2009年07月14日 00:00 [Edit]
哲学は哲学者より簡単 - 書評 - 中学生からの哲学「超」入門
筑摩書房松本様より定期便にて献本御礼。
こういうのもなんだけど、今まで読んだ哲学書の中で最も面白く、「使える」と感じた。哲学者のための哲学ではなく、Philosophy = 知を愛する人を愛する学が、ここにある。
それと同時に、強く感じたのは、いいかげん「哲学者」だけで哲学を「哲」することにはもう限界があるのではないかということ。「哲学」が「学」の中心となる時代は再び来るのだろうか....
本書「中学生からの哲学「超」入門」は、哲学とはなにか、いや、なぜ哲学なのかを、中学生にもわかるように書いた一冊。哲学というとやたら難解、というより難解のための難解というイメージがあるが、それは単に哲学者が怠慢に由来することが本書を読むとよくわかる。
「ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ」 P. 280わかりやすいといことは、レベルが低いこととはまったく違う。本当に根本的な発見というのは、小中学校の教科書に記されるものなのである。目次
- 1. 自分とは何者か
- 神経症―私はなぜ哲学者になったか
- 欲望論哲学の出発点
- 2 世界はどうなっているか
- 宗教のテーブルと哲学のテーブル
- 哲学のテーマ―「神」と「形而上学」について
- 宗教と哲学の弱点
- 3 なぜルールがあるのか
- 大貧民ゲームで近代社会を体験する
- 4 幸福とは何か
- ガウェインの結婚―「自分の意志を持つこと」
少なくとも、「なぜ哲学か」は、中学生どころか小学生にもよくわかる。本書の各章のテーマについて考えたことがない者はいないだろう。誰もが考えざるを得ないことを考えるのが哲学であり、それゆえこじらせると「中二病」などと言われたりもするのだが、本書は哲学者たちが「中二病」的袋小路をきちんと克服し、そしてその過程が中学生でも追えるほど明快であることをきちんと示している。
哲学者達は、どうやって「アキレスと亀」をはじめとする詭弁を乗り越えたのか。
哲学者達は、どうやって神に引導を渡したのか。
本書を読めば事足りる。哲学者の哲学者による哲学者のための本をひもとく必要はない。
本書の特長は、哲学書の特徴である「誰々はこういった」がほとんどないこと。どの命題もきちんと自分で考えて、自分で答えを出してから、「実は誰々が言っていた」というスタイルをとっている。面白いのは、その過程で、本来反権威主義的であるはずの哲学が権威主義的になる過程もしめされていることで、それをきちんと哲学の欠点の一つとして指摘していること。アインシュタインの「権威のジレンマ」は、考え抜いてやっとたどりつくことが出来る知にはつきもののようだ。
もう一つ面白かったのは、現代の哲学がどの問題に焦点をあてているかということ。哲学と言えば「人とは何か」なのだが、神に引導を渡して以来、現代の哲学では「人々とは何か」に焦点が移っているようなのだ。人はそれだけで人というのではなく、人々の相互作用により人になる。対象そのものより対象どおしの関係を考えるようになったというのは、数学も科学も同様で、哲「学者」でない私はなんだかほっとした。
と同時に、もういいかげん哲学者だけで哲学的問題を考え抜くのは無理なんなのではないかという感を強くした。思えばニュートン以前は、「学」とは哲学のことだった。ニュートン自身、「科学」(science)という言葉を使っていない。自然哲学という言葉を使っていた。そしてこの領域で、「人とは何か」の常識を覆す発見がつぎつぎに起きている。もはや「哲学は哲学、科学は科学」と言っていられないのではないか。
たとえば、「自由意志」。この自由意志がいかに不自由なのかを、最近の脳科学は明らかにしつつある。
404 Blog Not Found:NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」心には、自由意志 = free will はない。しかし自由否定 = free won't なら、ある。
これ一つとっても、哲学は科学を無視できないのではないか。
その逆もまた真なり。科学の発達が今までの哲学の常識を成り立たせなくなっていることも日常的に起きている。「言論の自由」というのは政治哲学の見事な成果であり、そしてそれは我々の社会に立派に応用されているのだが、しかし今度は「言論はどこまで『言論』なのか」という新たな疑問を生んでいる。「URLを掲示しただけで刑事犯?」というのは、リンクは言論なのか行為なのか我々が迷っている証拠である。
哲学者は哲学、科学は科学、そして宗教者は宗教だけをやっていればいい時代は終わっているはずなのに、なかなか専門化から抜け出せない。つらいといえば実につらい時代であるが、面白いといえば実に面白い。かつては哲学者や科学者の思考実験にすぎなかったことが、今や日常的に観察できるのだから。
そういう時代にあって、哲学はもう一度わかりやすさを求められている。科学はこの面で哲学よりずっとましだ。少なくとも「科学は難しいと思われている」という自覚を科学者たちが共有しているという意味において。哲学は科学と同じぐらい切実な問題なのに、この点に関する哲学者たちの怠慢が我慢ならないところまで来ていたところだった。本書に出会って心底ほっとしている。
Dan the Philosophere in its Original Sense
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こういう風に最後に出てくる「俺は大人だよ」的な態度も某掲示板の特徴でしょう。
理学系の研究内容を知ってる?このように原因をよそ
に転嫁してる連中が目に余るから,世間からも狭い
大学業界の中でも嫌われてるんだよ。
出版社とだけ仲良くしてれば良いんだから,よそでは
黙ってれば
>文科省の政策により人文科学の雇用確保しない
ソースは?
こんだけアホ大学が増えてるのに,雇用が確保されていないと?
実用的なもの万歳主義だからかな。それと文科省の政策により人文科学の雇用確保しないから人材の活性化が進まない。
>こういうのもなんだけど、今まで読んだ哲学書の中で最も面白く、「使える」と感じた。
一般書の方が分かりやすくて使えるって、それは一般向けに書かれているのだから、そう感じるのも当たり前なんだけど・・・。学術書は一定の知識を身につけないと、やはり理解できない。本当に面白いものかも「分かりやすい」ものかも判断できない。そこまでのプロセスを放棄して全部おれが分かるようなレベルに持ってこい、と言う。言っとくけど傲慢でしかない。
それとも便宜上、その他科学をひとまとめにして対置してるだけ?。
「誰々はこういった」ってのは、専門や同業に対する予防線の役割が強いんじゃない?。正確な出所なんて一般向けにはそれほど必要ないけれど、その方面の人々から突っ込まれちゃうからね。
「知ったかすんじゃねぇ」とか。「いい加減に書くな」とか。
(ほんとにいい加減な事書いて、かつそれで利益を得ようとする輩もいるからムズいんだけど。真の善人と真の詐欺師は同じこと言う。みたいな。)
予防線を張りすぎると、専門性が高まって一般向けにはなりにくいし、
かといって、そこをはしょると専門からは認められない。
はしょり過ぎると、一般の人(みんな)がわかった気になって暴走しかねない怖さもある。
専門家の悪意ある突っ込みより、「みんな」の無邪気な暴走のほうが恐ろしいのは確実なんだが、
でもだからといって、というよりだからこそ、
突っ込みや揚げ足取りばかりするんじゃなくて、専門性の高さを活かしてフォロウしたげればいいんじゃないのん?。
能力高いもの同士で潰しあいばかりしてないでさ。
あんまり悪意が強いと、ただのやっかみにしか取られないでしょ。
せっかく深い知識があんのに残念じゃんね。そんなの。
しかも、哲学が生活に根付いているフランスが絶対的に立派な国かというと、ちょっと怪しい。
ただ、哲学の不自然さを知るために哲学を勉強するのは悪いことではない、という気はします。あと、日本で哲学のウケが悪い理由を考えたり。
そうでないとただの駄々をこねた赤ん坊だ。学問は全部そういうことだ。
新書は学術書ではないので哲学書ではないですよ。大事なことなんで・・。じゃああんた学会で出された最先端の物理に関する論文が分かんなかったら、「一般書のように分かりやすくしろ!」とか「中学生にも分かるようにしろ」って言うのか?そんなことしてたら、間違いなく学問は終わる。何で哲学ばっかり批判されるのかわからない。
それは負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
勝ち負けとかいう問題じゃないだろ。議論に勝てればそれが真実かどうかはどうでもいい。そういう態度の人にはうんざりです。
知性というものを「知識(情報)がどれだけあるか」ということのみで考え、
その「知識量」という「既得権益」を、わかりやすい本によって凡人が簡単に
手に入れられてしまうことで、自らの(狭っちい)権益が犯されてしまうことに
対するあさましい反発ということなのだろう。
橋本治のような「本物」の天才ほど、誰にでもわかりやすい言葉で
誰もが言えないようなことを言い、誰もが考えられないようなことを考える。
だから、どんな「馬鹿」でも、橋本治の議論を批判することは容易にできる。
だが、簡単に批判され得る存在=馬鹿では決してない。
「本物の天才」ほど、わかられてしまうことに対してナーバスにならない。
知識の量だけで勝負していないからだ。
オリジナリティなど何もなく、こけおどしのために知識武装しているような
浅田彰やスガ秀実程度の連中が、「竹田的なもの」によって
自身のアイデンティティが脅かされるゆえに反発しているのだろう。
中学生にも分かるように説明してね。てか知名度低い人使って、分かりやすく説明しようとする姿勢も垣間見れないのですけども・・・
ところで一般書ほど自分の言ったことに対して無責任なものもないのですよ。
「意識の高い中高生」のレベルに、きちんと理解し得る言葉を届けられないのは
届ける側の問題。届ける側の人間がそのこと(届けるべきことの中身)を
きちんと理解していないか、説明する能力(日本語力を含む)に欠けているかのどちらか
何かにつけ思考停止しやすくわかったつもりになっちゃってる人たちなんだと思う。「はい、あーつまりあなたの言いたいことはこういうことね。」が口癖の人でしょう。
少なくとも「誰にでもわかるように語る」という姿勢は大事なことだと思う。
難しくしか語れないことがある、なんて嘘だね。
「意識の高い中高生」のレベルに、きちんと理解し得る言葉を届けられないのは
届ける側の問題。届ける側の人間がそのこと(届けるべきことの中身)を
きちんと理解していないか、説明する能力(日本語力を含む)に欠けているかのどちらか。
わかりやすいということを馬鹿にする人間は「わかればそれで終り」と考えている人間なのだろう。ほんとうは「わかった」というところから、ものを考えるという行為がはじまるのに。
受験勉強的秀才ほど、「竹田青嗣的なもの」に反発する傾向があるのは面白い。
知性というものを「知識(情報)がどれだけあるか」ということのみで考え、
その「知識量」という「既得権益」を、わかりやすい本によって凡人が簡単に
手に入れられてしまうことで、自らの(狭っちい)権益が犯されてしまうことに
対するあさましい反発ということなのだろう。
橋本治のような「本物」の天才ほど、誰にでもわかりやすい言葉で
誰もが言えないようなことを言い、誰もが考えられないようなことを考える。
だから、どんな「馬鹿」でも、橋本治の議論を批判することは容易にできる。
だが、簡単に批判され得る存在=馬鹿では決してない。
「本物の天才」ほど、わかられてしまうことに対してナーバスにならない。
知識の量だけで勝負していないからだ。
オリジナリティなど何もなく、こけおどしのために知識武装しているような
浅田彰やスガ秀実程度の連中が、「竹田的なもの」によって
自身のアイデンティティが脅かされるゆえに反発しているのだろう。
「わかりやすければいいってもんじゃない」。
それは負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
哲学を真剣に勉強している人は、誰が何を言ったなんてことはひとつの仮設(not 仮説)としてしか扱っていないし、それをぶち壊してやりたくてうずうずしている。
哲学者の語録を集めて、さも金言であるかのように拝む「哲学ファン」と「くだらねぇ」と近寄りもしないアンチ哲学な人々が、哲学を孤立させて、象牙の塔を作ってしまっている。
かといって、哲学が役に立つかどうかっていうのは、エヴェレット解釈が役に立つかどうかと同じ意味で、「役に立たない」というべきだと思う。
立てられた問いに適切に答えても答えられなくても、世界に何の影響も与えないのだから。
ポパーが反証主義を唱えなくても、非科学は間違いなく淘汰されていったのだろう。
「今まで読んだ哲学書」なんてほとんどないでしょ?
「と同時に、もういいかげん哲学者だけで哲学的問題を考え抜くのは無理なんなのではないかという感を強くした」って自分が今気づいたみたいに書くあたりが、ビジネス書だけ読んで読書したつもりになってる人らしさが伝わる。
知らないことや理解できないことを語るのは許すけど 、
それを認めずに、知らないことや理解できなくていいんだ、みたいに価値を転倒させるのやめなよ。
説得力は限りなく小さく出来る
でも「科学」をやってる人の方が詳しいかもよ、科学に関しては。
「脳科学」とか「心の哲学」とかをその根拠にしてくるけど
ぶっちゃけ今一番怪しいっていうか「いい加減にしろ!」って言いたいのが
「脳科学」とか「クオリア」とか「動的平衡」なんですよ。
まあゲームとか本は売れるだろうし、
「ポジティブ思考」の人が増えればいいとは思いますけど。
「知りたいこと」があって、それを知るためにはどうすればいいのかを
本気で考えてる人なら、数学でもない限り、実験しなきゃいつまでも分からないと考えるようになると思う。もしくは、「問い」自体が無効なのかもしれないと気が付くようになると思う。
「思う」ことは誰でも出来るけど「考える」ことは大変だと思う。
ありうる可能性を少しづつ実験などで潰して、本当のことが分かるように
しなきゃいけないはずなのに、
「クオリアを感じろ!」とか「世界は美しいのだ!」とか言われても
それでも専門家なの?って思う一方なんだ。
ちょっとずつでも蓄積や前進がないジャンルは
権威主義と伝統主義と実感主義と腐敗と「機能の軽視」を生むと思う。
小飼弾という人についてはよく知らないが、
この人に対して「人文科学を的外れに批判する人」
というレッテルを貼って、既得権を守ろうとしている人には困る。
そう、哲学ってまさに既得権だよ。「なんかありがたい」とか「歴史がある」とか皆が思ってくれてるお陰で大きい顔ができるジャンル。
そのために、「徹」や「鉄」などのイメージの混入が起きているように感じる。漢字に対して明解な意味を満たしてやることが哲学確立の第一歩でしょう
素数もロクに言えない人に言われてもなぁ‥
こうやって攻撃的なったり、「〜も知らないのに」とか「〜も読んでないのに」とかしか言ってこないので、基本的に哲学とかはもういいやって感じです。使う用語の適用範囲を頑張って明確にすることと、「プラトン的」というような、人物名に頼って何かを説明したと思わずに、小学生にでもわかるようにしてみて欲しいです。多分、「哲学的」とされる「問い」を形作っている自然言語が具体的に何を指しているかを明確にしようとし始めたが最後、「何も言えねえ〜」って感じになると思います。「思想家」や「哲学者」を名乗る人たちに言いたいのは、わざと言葉の定義を曖昧にすることで「論争」やら「未解決の難問」を作り出さないで下さいということ。もっと数学やりましょうよ。数学最高っすよ。本当に、「ネグリに近い」とか「デリダ的」とか、勘弁して欲しい。「人名主義」っていうの?
「テツガク」とか「ゲンダイシソウ」っていう「コミュニティー」の維持が目的化してるように見える、かなり昔から。
普通に、鼻水たらしたガキが「世界ってなんだろう」「命ってなんだろう」
って考えるときに、「ギリシャ」を持ち出す必要はないと勝手に思ってます。ましてフランス人の名前など。
まあできるだけ誰にでも分かるようによろしくう!
ちゃんと読んでます?
by 柄谷行人
てか、哲学は科学無視していますかねぇ……
私の知る限り、哲学は科学とか物凄く好き
ですよ。
エントロピーとか、環境世界説とか、
そういう概念を哲学で活用するのは常套手段ではないでしょうか?
あと、インターネットとか、言語ゲームの極みだと思います。
リンクもその一種じゃないでしょうかね。