著者より献本御礼。

やっとAmazonにも登録されたので紹介。しかし書影も目次も未登録(ここの書影は文春より援用)。「グーグル 既存のビジネスを破壊する」の時と同じだ。これで「新聞・テレビ消滅」と言われたら、文藝春秋よりははるかにネットを活用してきた新聞・テレビに笑われてしまいそうだ。

しかし、努力してもなお、新聞とテレビは消滅を免れない。

それが本書の主張であり、そしてそれが、本書を「グーグル 既存のビジネスを破壊する」以来、著者の手のものとしては最も読まれるべき一冊としている。

本書「2011年 新聞・テレビ消滅」は、マスメディア育ちでネットで開花したジャーナリストによる、マスメディア終了宣言。

目次 - 『2011年 新聞・テレビ消滅』(佐々木 俊尚・著) | 文春新書 ほか | 書籍情報 | 文藝春秋にもAmazonにもないので手書きorz
プロローグ
「アメリカでは二〇〇八、多くの新聞が倒れ、多くの街から伝統ある地方紙が消え、『新聞消滅元年』となった。いままでもそうだったよいうに、アメリカのメディア業界で起きたことはつねに三年後に日本でも起きる」
マスの時代は終わった
新聞の敗戦
さあ、次はテレビの番だ
プラットフォーム戦争が幕を開ける
あとがき

「マスメディア終了のお報せ」ということであれば、本書を待たずともフジテレビ・ライブドア騒動のころからずっとあった。その時の主張は、「マスメディアはネットを知らなすぎる」からというものであったが、本書による「マスメディア終了のお報せ」が決定的なのは、「マスメディアがいくら努力しても、その消滅は避けられない」ことを明らかにしたことにある。

PP. 8-9
実際、アメリカでは新聞の言論はまったく衰退していないが、しかし新聞というビジネスそのものは日本を上回る速度で衰退している。
たとえばアメリカを代表するニューヨークタイムズ。いまもその言論の強さは決して失われていない。さらに言えば日本の旧態依然とした全国紙のようにインターネットを敵視せず、ブログやSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)などのネット論壇を取り込み、インターネットと紙メディアの言論を融合させていくような先端的な試みをさまざまに打ち出している。
しかしそのニューヨークタイムズが、いまや破綻の一歩手前まで追い込まれている。二〇〇九年一月には、「ザ・アトランティク」誌[引用註:「ジ・アトランティック」が正解だがそのまま]がニューヨークタイムズの終焉」という記事を書き、その中で「今年五月には倒産する可能性が高い」と書いた。一千億円以上の負債を抱えており、この中で返済期限が五月にやってくる約四百億円がどうにも調達できないだろうと予測したのだ。

ニューヨークタイムズという会社そのものは首の皮一枚でそれを免れたが、同社の苦境は、同社のネットに対する真摯な取り組みを知っているものにとってやはりショックであろう。結局努力は無駄であったのか、と。

それでは、なぜマスメディアは消滅するしかないのか。

「器」の支配権を失ってしまったからだ。

メディアは、次の三つの要素から出来ていると著者は説く。内容たるコンテンツ。その器たるコンテナ。そして、それを「消費者」に届けるコンベア。かつてマスメディアは、この三つを全て抑えていた。

しかし、インターネットにより、まずコンベアの支配権を失う。そしてYahooやGoogleといった、「増すアグリゲーター」により、コンテナを失う。

そしてコンテナを失うことにより、マスを維持するだけの売上げの見込みが立たなくなったのだ。

インターネットの世界は、残酷なほどスマイルカーブがきつい世界だ。それもきれいなスマイルではなく、片方の口の端がつり上がった「悪人顔」なスマイルカーブである。コンテント→コンベア→コンテナの順に並べると、コンテントには「少し」お金が入る。コンベアには維持費ぐらいしか入らない。そしてどっさりお金が入るのはコンテナだ。

それでは、なぜコンテナの支配権をマスメディアは失ってしまったのか。

コンテナのコストが、劇的に下がったからだ。かつてコンテナというのは、「儲かるけれど、投資も大きい」ものだった。記者に輪転機を買うだけの金はない。しかし、今やコンテナのコストは下手すれば無料である。blogを開設するだけなら無料だし、CMSをまるがかえしてさえ、せいぜい一エンジニア/年程度の費用しかかからない。

その結果、マスメディアが持っていた、「マスメディアに「入信」せざるものコンテント配布するべからず」という特権が失われてしまったのだ。それにより、マスメディアより強いアテンションを集める個人すら登場している。本書によると、本blogもそんな「ミドルメディア」の一つのようだ。

を見ると愕然とする。本blogよりもUVもPVも低いサイトがごろごろしていることに。

こうした流れが峠を越えるのが、米国においては2008年。そして日本においては2011年というのが著者の出した結論である。「ミドルメディア」の一オーナーである私もそれに同意せざるを得ない。

しかし本書はそこで終わらない。より重要なのは、「そしたらどうなる」ということだ。

マスメディアなき世界は、「公正で迅速な報道」なき世界なのだろうか。

そんなことはない、と著者は説く。

今まで「機関」(institution)に属していた記者が、独立(independent)なるだけの話し、だと。

著者自身それを実践しているし、日垣隆 をはじめ、「指名買い」される「記者」は日本においても少なくない。僭越ながら私もその中に入るだろう。マスメディアの消滅は、ジャーナリストの消滅を必ずしも意味しない。むしろ本来の、あるべき姿に戻るだけのである。

P. 231
つまり私たちにとって必要なのは、新聞やテレビじゃない。必要な情報や娯楽、そして国民として知らなければならない重要なニュースにきちんと触れられるメディア空間だ。
だったら私たちの考えるべきことは、新聞やテレビを守ることなんかじゃない。もし新聞やテレビがくだらない記事と俗悪な番組を垂れ流し続けているんだったら、とっとと退場してもらっていい。
そのかわりに、私たち自身が一生懸命考えて、新しいメディアを作っていけばいいのである。

そう。それだけのこと。

マスメディアという「オフィス」がなくなるだけのこと。

仕事するのにオフィスはいらない」のだから。

Dan the Media of His Own