果を実感しましたし)、これを仏教といっていいものかどうか

ただ、スマナサーラが誤解してるのは、大乗とひとくくりにしてること
日本の大乗仏教にも、きちんと止観をするところ(禅宗系)も少数ながらありますね
実際に修行してるかは別として
Posted by BNF at 2009年06月15日 12:02
日本仏教は確かにブッダの生きた時代のものとは大きく変容しています。
しかし、それは仏教に限ったことではなくキリスト教でもイスラム教でも起こっていることだと思います。
寺というシステムは地域のまとまりをみる中でとても大切なものです。特に地方に行くとそれを強く感じます。
お坊さんは簡単なことを難しくした経典というものをいかに分かりやすく伝えるかという事を研究されています。ただ難しく言う人もいることは事実ですが…。

日本人は宗教が無い(お盆はあるしクリスマスもある)とよく言われますが、逆の見方をすればその寛容性が日本の仏教を国策としての利用価値をもたせたり、人々の信仰を集めることができた所以ではないでしょうか。

乱文で申し訳ないです。
Posted by ふき at 2009年06月15日 09:44
土着宗教との混交を通じて仏教が変容してしまったというのを
ネガティブに捕らえすぎなんじゃないか?

原始仏教もインド固有の宗教とアーリア人の思索文化との
交わりで生まれたとは思わないか?

ぜまぜしましょうよ。
Posted by 東仁坊 at 2009年06月15日 09:31
こんにちは。本来お寺とは今を生きる人のために機能するものでしょう。お釈迦様はそうされました。出家して自らの人格を向上しながら、俗世間で生きる人々の問題を修行を通した智慧と慈しみで解決したり、相談してあげる。今の日本のお寺は閉鎖社会です。お寺の機能をきちんとすれば、それは「生きる仏教」となります。その代表例がスマナサーラ長老の法話であり、瞑想指導であり、個人的な人生相談です。スマナサーラ長老がこのような対談を成功されるのも、日本という異国の地で「生きる仏教」を実践し効果をあげているからに他なりません。お幸せでありますように。
Posted by 新 at 2009年06月15日 08:21
キリスト教なんて、もっとわからん。
あれ(聖書)を真面目に信じて疑わないというのも、幸せなのかもしれない。
Posted by ほえー at 2009年06月15日 01:46
「あれはヒンドゥー」という初期仏教研究者ってたまにいますが(もうちょっと知識がある人なら「あれはバラモン」といいます)、なぜそれが学会で主流とならないのか。もう少し専門書を読んだ方がいいのではないかと思います。
長老のおとぎ話を読む時間があるなら、finalvent氏のようにある程度ポイントを押さえるための基礎知識を身につけたほうが価値ある時間となるはずです。
Posted by 名前 at 2009年06月14日 23:35
>>ああ、あれはヒンドゥーなんです。

今時輪廻なんかをまともに信じている長老様のほうが日本仏教よりよほどヒンドゥーだと思うが・・・
Posted by スル at 2009年06月14日 23:30

なぜでたらめを。。
Posted by at 2009年06月14日 22:52
小飼さんがこの長老と対談とは意外でした。
テーラワーダ仏教、と言うかこの人の本は僕もすきなんで先月ついついこの長老のライブに行ってしまいました。
Posted by He at 2009年06月14日 20:32
宗教に限らず、よい「もの」や「こと」の本質ってとてもシンプルで単純ですよね。
けれども、これをこの三次元の空間に具現化(表現)することがとっても難しい。

具体化(表現)のツールとして、現代では多くの言語と行為がセットアップされてる事実には幸福と感謝の念を感じるものの、その副産物たる複雑(というより煩雑)な(人間感情を含む)社会構造に圧迫されてアップアップ。

とはいえ、その対処として素晴らしき教育機関がガッツリ充実していて、そこでカリキュラムに従った手順さえ踏めば、様々な便利ツールをある程度使いこなすことが可能なのはわかりつつ、とはいえそこを通過してしまうと、本質から遠ざかりがちなのはガチ!?っぽい。

そもそも教育機関の利用目的や指導方針には「本質」云々という項目は含まれてませんもんね。

宗教さんの鬼っ子たる科学ちゃんがはやく機嫌を直してくれるといいな。
Posted by otk at 2009年06月14日 20:29
さきほど日本酒を二合飲んで、酩酊していないけれどいい気持ちです。

昼間から酒飲んでいい気持ちになるやつが、「仏教徒の自覚を持つ仏教徒」などでありうるはずはない。

坊主どもの水準も低いけれど、「いくらかでも仏教徒でありたいと願う自称仏教徒」の水準もこんなざま、こんな無様。

釈尊は、比丘にも、在家の仏弟子たちにも、つねに、「努め、励め、怠るな」と説かれました。

でも、坊主も在家も、まるっきり、たるみっぱなし。

はっきりいって、わが国はどう見ても仏教国ではありません。恥ずかしくて、日本が仏教国だなんて、恥を知っていたら、絶対公言できません。

真の仏教徒であることと釈尊の教えを引用できることは次元の違うことです。自覚できるのはこれだけ。
Posted by enneagram at 2009年06月14日 16:30
> 禅に至っては問答のための問答という感じで、あれのどこに救いがあるのかわからない。

問答無用

禅はやったこと無いけど「人動かざる事無」を知るに至れば、
不動の成果となり、それを、得たというか捨てたというかは
判らないけれども境界がなくなる。


今日は風が気持ちいい。
Posted by edry(えどりぃ) at 2009年06月14日 15:12
何を今さら・・・
「坊主丸儲け」という言葉が全てを表している
金額に因って戒名の格が変わるなんてそのもっともたる物だ
人の死に関わって「地獄に堕ちる」と脅して金品を巻き上げる
と言うシステムは巷の新興宗教と何ら変わるところ無し

まあ、伝来してきた時点ですでに仏教でもヒンドゥでも無く
中国の道教やらなんやらがミックスされてるわけだからね
宗教の伝言ゲームみたいなもの
その行き着いた先が日本の仏教であり創価学会やオウムのような新興宗教である
Posted by Love Not Found at 2009年06月14日 14:53
日本の寺なんて「興味深い文化ではありました。でももう役目はとっくに終わってるし、僧侶を見ていても見苦しいだけなので、破壊しましょう」で良い気がする。
Posted by 通りすがり at 2009年06月14日 14:18
> 対談にて
>> ああ、あれはヒンドゥーなんです。
> 目どころか全身から鱗が落ちましたね、どさっと。
> 確かにそれなら五六億七千万年後に弥勒菩薩が....なんて話が出てくるわけです。わかります。

初歩的なところを勘違いしていそうだ。。。。

また「知らないのなら、書かなければいいのに」と言われるぞ
実際そういう状況のようだし
Posted by at 2009年06月14日 14:15
>輪廻の輪から抜けるというのが「悟る」ということなのに、寺のシステム
>そのものが輪廻していて悟れるわけがないではないか。

密教も含め大乗仏教では「輪廻からの脱出」という意味での解脱(釈尊の説
いた解脱)は建前はともかく、実態としては目指していないと思いますね。
大乗仏教が目指しているのは生死即涅槃、煩悩即菩提という意味での涅槃で
あり菩提(≒大乗的解脱)ですから。釈尊の教えでは生死(輪廻)から脱出
することが解脱であり、そのために煩悩を滅して菩提を得よと。

ところが、大乗仏教はこれをひっくり返した。輪廻の世界にこそ涅槃を、煩
悩の中にこそ菩提があると(たぶん禅定体験や龍樹の思想に基づいて)言い
切ってしまった。そういった意味では大乗仏教は「釈尊の教え」を継いでい
ないどころか、根幹において否定してしまった。
Posted by rev77 at 2009年06月14日 13:36
>釈迦の教えと違うということは、日本の仏教は原理主義ではないということでしょう。

仏教に原理主義なんてものはありえない。日本の仏教でなくとも。
このエントリーの文章にもそう書かれているでしょう。
Posted by 通りすがり at 2009年06月14日 12:40
仏教を知るにはその歴史をひもとけば
いろいろ見えてくると思います。

密教がヒンドゥー直輸入系と中国経由とがあるように
伝わり方ひとつとっても違いますし

国策としての仏教、民間のための仏教、弾圧と紛争
神仏離令に廃仏毀釈などなど紆余曲折あって

今があるわけですから
一括りで見るより多角的に捉えてみるのも
また仏教を理解する手段になろうかと思います。
Posted by かるら at 2009年06月14日 11:10
「そもそも国策として導入され、広がったという歴史的背景」
           ↓
そういう影響も大きかろうと思います。そもそも、仏教は、奈良時代には、信仰する宗教というより、学習すべき哲学、科学、技術、技能、技法という側面のほうが大きかったと思います。

キリスト教よりも、趣旨としては、仏教は、アリストテレスの哲学に近いのだろうと思います。ただ、そういう風に割り切ってしまうと、浄土真宗や日蓮正宗は、疎外されてしまうだろうと思います。
Posted by enneagram at 2009年06月14日 10:21
そもそも国策として導入され、広がったという歴史的背景もあるのかもしれません。故に、利益共同体としての寺であり、宗派である、と。

また、本来の宗教とは、悟りを得るプロセスにあるように思います。

池田昌子女史の言う、「哲学するとはどういうことか」に相通じる概念というか。
Posted by 鷹司堂後 at 2009年06月14日 10:04
 全ての宗教者(仏教)が、そうではないかもしれないが、私どもの大阪の菩提寺(N宗)の住職は、月参りも来なくて、お盆に1回だけ(それも5分といない)で、寄付とかお布施の金額には敏感で、酒は飲むし、外車を乗り回し、挙句の果てに、厭味を言って帰ると言うエコノミック坊主である。
目立つことは、尻尾を振って何でもするし、寺に少しだけ関係した人の銅像を東京の公園に建てて新聞に載り、悦に入っている。
はたしてこれで、仏教とは?とか、宗祖の思想をどう捉えているのか非常に疑問である。
はたして、宗教者とは何なのか教えて欲しいものです。
また、N宗は、こんな坊主を放置して良いのか?
Posted by 1檀家 at 2009年06月14日 09:08
日本の「仏教」は、中国道教の派生宗教と思うといいんです。

生真面目に釈尊の悟りを追求されている持戒僧の方々も、申し訳ないけれど、道教の道士みたいなものだし、生臭坊主は、中国で言えば、道教系秘密結社が堂々と大通りに「仏教」の金看板を飾りに出してると思うといいんです。

私は、禅宗の檀家だけれど、自分の宗教は、本当のところを細かく詮索すれば、仏教ではなく、道教だといわれてもなんとも思いません。

そういう意味では、ヒンドゥーでさえないですね。中国発の土着宗教が仏教の体裁を借用しているだけ。

でも、釈尊は、慈愛に満ち溢れてらっしゃるから、道教徒が仏教徒を強弁しても仏罰なんか絶対に下したりしません。これは、断言できます。
Posted by enneagram at 2009年06月14日 06:21
宗教なんてある意味商売ですから。

商売ですから、寺を守ることが大目的。
それがいやなら独立すればいい。

釈迦の教えと違うということは、日本の仏教は原理主義ではないということでしょう。
Posted by zzz at 2009年06月14日 01:57